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嘘嫌いの令嬢と、優しい嘘つき

作者: 和泉 穂積
掲載日:2026/05/15

 妻は、嘘が嫌いだった。


 ほんの些細な社交辞令でさえ、セシリア・アシュフォードは好まなかった。


 美しいですね、と心にもない賛辞を向けられれば、彼女は目を伏せた。お会いできて嬉しいです、と言われれば、唇を引き結んだ。あなたのためを思って、と言われた時など、決まって指先から温度が失われるような顔をした。


 だから、社交界の者たちは、いつしか彼女をこう呼ぶようになった。


 嘘嫌いのアシュフォード嬢。


 結婚してからも、陰では昔の呼び名のまま、嘘嫌いのアシュフォード嬢と呼ぶ者がいた。


 彼女自身も、その呼び名を否定しなかった。


「お気遣いは結構です。わたくし、嘘は嫌いですの」


 それが、若い頃の彼女の決まり文句だった。


 その妻が、死の間際に私へ言った。


「ありがとう。最後まで、騙しきってくれて」


 私はその時、初めて知った。


 彼女は、ずっと気づいていたのだと。


     *


 葬儀が終わってから三日が過ぎても、屋敷の中にはまだセシリアの気配が残っていた。


 居間の窓辺には、彼女が好んでいた薄紫の花が飾られている。寝室の椅子には、読みかけの刺繍図案集が置かれたままだ。彼女の書斎には、細い文字で書かれた手紙の下書きが整然と積まれていた。


 セシリアの持ち物は、いつも彼女自身のように、静かに整えられていた。


 何かを隠す時でさえ、彼女はきっと丁寧だったのだと思う。


 だから、机の奥から革張りの日記帳が数冊出てきた時、私は不思議と驚かなかった。


 年ごとに並べられたそれらは、どれも丁寧に紐で束ねられていた。


 驚かなかったのに、すぐには触れられなかった。


 いちばん上に置かれていたのは、濃い茶色の表紙の日記帳だった。角は擦り切れている。鍵はついていなかった。誰かに読まれることを拒むほど閉じられてはいない。けれど、勝手に開くにはあまりに私的なものだった。


 私はしばらく、その日記を前に座っていた。


 窓の外では、春の終わりの雨が降っている。


 セシリアの葬儀の日は晴れていた。彼女らしいと思った。涙を誘うような雨ではなく、眩しいくらいの晴天。まるで、弔問客たちの「お可哀想に」という言葉すら乾かしてしまうような空だった。


 私は、彼女の棺の前で何度も微笑んだ。


 弔問に来た者たちへ礼を言い、娘のリュシエンヌの肩を抱き、義父母を慰めた。


「大丈夫です」


「お気遣い、痛み入ります」


「セシリアもきっと、皆様に感謝していることでしょう」


 息をするように、嘘をついた。


 大丈夫なはずがなかった。


 感謝など、分からなかった。


 セシリアが本当に何を思っていたか、私は最後の最後で分からなくなってしまったのだから。


 ありがとう。最後まで、騙しきってくれて。


 あの声が、耳の奥から消えない。


 細くなった指で私の手を握り、息をするだけでも苦しそうにしながら、彼女は穏やかに笑った。あの人らしい、静かな微笑みだった。


 だが私には、その言葉が刃のように思えた。


 騙しきってくれて。


 つまり、彼女は知っていた。


 私が嘘つきだと。


 彼女が何より嫌っていた嘘を、私は何度も、何度も彼女の前で吐いていたのだと。


 日記帳の表紙に手を置く。


 読むべきではない、と思った。


 けれど、読まなければならない、とも思った。


 もし彼女が私を憎んでいたのなら、私はそれを知らなければならない。もし彼女が最後の言葉で私を責めたのなら、その罰を受け取らなければならない。


 騙していたのは、私なのだから。


 私は表紙を開いた。


     *


 最初の方の日記には、まだ私と出会う前の彼女の文字が並んでいた。


 硬く、端正で、気位の高さと臆病さが同居したような筆跡だった。


『今日も夜会に出た。お父様は、少しずつでも社交界に顔を出した方がいいとおっしゃる。お母様も同じことをおっしゃった。心配してくださっているのは分かる。けれど、わたくしはまだ、あの場の空気が苦手だ』


 私はその一文を見ただけで、若い頃の彼女を思い出した。


 セシリア・アシュフォード。


 アシュフォード伯爵家の一人娘で、かつては誰もが羨む婚約を結んでいた令嬢。


 相手はエドワード・ラングレー。


 ラングレー子爵家の嫡男で、柔らかい物腰と端正な顔立ちを持つ男だった。人当たりがよく、誰にでも優しく、将来有望だと評判だった。


 そして誰よりも、嘘が上手い男だった。


 エドワードは、セシリアとの約束を何度も破った。


 観劇の約束の日には、体調を崩したと言った。


「君に移してはいけないから、見舞いは来ないでほしい」


 領地視察の前日には、父親と急ぎの話が入ったと言った。


「君との時間を軽んじているわけではない。だが、家のことだから分かってほしい」


 茶会の日には、急な来客があったと言った。


「本当にすまない。埋め合わせは必ずする」


 どれも、セシリアが責めにくい理由だった。


 病人を責めるのか。


 家の事情を疑うのか。


 婚約者を信じられないのか。


 そう問われているような嘘ばかりだった。


 少なくとも、セシリアの日記にはそう書かれていた。


 そのたびに、エドワードはヴィオラ・メルローズと会っていた、と。


 ヴィオラは華やかな令嬢だった。


 明るい金髪に、よく笑う唇。涙を浮かべるのが上手く、場の中心に立つのも上手かった。セシリアとは正反対の、甘い言葉を宝石のように身につける女だった。


 やがて裏切りが明るみに出た時、エドワードはセシリアを守らなかった。


 それどころか、ヴィオラが傷ついているように見せるため、セシリアを嫉妬深い令嬢に仕立てた。


 セシリア嬢は疑り深い。


 ラングレー卿を束縛していた。


 メルローズ嬢との間には何もなかったのに、彼女が騒ぎ立てた。


 もちろん、すべて嘘だった。


 けれど社交界は、嘘が好きだ。


 退屈な真実より、面白い嘘を好む。


 だからセシリアは、婚約者に裏切られただけでなく、嘘つきにされた。


 日記には、その頃のことが短く書かれていた。


『エドワード様は、わたくしが信じなかったから壊れたのだと言った。ヴィオラ様は、わたくしの誤解で傷ついたと言った。わたくしは、何度も謝りそうになった。自分が悪いのかもしれないと思った。けれど、違った。嘘だった。全部、嘘だった』


 私はページをめくる指を止めた。


 セシリアは強い人だと思っていた。


 嘘を嫌いだと言い切れるほど、凛とした人だと思っていた。


 だが、そうではなかったのかもしれない。


 彼女はきっと、嘘を見抜く力を持っていたのではない。


 嘘に傷つきすぎて、もう二度と飲み込まれたくなかっただけなのだ。


     *


 私が初めてセシリアを見たのは、王都の春の夜会だった。


 その夜、私はグランヴェル伯爵家の次男として、いつものように笑っていた。


 誰かの機嫌を損ねないように。


 誰かの退屈を和らげるように。


 誰かの言葉の角を、柔らかな布で包むように。


 私は幼い頃から、そうやって生きてきた。


 父と母は、社交界では理想の夫婦だった。


 父は母の椅子を引き、母は父の腕に手を添えた。人前では穏やかに微笑み合い、互いを尊重しているように振る舞った。


 けれど屋敷の中では、二人はほとんど言葉を交わさなかった。


 夕食の席で、母は父を見なかった。父は母の好物を知らなかった。たまに交わされる会話は、使用人への指示か、家名を保つための相談だけだった。


 幼い私は、それが恐ろしかった。


 だから、二人の間を行き来して笑った。


 母の部屋では、父が庭の薔薇を褒めていたと嘘をついた。


 父の書斎では、母が父の選んだ花を気に入っていたと嘘をついた。


 どちらも本当ではなかった。


 けれど二人は、その話を聞いた時だけ、少しだけ穏やかな顔をした。


 だから私は覚えてしまった。


 嘘は、場を保つ。


 嘘は、怒りを遠ざける。


 嘘は、誰かが泣き出す前に差し出せる、便利な布だ。


 その習慣は、成長しても消えなかった。


 怒っていないふりをした。


 傷ついていないふりをした。


 相手が望む言葉を、迷わず差し出した。


 私は社交界で「穏やかなグランヴェル令息」と呼ばれるようになった。揉め事の仲裁を任されることも増えた。


 嘘つきとしては、上出来だったのだろう。


 そんな私の耳に、その夜、凛とした声が届いた。


「お気遣いは結構です。わたくし、嘘は嫌いですの」


 声の方を見れば、一人の令嬢が立っていた。


 淡い青のドレスを着た、細身の令嬢だった。派手ではない。けれど背筋がまっすぐで、視線が澄んでいた。唇には微笑みを乗せていたが、その目は笑っていなかった。


 彼女の前にいる若い男が、気まずそうに頬を引きつらせている。


「い、いえ、私はただ、今宵のドレスが大変お似合いだと……」


「先ほど、あちらで『アシュフォード嬢は何を着ても地味だ』とおっしゃっていましたわ」


 周囲が凍った。


 男の顔から血の気が引く。


 彼女は続けた。


「お世辞を言っていただかなくとも、わたくしは傷つきません。ですが、心にもない言葉を受け取るほど、器用ではありませんの」


 それだけ言って、彼女は頭を下げ、その場を離れた。


 私は、目を離せなかった。


 美しい、と思ったのではない。


 気高い、と思ったのでもない。


 ただ、あの場で嘘を嫌いだと言い切るほど、彼女の中には消えないものが残っているのだと思った。ラングレー卿との婚約破棄の噂は、私の耳にも届いていた。あれだけのことがあれば、嘘を嫌うのも無理はない。


 そして次の瞬間、自分は決して近づいてはいけない相手だと思った。


 私は嘘つきだったから。


     *


 日記の中のセシリアは、その夜のことをこう書いていた。


『また、言ってしまった。お母様は、もう少し柔らかく受け流せばいいとおっしゃる。分かっている。あのような場で正しさを振りかざせば、余計に扱いにくい令嬢だと思われるだけだ。けれど、嘘を笑って受け取ることができない。受け取った瞬間、また自分の感覚を疑ってしまいそうになる』


 その下に、間を空けて続きがあった。


『グランヴェル家のシオン様と話した。穏やかな方だった。社交界の方にしては、言葉が押しつけがましくない。慰めも、同情も、余計な評価もなかった。ただ、「嘘を聞きたくない日があってもいいと思います」とおっしゃった。少し、驚いた』


 私はその夜のことを覚えている。


 彼女が広間を出て、人気の少ない回廊に向かったのを見てしまった。追うつもりはなかった。ただ、休憩室へ向かう道が同じだった。


 回廊の窓辺で、彼女は一人立っていた。


 月明かりの中で、彼女の横顔はひどく疲れて見えた。


「アシュフォード嬢」


 声をかけると、彼女は肩を揺らした。


「……グランヴェル様」


「驚かせてしまいましたか」


「いいえ。お気遣いなく」


 その言葉に、私は微笑みかけそうになってやめた。


 お気遣いなく。


 それは大抵の場合、気遣ってほしい人間が言う言葉だったから。


「先ほどのことですが」


 私がそう言うと、彼女の瞳に警戒が走った。


「お説教でしたら、もう母からいただきました」


「説教ではありません。ただ、あなたが誰の言葉も信じたくないのなら、信じなくてもいいと思いました」


 彼女は黙った。


 私は続けた。


「社交界では、信じるふりが礼儀とされます。ですが、疲れている時にまで礼儀を守る必要はないでしょう」


「……あなたは、不思議なことをおっしゃるのね」


「よく言われます」


 嘘だった。


 そんなことを言われたことは、ほとんどない。


 けれど彼女が表情を緩めたから、私はその嘘を後悔しなかった。


 彼女は私を見上げて言った。


「……あなたは、嘘を飾りに使わない方なのですね」


 その瞬間、心臓が冷えた。


 違う。


 そう言うべきだった。


 私は正直な人間ではありません。むしろ、あなたが最も嫌う種類の人間です。


 そう言うべきだった。


 けれど私は、微笑んだ。


「そう見えるのなら、光栄です」


 それが、セシリアについた最初の嘘だった。


     *


 セシリアとの縁談は、半年後に持ち上がった。


 グランヴェル家とアシュフォード家にとって、悪い話ではなかった。兄が家督を継ぐことの決まっていた私は、爵位を継ぐ立場ではない。だが王宮の文官としての職があり、家格も申し分ない。


 アシュフォード家にとっても、グランヴェル伯爵家の次男である私を婿として迎えることは悪い話ではなかったのだろう。


 婚約破棄で傷ついた娘を、無理に他家へ嫁がせるよりは、よほど穏やかな縁談だった。


 半分は政略。


 けれど、残りの半分に私情が混じっていたことを、私は否定できない。


 セシリアとの面会の日、彼女は初めから静かだった。


「この縁談は、あなたのご意思ですか」


 彼女はまっすぐにそう尋ねた。


 私は困った。


 意思か、と言われれば、意思だった。


 だが家の都合もあった。父から勧められた話であり、私一人の願いだけで進めたわけではない。


 だから私は、嘘にならない範囲の言葉を選んだ。


「少なくとも、望まない話ではありません」


「そうですか」


「あなたは?」


「わたくしも、望まない話ではありません」


 同じ言葉を返され、私は思わず笑いそうになった。


 セシリアは、こちらをじっと見た。


「今、笑いました?」


「いいえ」


 嘘だった。


 彼女の真面目さが愛おしかった。


 けれど、そう言えば彼女はきっと困っただろうから、私は嘘をついた。


 セシリアは疑うように目を細めたが、それ以上は追及しなかった。


「わたくしは、嘘が嫌いです」


「存じています」


「社交辞令も、必要以上のお世辞も苦手です。気難しいと思われても仕方ありません」


「気難しいとは思いません」


「それは本当ですか」


 私は一拍置いた。


 本当だった。


「本当です」


 セシリアは、その日初めて笑った。


 私は、その笑みを見てしまった。


 そして愚かにも思った。


 この人の前では、正直でいたい、と。


 少なくとも、そういう嘘を自分についた。


     *


 日記には、婚約期間のことがいくつも残されていた。


『シオン様は不思議な方だ。わたくしが黙っていても、無理に話題を探そうとなさらない。けれど、放っておかれているわけでもない。沈黙を責められないのは、こんなにも楽なことだったのだと知った』


『今日は庭園を歩いた。シオン様は、薔薇よりも薬草の方に詳しかった。意外だと言ったら、「兄が花を褒める役でしたので、私は葉の方を見ていました」とおっしゃった。たぶん、本当だと思う。あの方の言葉は、なぜかすぐに信じてしまう』


 私は目を閉じた。


 違う、と言いたかった。


 信じないでほしかった。


 私は、あなたが思うような人間ではなかった。


 それなのに、若い日の私は、彼女に信じられるたび喜んでいた。


 婚約してからも、私は嘘をついた。


 彼女が茶会で陰口を言われて落ち込んでいた日、私は言った。


「今日は皆、あなたの率直さに驚いていただけです」


 本当は、笑っていた者もいた。


 彼女の物言いを面倒だと囁いていた者もいた。


 それでも私は言った。


「悪意ばかりではありません」


 本当は、悪意もあった。


 だが、すべてを正直に伝えたところで、彼女の傷が深くなるだけだと思った。


 私はそうやって、自分の嘘を正当化した。


 優しい嘘だと。


 必要な嘘だと。


 彼女を守るためだと。


 そのたびに、どこかで分かっていた。


 私は彼女を守っているのではなく、彼女に嫌われるのを恐れているだけなのかもしれない、と。


     *


 セシリアが私の嘘を、はっきり嘘として見たのは、結婚式の少し前だったらしい。


 日記のページの日付を見て、私は息が止まりそうになった。


 そこには、私の記憶にも鮮明な夜会のことが書かれていた。


 その夜、セシリアは珍しく私より先に会場へ着いていた。


 私は遅れて広間に入り、彼女を探していた。その時、柱の陰でヴィオラ・メルローズの声を聞いた。


「アシュフォード嬢は、相変わらずお堅い方ね。お気の毒だわ。あれでは、ラングレー様も息が詰まったでしょうに」


 周囲にいた令嬢たちが笑った。


 私は足を止めた。


 ヴィオラは続けた。


「わたくしは何もしていなかったのに、あの方ったら、まるでわたくしがすべて奪ったみたいに……。嫉妬というのは恐ろしいものですわね」


 嘘だった。


 少なくとも、私が聞いていた限りでは。


 だが、その場の誰もヴィオラを責めなかった。嘘だと知っている者もいただろう。けれど、面倒を避けるために微笑んでいた。


 私は、その輪の中へ入った。


「メルローズ嬢」


 ヴィオラが振り向く。


 私を見ると、彼女は花のように笑った。


「グランヴェル様。ごきげんよう」


「少なくとも、ラングレー卿ほど分別のある方が、すべてをアシュフォード嬢の嫉妬のせいになさるとは思えません」


 ヴィオラの顔から笑みが消えた。


 周囲の令嬢たちも、息を呑んだ。


 エドワードが本当にそう考えているかどうかなど、誰にも確かめようがない。


 仮にエドワード本人が否定したとしても、彼は「すべてをセシリアの嫉妬のせいにした」と認めることになる。それはそれで評判を落とす。ヴィオラもまた、それ以上セシリアを悪く言いにくくなった。


 私は穏やかに続けた。


「少なくとも、すべてをアシュフォード嬢の嫉妬で片づけるほど、社交界の皆様も愚かではないでしょう」


 ヴィオラは唇を震わせながら、ええ、と答えた。


 私は満足して、その場を離れた。


 その時、回廊の向こうにセシリアがいたことに、私は気づかなかった。


 日記にはこう書かれていた。


『嘘だった』


 その一文だけが、他の文字より強く紙に刻まれていた。


『シオン様は嘘をついた。エドワード様が自分の不実を認めるはずがない。あの人は最後まで、わたくしの嫉妬深さを匂わせていたのだから。だから、シオン様がヴィオラ様に言ったことは嘘だ』


 次の行は乱れていた。


『騙された。ひどい。あの方も嘘つきだった。わたくしはまた、嘘つきを正直な人だと思ってしまった』


 私はそこで日記を閉じかけた。


 胸の奥が詰まって、呼吸が浅くなった。


 読むのをやめたかった。


 これ以上、彼女の失望を見たくなかった。


 けれど、指は表紙から離れなかった。


 騙したのは私だ。


 読むのがつらいなどと、言えるはずがない。


 私は再びページを開いた。


『けれど、分からない。なぜ、あの方はあんな嘘をついたのだろう。わたくしを騙すためではなかった。ヴィオラ様を追い詰めるためでも、たぶんない。あれ以上、わたくしの名を汚されないようにするためだったのだと思う』


 次のページには、数日後の日付があった。


『嘘つきは嫌いだ。今も嫌いだ。けれど、あの時、シオン様が何も言わなければ、わたくしはまた笑いものにされていた。真実を叫んでも、誰も聞いてはくれなかっただろう。あの方は嘘で、わたくしの真実を守った。そんなことがあるのだろうか』


 私は唇を噛んだ。


 セシリア。


 あなたは、その時から気づいていたのか。


 それなのに、私と結婚したのか。


     *


 結婚式の日、セシリアは白いドレスを着ていた。


 豪奢すぎない、彼女らしいドレスだった。長いヴェールの下で、彼女は緊張しているように見えた。


 祭壇の前で、私は彼女に囁いた。


「緊張していますか」


「少し」


 正直な答えだった。


「あなたは?」


「いいえ」


 嘘だった。


 本当は、ひどく緊張していた。


 彼女の手を取る自分が、彼女にふさわしい人間だとは思えなかった。


 だが、私が緊張していると告げれば、彼女まで不安になる気がした。


 セシリアは私を見た。


 目を細める。


 その視線の意味に、当時の私は気づかなかった。


「そうですか」


 彼女はそう言って、私の手を握り返した。


 それから、私はアシュフォード家に婿養子として迎えられ、シオン・アシュフォードとなった。


 結婚生活は、穏やかだった。


 穏やかすぎて、時折怖くなるほどだった。


 セシリアは朝、庭の花を見に行く。私は仕事に向かう前に、その横顔を見つける。夜には同じ食卓につく。


 屋敷の中では、彼女の短い書き置きを見つけることがあった。


 朝の食卓に、私の書斎に、読みかけの本の間に。


 ――今日は雨になりそうです。馬車の膝掛けをお忘れなく。


 ――庭師が今年の薔薇はよく咲くと言っていました。あなたが帰ったら一緒に見たいです。


 そんな短い言葉が、私の一日の隙間に置かれていた。


 娘のリュシエンヌが生まれてからは、そこにもう一人分の名前が増えた。


 ――リュシーがあなたの帰りを待つと言って聞きません。なるべく早く戻ってきてくださいませ。


 彼女が私を待っている。


 ただそれだけのことが、私にはひどく眩しかった。


 ある夜、セシリアは私に「今日は疲れていません」と言った。


 だが、その手元の刺繍は、同じ場所で何度も針目を乱していた。


「嘘では?」


 私がそう尋ねると、彼女は少しだけ困った顔をした。


「……心配をかけたくない時の言葉は、嘘なのでしょうか」


 その問いに、私はすぐには答えられなかった。


 セシリアは相変わらず嘘を嫌った。


 使用人が失敗をごまかそうとすると、静かに叱った。


「失敗より、嘘の方が困ります」


 けれど、昔ほど鋭くはなかった。


 叱った後には、必ず理由を聞くようになった。


 なぜ隠そうとしたのか。


 怖かったのか。


 誰かに責められると思ったのか。


 私は、彼女が変わっていくのを見ていた。


 そしてその変化のそばに自分がいることに、愚かにも安堵していた。


 娘のリュシエンヌが生まれたのは、結婚して三年目の春だった。


 セシリアに似た、薄茶色の髪の女の子だった。目元は私に似ていると、周囲は言った。セシリアはそれを聞いて、得意そうに目元を緩めた。


「リュシーは、君に似ている方が幸せかもしれないね」


「なぜです?」


「あなたは、人に好かれる顔をしていらっしゃるから」


「それは褒め言葉?」


「本当のことです」


 そう言って、彼女は眠る娘の頬に触れた。


 リュシーが五歳の頃、小さな事件があった。


 居間の花瓶が割れたのだ。


 使用人が駆けつけると、リュシーは真っ青な顔で首を振った。


「わたしじゃない」


 その言葉を聞いた瞬間、セシリアの表情が強張った。


 私は慌てて口を開きかけた。


 大丈夫だよ、と。


 子供のしたことだ、と。


 叱らないでやってほしい、と。


 けれどセシリアは、私より先に膝をついた。


「リュシー」


 娘は涙を浮かべて母を見た。


「嘘は嫌いよ」


 セシリアは言った。


 リュシーの目から涙がこぼれた。


「でも、叱られるのが怖かったのね」


 娘はしゃくりあげながらうなずいた。


 セシリアは、割れた花瓶ではなく、娘の手を見た。


「怪我はない?」


「……ない」


「本当?」


「本当」


「なら、よかった」


 そして彼女は娘を抱きしめた。


「次は、怖くても本当のことを言ってちょうだい。お母様は、花瓶よりリュシーの方が大事だから」


 その夜、日記に何が書かれたのかを、私は今になって知る。


『リュシーが嘘をついた。花瓶を割ったことを隠そうとした。昔のわたくしなら、嘘というだけで強く反応してしまったかもしれない。けれど、あの子はわたくしを傷つけようとして嘘をついたのではなかった。怖かったのだ。嘘のすべてが同じ形をしているわけではないと、最近ようやく思えるようになった』


 その下に、彼女はこう続けていた。


『シオン様の嘘も、そうなのだろうか』


     *


 私は、セシリアに真実を告げようとしたことが何度もある。


 私は君が思うほど正直な人間ではない。


 私は君に何度も嘘をついてきた。


 君を守るためだと言いながら、本当は君に嫌われるのが怖かった。


 そう言おうとした。


 けれど、そのたびに言えなかった。


 彼女が茶を淹れている時。


 リュシーの髪を結っている時。


 庭で花を摘んでいる時。


 何でもない夕暮れに、私の帰りを待っていてくれた時。


 壊したくなかった。


 この平穏を。


 彼女の微笑みを。


 私を正直な人だと思っているかもしれない、彼女の信頼を。


 だから、私はまた嘘をついた。


 私が「疲れていないか、セシリア」と尋ねれば、彼女はいつも「大丈夫ですわ」と答えた。


 そのたびに、私は言う。


「無理はしないで」


 自分こそ無理をしているくせに。


 彼女が私に「あなたこそ、お疲れではありませんか」と尋ねた時には、私は笑って答えた。


「平気だよ」


 本当は、王宮での調整事に疲れ果てていた。


「何か悩みがあるのではありませんか」と聞かれれば、「大したことじゃない」と笑った。


 本当は、父と兄の間で板挟みになっていた。


「わたくしに隠していることはありませんか」と聞かれた夜もあった。


 私は彼女を見つめて、言った。


「君を悲しませるようなことは、何も」


 それは、卑怯な言い方だった。


 隠し事はあった。


 だが、悲しませるためのものではない。


 そう逃げた。


 セシリアは、その時も私の嘘に気づいていたのだろうか。


 日記には、その日のことも残っていた。


『シオン様に、隠していることはないかと聞いた。あの方は「君を悲しませるようなことは、何も」と答えた。うまい言い方だと思った。隠し事がないとは言わなかった。嘘をついたのか、嘘を避けたのか、分からない。けれど、わたくしを悲しませたくないのだということだけは分かった』


 次の行は、滲んでいた。


『わたくしは、あの方に何を言ってほしいのだろう。本当のことをすべて言ってほしいのか。嘘を一つもつかないでほしいのか。それとも、ただ、わたくしを大事にしているのだと分かる言葉が欲しいだけなのか』


 私は日記を持つ手に力を込めた。


 彼女は、私よりずっと正直だった。


 自分の怒りにも、迷いにも、愛情にも。


     *


 セシリアの病が分かったのは、リュシーが十一歳になった冬だった。


 初めは、ただの疲れだと言われた。


 セシリア自身もそう言った。


「少し休めば治ります」


 だが、彼女の咳は長引いた。


 熱が下がっても、顔色は戻らなかった。指は細くなり、階段を上がるだけで息が乱れるようになった。


 それまで欠かさなかった朝の庭歩きも、いつしか窓辺から眺めるだけになった。


 読みかけの本には栞が挟まれたままになり、刺繍針を持つ時間も短くなっていった。


 医師は、私を別室へ呼んだ。


 その時点で、私はすでに察していた。


 医師は長い説明をした。専門的な言葉を並べ、薬の効果を話し、療養の必要を説いた。


 結論だけは、言わなかった。


 私は静かに尋ねた。


「治るのですか」


 医師は目を伏せた。


 それが答えだった。


 セシリアには、どこまで伝えるべきか迷った。


 私は当然のように嘘をつこうとした。


 大丈夫だ。


 必ず良くなる。


 長く休めばいいだけだ。


 そう言って、彼女の不安を和らげようとした。


 だが、寝台の上のセシリアは、私を見て言った。


「シオン様」


「うん」


「全部を話してほしいとは申しません。けれど、隠し事は少なめにしてくださいませ」


 私は息を呑んだ。


 彼女は微笑んでいた。


 弱っているのに、昔よりずっと柔らかい顔だった。


「わたくしも、怖いので。すべてを聞く勇気があるわけではありません。でも、あまり綺麗に隠されると、かえって不安になります」


 私は、長い間黙っていた。


 それから、彼女の手を取った。


「……長い療養になる」


「ええ」


「つらい日も、あると思う」


「ええ」


「私は、そばにいる」


 これは本当だった。


 セシリアはうなずいた。


「それなら、十分です」


 それから季節がひとつ、またひとつと過ぎる間に、彼女はゆっくりと弱っていった。


 リュシーは十二歳になった。


 母の病を、子供なりに理解していた。泣きたいのを我慢して明るく振る舞う娘の姿を見るたび、私は胸が痛んだ。


 セシリアは、リュシーに無理な明るさを求めなかった。


「泣いてもいいのよ」


 そう言った。


 リュシーが首を振ると、セシリアは困ったように笑った。


「お父様に似たのね」


「どういう意味?」


「優しすぎるということよ」


 私はその場にいた。


 それなのに、何も言えなかった。


 セシリアは私を見て、笑った。


 その時の笑みの意味を、私は最後まで怖くて尋ねられなかった。


     *


 日記の最後の方は、文字が弱くなっていた。


 それでも、セシリアの筆跡は最後まで整っていた。


『今日はリュシーが泣かなかった。泣きたいのを我慢していた。シオン様と同じ顔をしていた。あの子には、上手に我慢するより、不格好でもいいから泣いてほしい。けれど、優しい子に育ったのだと思うと、嬉しくもある』


『シオン様は、わたくしの前であまり泣かない。泣きたいくせに。昔なら、嘘をつかれたと思って腹を立てたかもしれない。今は、少しだけ分かる。あの方は、わたくしが怖がらないようにしている。けれど、わたくしはあの方の涙も見たい。これは、わがままだろうか』


 私は、視界が滲むのを感じた。


 セシリアの病室で、私は何度も微笑んだ。


 薬が苦いと言う彼女に、次は甘い菓子を用意すると笑った。


 眠れない夜には、朝になれば楽になると言った。


 医師の顔色が暗くても、今日は昨日より声に力があると言った。


 本当のこともあった。


 嘘もあった。


 その境目は、自分でももう分からなかった。


 ただ、彼女の不安を少しでも減らしたかった。


 彼女が眠る時、怖がらなくて済むようにしたかった。


 それだけだった。


 だが、嘘は嘘だ。


 彼女が嫌いだと言ったものを、私は最後まで手放せなかった。


 さらにページをめくる。


『わたくしは、嘘が嫌いだ。今も嫌いだ。それはきっと、死ぬまで変わらない』


 その一文に、私は胸を抉られた。


『けれど、シオン様を嫌いになれなかった。あの方の嘘は、わたくしを騙して都合よく扱うためのものではなかった。わたくしが傷つく前に、尖ったものを布で包むような嘘だった』


 紙の上に、小さな染みがあった。


 インクではない。


 涙の跡かもしれなかった。


『それでも嘘は嘘だ。許したわけではない。好きになったわけでもない。けれど、許せないまま、愛してしまうこともあるのだと知った』


 私は口元を手で覆った。


 声が漏れそうだった。


 セシリア。


 なぜ、言ってくれなかった。


 いや、違う。


 彼女はきっと、何度も言っていた。


 視線で。


 沈黙で。


 日々の小さな言葉で。


 私が、聞くのを怖がっていただけだ。


     *


 セシリアが亡くなる前日の夜、彼女は珍しく窓を開けてほしいと言った。


 春の風が入る。


 細い髪が頬にかかり、私はそれを指で払った。


「冷えるよ、セシリア」


「少しだけでいいのです」


「分かった。少しだけ」


 窓を開けると、夜の匂いが部屋へ流れ込んだ。


 月が出ていた。


 昔、夜会の回廊で彼女と話した夜と、よく似た月だった。


 セシリアは寝台の上から、ぼんやりと外を見ていた。


「シオン様」


「うん」


「初めてお会いした夜を、覚えていますか」


「もちろん」


「わたくしが、嘘は嫌いだと言った夜です」


「ああ」


「あなたは、信じたくないなら信じなくていいとおっしゃった」


「……言ったね」


「あれは、本当?」


 私は答えに詰まった。


 あの時の言葉は本心だった。


 だが、その後の私は、彼女に何度も言葉を飾った。嘘をついた。隠した。彼女が傷つかないようにと言い訳をして、本当のことを遠ざけた。


 だから、簡単に本当だとは言えなかった。


「本当だったよ」


 私は、ようやく答えた。


「少なくとも、あの時の私は、本気でそう思っていた」


 セシリアは小さく笑った。


「あなたらしいお答え」


「ずるい答えかな」


「ええ。少し」


 私は何も言えなかった。


 彼女の手を握る。


 細くなった指は、驚くほど軽かった。


「セシリア」


「はい」


「私は、君に言わなければならないことがある」


 ずっと先延ばしにしてきた言葉だった。


 このまま言わなければ、私は一生、自分を許せない気がした。


「私は、君が思っているような人間じゃない」


 セシリアは、私を見た。


 その目は、嘘を嫌いだと言っていた頃と同じように澄んでいた。


「シオン様」


「うん」


「今は、最後まで聞く力が残っていません」


 胸が詰まった。


「……そうだね」


「ですから」


 彼女はゆっくりと息を吸った。


「最後まで、あなたのままでいてくださいませ」


「私のまま?」


「ええ」


 問い返しても、セシリアはそれ以上説明しなかった。


 ただ、私の手を握り返した。


 弱い力だった。


 けれど、確かに彼女の意思があった。


「シオン様」


「うん」


「わたくしは、今でも嘘が嫌いです」


 心臓が冷えた。


 私は、うなずくことしかできなかった。


「知っている」


「でも」


 セシリアは微笑んだ。


 それは責めるようにも、許すようにも見えた。


 あるいは、そのどちらでもないように見えた。


「あなたの言葉に、何度も救われました」


「……セシリア」


「それだけは、本当です」


 私は彼女の手を握りしめた。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 謝罪も、感謝も、愛の言葉も、どれも遅すぎる気がした。


 セシリアは目を閉じた。


 眠るのかと思った。


 けれど、彼女は最後にもう一度だけ目を開けた。


「ありがとう」


 掠れた声だった。


「最後まで、騙しきってくれて」


 私は息を止めた。


 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。


 騙しきった。


 何を。


 どこまで。


 いつから知っていた。


 責めているのか。


 感謝しているのか。


 それとも、私がそう受け取ることさえ見越して、彼女は最後に何かを隠したのか。


「セシリア」


 呼びかけても、彼女はもう答えなかった。


 そのまま夜明け前、私の手を握ったまま、静かに息を引き取った。


 唇の端には、かすかな笑みだけが残っていた。


 それが私への赦しだったのか。


 それとも、最後の別れに選んだ、彼女なりの優しい嘘だったのか。


 私はその時、何一つ分からなかった。


     *


 最後の一冊の、最後のページに辿り着いた時、外の雨は止んでいた。


 夕暮れの光が書斎に差し込み、紙の端を淡く照らしている。


 最後のページには、日付がなかった。


 けれど、弱った筆跡からして、亡くなる数日前のものだと分かった。


『もし、わたくしが先に逝くのなら、最後に一つだけ嘘をつこうと思う』


 私は呼吸を忘れた。


『そして、その嘘の裏側だけを、ここに残しておく。あなたがいつか読むかもしれない場所に。読まないなら、それでもいい。読んでしまったなら、その時は、わたくしの弱さも一緒に受け取ってほしい』


 文字が揺れていた。


『あなたはわたくしを、最後まで騙しきった。そういうことにしておこうと思う。わたくしが気づいていたことを知らなければ、あの人の罪は、少しだけ軽くなるだろうか』


 次の行は、少しだけ滲んでいた。


『いいえ、きっと無理だ。あの人は、優しい嘘つきだから。わたくしが気づいていたことにも、気づかないふりをしたことにも、きっと泣いてしまう』


 そこが、最後だった。


 私は日記を閉じることができなかった。


 セシリアの最後の言葉は、私を責めるためだけのものではなかった。


 かといって、ただ私を救うためのものでもなかったのだと思う。


 彼女はきっと知っていた。


 あの言葉を聞いて、私が救われきることなどないと。


 それでも、少しでも罪の形を変えようとしてくれた。


 嘘が嫌いなセシリアが。


 私のために。


 たった一つの、優しい嘘を。


「……セシリア」


 名を呼ぶと、声が崩れた。


 涙が落ちて、日記の端を濡らした。


 慌てて拭おうとして、やめた。


 彼女の日記に、私の涙の跡が残る。


 それくらいは、許してほしかった。


 扉の外で、小さな足音がした。


 控えめなノックの後、リュシーが顔を覗かせる。


 十二歳になった娘は、母に似てまっすぐな目をしていた。けれど、泣きそうな時に唇を結ぶ癖は、私に似ていた。


「お父様」


「リュシー」


「入ってもいい?」


「もちろん」


 彼女は書斎に入り、私の手元の日記に視線を落とした。


「お母様の?」


「ああ」


「読んでいたの?」


「……ああ」


 リュシーは迷ってから、私のそばに来た。


 そして、不安そうに尋ねた。


「お父様、泣いているの?」


 いつもの癖で、言葉が喉まで出かかった。


 泣いていないよ。


 大丈夫だよ。


 心配しなくていい。


 けれど、その言葉は声にならなかった。


 セシリアの日記の最後の一文が、胸の奥で静かに開いていた。


 あの人は、優しい嘘つきだから。


 私は目元を押さえ、情けないほど時間をかけてから答えた。


「……泣いている」


 リュシーの目が揺れた。


「お母様のこと?」


「ああ」


 私は、初めて娘の前で上手く笑えなかった。


「お母様のことを、思い出していた」


 リュシーはしばらく黙っていた。


 それから、私の隣に座った。


「わたしも、泣いていい?」


「もちろん」


「お母様は、泣いてもいいって言っていたから」


「ああ」


 私は娘の肩を抱いた。


 リュシーは声を殺して泣いた。


 私は、彼女の頭に手を置きながら、窓の外を見た。


 雨上がりの庭に、薄紫の花が咲いている。


 セシリアが好きだった花だ。


 私はこれからも、きっと嘘をつくだろう。


 生きている限り、誰かを傷つけないために、場を壊さないために、自分の弱さを隠すために、どうしようもなく言葉を飾ってしまう日がある。


 それでも、たぶん。


 すべてを嘘で覆わずに済む日もある。


 泣いている時に、泣いていると言える日がある。


 悲しい時に、悲しいと言える相手がいる。


 それを教えてくれたのは、嘘を嫌い続けた妻だった。


 私の嘘を許したのではない。


 嘘つきの私ごと、愛してくれた人だった。


 私は日記に手を置いた。


「セシリア」


 今度の声は、まっすぐに出た。


「ありがとう」


 今度こそ、嘘ではなかった。

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