葬儀師の砂時計
葬儀師とは、本来故人の死を受け入れるための場を整える者のことを指す。が、これは地上での話。
冥府に籍を置く葬儀師は少し違う毛色を持っていた。
『お呼びでしょうか』
葬儀師カリンの一日は直属の主人――冥王ハデスからの指令で始まる。
『この魂。何か変だ』
冥府の鏡を苦悩の表情で見つめるハデスがカリンに視線を寄越すことはない。
『調べろ』
短くそう告げたハデスが黒革のバインダーを執務机に滑らせた。慌てることなく平静に受け取ったカリンは、二つ折りのそれに挟まれた霊子カルテに軽く目を通す。
『承りました。――マイ・ロード』
退出したカリンは再度カルテを深く読み込んだ。
「イングリッド・ヴァンス――享年六十五歳……」
冥府の鏡の破片が埋め込まれたその頁には、此度の対象魂である女性の生涯が、無機質な数字と記号で羅列されている。
「未練深度、計測不能……」
カルテにはまだ書き込まれるべき『最後の一行』が残されている。その余白に、白く細い指先を滑らせた。
「この数値じゃそりゃ、ハデス様なら『変だ』と仰るわね」
カリンは慈しむように頁をなぞっていた指を離し、革の表紙を重ね合わせた。
「さて――」
向かうは深い霧に包まれた街に在る豪華な邸宅。
そこでは今、強欲な親族たちによる前夜祭が幕を開けようとしていた。
◇◇◆◇◇
巨万の富を築いたイングリッド・ヴァンスの葬儀――その前夜、寝ずの番を務めるのは彼女の親戚たちとその家族だ。
――おいおい、その話まじかよ
――当たり前だろ? 誰があんな女を惜しむってんだ
――泣き女が葬儀にいるなんて、想像するだけで笑っちまうぞ!
広間の床に並べられた高級なエールやワインを煽り、親戚たちは故人の話で盛り上がっている。
寝ずの番の最中、酒を飲み、歌い、時には騒がしいゲームをして過ごすこと自体には何もおかしな所はない。それには、【死の恐怖を追い払う】という意味合いがあるからだ。
しかし、イングリッドの寝ずの番はどうもそれとは違うようだった。
――あのプリンスウッドの土地は、私が管理するのが妥当だろう。
――何だと? 叔母様は生前、私に商会を任せると仰っていたんだぞ? なら、そこも俺が貰い受けるのが筋ってもんだろ?
――ちょっと待ちな二人とも。んな話、聞いたこともないね! それは私んだよ!
イングリッドが眠る棺のすぐそばで、赤ら顔の男女が醜い舌戦を繰り広げている。
その様子からこの別れのために設けられた数日が、彼らにとって悲しみを惜しむ時間ではなく、ただの略奪の宴を開くためのボーナスタイムでしかないことは、火を見るよりも明らかだった。
偲ぶふりをして、その実、遺産の分け前についての算段に花を咲かせているなんて――。
「これは、また……」
なかなかに酷いものだとカリンは独り言ちる。
グラスがぶつかり合う下品な音と、欲望に塗れた罵声。その濁流の中に身を置きながら、カリンは冷えきった吐息を吐き出した。
「う、うわっ!」
薄暗い広間の出入り口に突然見えた人影に、野卑な話に後ろめたさを感じた者たちが過剰に反応した。
「おおおおぉ驚かすなよ!? いつからそこに! 何勝手に入ってきてんだ! 弔問の期間はもう終わったぞ」
親族の男がカリンの肩を掴もうとしたが、彼女はするりと猫のように身体を逸らして、いとも簡単に拘束の手を逃れる。
「失礼致しました。なにぶん遠方に住んでいるもので、イングリッドの訃報を耳にするのが遅れてしまいまして……。時間が過ぎているのは重々承知なのですが、どうか最後の挨拶をさせて頂いても? 彼女には生前大変お世話になりましたので……」
小柄な女がしゅんとすれば大体の男は態度を軟化させるのだと、同僚ヘリオが言っていたのを思い出し、出来る限り『頼みを聞いてあげたくなる女性』を実演してみせる。
「さ、さっさと済ませてくれよ」
鼻の下を伸ばした男を見て、ヘリオの伝え聞き通りの反応が返ってきたことに密かに安堵する。
「お気遣い感謝致します」
「お、おう」
頬を染めてそわそわと落ち着かない男の横を通り過ぎ、棺の前へ足を止める。
「急に逝きやがって、遺言もねーからコイツが置いてったモンで揉めて、最後までいい迷惑だぜ」
執拗に周りを飛ぶ羽虫のように男がカリンに付き纏う。
「ねーちゃんも苦労したんじゃねーか? ほら、まるでこっちを嘲笑っているような、安らかな死に顔だろ?」
忌々しげに吐き捨てる男にカリンは厭悪の眼差しを向ける。
「ヒィッ」
カリンの纏う気迫は圧倒的で、気圧された男の膝が生まれたての子鹿のように笑い出した。
「じ、じゃあ、俺はあそこに戻るからっ」
裏返った声でそれだけ叫ぶと、もつれる足を必死に動かし這う這うの体となって古巣に戻って行った。
再び戻った静寂の中で、イングリッドの安祥とは程遠い死に顔を見つめる。
「……苦労したのね」
彼女は自身の力のみで若くして巨万の富を築きあげた努力の人。決して親しい人を作らず、生涯を仕事に捧げたとな。
彼女がどれほど気を張って闘っていたか。
「最後は過労に倒れるなんて」
カリンは静かに胸の前で両の手のひらを合わせた。
暫しの沈黙が重く場を支配する。
カリンはそう呟き、思い耽るのはカルテに記されたイングリッドの過去だ。
「貴女は何を置いてきてしまったのかしらね」
冥府の鏡片に映った、たった一輪の枯れた花。
それが彼女をこの世に繋ぎ止める、最後の未練に関わることは確かだった。
ーーーーーーー
「親族だけじゃなかったのね」
カリンは教会の隅で影のように佇みながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。
――あぁっ! イングリッド様、どうして!
――私は知っています。とても立派な方でしたわっ。
――突然すぎる別れだった。
――あまりにも早かった……言葉が出ませんね。
泣き女の歌を隠れ蓑に、並べられた椅子に腰掛ける人々が流すのは死者への哀悼ではなく、遺産という名の果実が誰の手に落ちるかを推し量る打算の雫だった。
「とんだ茶番だわ」
短く吐き捨てたカリンの顔はまさに苦虫を噛み潰したよう。
(イングリッドに接触する前にもう少しと思ったけど、これはちょっと……)
情報収集をと思い葬儀に参加したが、これ以上は耐えられそうになかった。
「酔いそう……」
首を横に振って憑いたモノを落とし、魔窟に踏み出す。
「失礼」
打算に満ちた啜り泣きが響く中、カツン、ヒールが石床を鳴らした。
前夜と同じく、棺の前で手を合わせるカリンに刺さるような視線が矢の雨の如く降り注ぐが、彼女は全く意に介さない。
「――。」
カリンは合掌を解くと、その手で首から下げられた鈍い銀の輝きを放つ砂時計を摘む。繊細なアラベスク模様が彫り込まれたプレートに挟まれた星屑のような霊砂が眠るように静止している。
「目覚めの時間よ」
人々の視線が彼女に集まるよりも早く、イングリッドの胸元――止まってしまった心臓の真上に腕を真っ直ぐ伸ばして砂時計を据えると、不思議と喧騒が遠のいた。
細い指先が流れるような所作で砂時計を下球を弾く。
《帰零》
重力を無視するように砂が上へと昇り始めた。
落ちるはずの砂が逆流する度、さらさらと絹が擦れるような微かな音が礼拝堂の空気から色彩を奪い、カリンの瞳だけがそのモノクロームな世界で、冥府の冷たい青を灯して輝いていた。
「な、なんだ!?」
「きゃああっ」
爆ぜるような上昇気流に目を白黒させた参列者が我れ先にと、強風に煽られ開いた扉を目指して走り出す。
自分の足に躓きながら向かうその姿は実に滑稽である。しかし、彼らの決死の逃走も虚しく、退路を塞ぐように扉が開閉を繰り返す。
とてもじゃないが、これでは出られない。
「さぁ起きて」
朝の目覚めの呼びかけのような優しい声にピタリと風が止む。
砂時計から漏れ出した一筋の燐光がイングリッドの肌に触れた瞬間、部屋中の空気を震わせるほど重く力強い鼓動が一つ、カリンに呼応する。
死者の蒼白な頬に、この世の理を無理やりこじ開けたような、赤黒い熱が差し込んだ。それを合図に色を無くした礼拝堂にまた色彩が戻ってくる。
カリンは静かにその時を待つ。
イングリッドの喉が上下した事を見逃さなかった。
(成功ね)
ひゅっと短い音が彼女の喉の奥で響いた後、僅かに指先が動く。死後硬直しかけていた筋肉が砂時計の逆流に合わせて、軋み上げながら生の色を取り戻していく。
カリンは突風で乱れた髪を手櫛で整えると、緊張に背筋が伸びる思いで棺に向き直った。
「………………」
ゆっくりと重厚な扉を押し開けるようにして開かれた瞼から覗いた瞳はまだ焦点が定まらない。
「おはようございます」
カリンの挨拶に応えるように、濁っていた瞳の奥へ意識の光が急速に凝集していく。まるで深い夜の底に沈んでいた宝石を水面へと強引に引き揚げたかのようだ。
「イングリッド・ヴァンス様ですね」
カリンの問い掛けに数度瞬いた後、イングリッドが口を開く。
「……ぁ、」
しかし、彼女の口からは張り付いたような意味を成さない音しか出てこない。慣れた手つきでイングリッドの身体を起き上がらせたカリンは、腰に下げたウォータースキンをイングリッドへ差し出した。
「こちらをどうぞ、聖水です。息がしやすくなりますよ」
当たり前に、イングリッドが訝しむ。
この反応には慣れている。いつもの事だ。
(まぁそうよね。怪しいにも程があるもの)
自分だって嫌だ。と心中で大きく共感する。
「そうね――」
自分が起こした突風で酷い有様の礼拝堂を見渡して、吹っ飛ばしたコップを探すも見当たらない(吹っ飛ばしたのだからそりゃそうではあるが)。
仕方がないので、器代わりに手を丸める。
「――っ。ゴホッ」
注いだ聖水が指の隙間から零れないように、一気に吸い込み、噎せる。
「ケホッ、ね? ゴホ、大丈夫ですよ。――あぁ、今日は一度も口をつけてませんので、ご安心を」
相手は高貴なマダムなので、衛生的配慮も忘れない。
カリンの言葉を信じたのか、あるいは単に喉の渇きに耐えかねたのか。
恐る恐る受け取ってくれたイングリッドにホッとして、カリンは彼女が言葉を紡ぐその時を静かに待った。
「あ……なた、は……」
「はい」
それまで向けられていたイングリッドの視線が自分から逸れたと思うと、彼女は自分の居場所を確認するようにキョロキョロと首を回す。
意識が逸れたからといって、急かしはしない。
彼女の葬儀師としての矜持だ。
決して先を急がずサブジェクトのペースは乱さない。
例え、リミットがあったとしても。
「し、にがみ?」
その細い骨張った指を棺の縁に滑らせた後、イングリッドの視線がカリンに帰る。
「死神」
思わぬ質問に、イングリッドの言葉をそのまま繰り返してしまった。
「女の子もいますのね」
控えめに笑うイングリッドには申し訳ないが違う。
「残念ながら(?)、私は死神ではありませんね」
「……違うのですか? では、私は――」
所在無さげに胸元をぐしゃりと鷲掴むように撫でるその仕草にカリンは引っ掛かりを覚えたが、後に続いたイングリッドの言葉にその考えはすぐに霧散した。
「私は、死にきれなかったの……?」
「正確に言えば、貴女は一度死にました」
「じゃあ……?」
なぜ、と小さく続けた彼女の疑問は最もである。
「生前に落し物は御座いませんか?」
「……落し物、ですか?」
困惑の表情でイングリッドがまた胸元を搔き撫でる。
「ここではなんですから、少し場所を移動しましょうか」
イングリッドは目覚めたばかりなので、慎重に慎重を重ねて手を引く。有難いことに、起き抜けとは思えぬほど足取りがしっかりしている。
「あの、この子たちは――」
扉をくぐる前にイングリッドが足元を見て言葉を濁す。
「はい? あぁ」
イングリッドの視線の先には、ピタリと風が止んだ後に棺から蘇ったイングリッドに泡を吹いて気を失ってしまった参列者たちがいた。
(これではないのね)
カリンは床に転がる屍に冷めた目を送る。
本来、巻き込んだ人間は放置してはならないのだが、どうもその気になれず、放ったらかしにすることにした。
後で始末書だろうが、甘んじて受け入れよう。
「多分眠いんですよ」
今大事なのは目の前の対象魂である。
葬儀師カリンの仕事はここからが本番だ。
ーーーーーーー
「さて、イングリッド・ヴァンス様。改めまして、私、死後の世界で葬儀師をしておりますカリンと申します」
カリンが丁寧な所作で頭を下げているこの場所は、街の外れに在るコーヒーハウスだ。
店のマスターは客に対して適度な距離を保ち、付かず離れず。イングリッドはこの街に留まらず周辺地域にさえ顔が知れ渡っている程の富豪だが、好奇の目を向けてくることもない。
事前調査で目をつけていたのだが、やはり当たりだったよう。
「はぁ……」
イマイチ、ピンと来ていないという様子で曖昧な返事が返ってくる。
無問題。これも想定内だ。
「死後、の……葬儀屋ですか」
「はい!」
反応があったことに思わず机を乗り出して前のめりに応える。勢いがあまり、膝をテーブルの裏にぶつけ微妙に悶絶したのはご愛嬌だ。
「ひとつ言及するとすれば、仕事の在り方でしょう。彼ら葬儀屋が地上で『天への花道を整える』ならば、私たち冥府の葬儀師は『未来への道筋を整える』のが、仕事といいましょうか」
白磁のカップから立ち昇る白銀の湯気が薄暗い店内のわずかな光を吸い込み、まるで意思を持つ生き物のようにゆるやかに優雅に宙へと溶けていく。
(あ、茶柱)
カリンは持ち上げて、ふわりと香るその懐かしい匂いに酔いしれた。
味は記憶よりも一癖も二癖もあるが、疲れた体を癒すのにはちょうど良い苦味だったりする。
「未練を残した迷える御魂のお悩みの解決にお供を致しまして、清々しい気持ちで来世への門をくぐって貰うのが私たち葬儀師の使命であります」
カリンの説明にじっと耳を傾けていたイングリッドが徐ろに、静かに――だが確かな重みを持って口を開く。
「つまり――」
彼女の持ち上げたカップを満たす琥珀色の水面から顔を出す湯気は重く濃密だった。焙煎された豆の香ばしさが熱気となって鼻腔を擽り、眠っていた女帝の思考をじわりじわりと起こし始める。
「未練がある魂は天には行けないと」
「ご明察です」
カリンはイングリッドの鋭い眼光に男社会で生き抜く女実業家の仮面を見た。誰も内側へは踏み込ませまいとする堅牢の扉が確かにある。
「それで私には未練があると?」
カリンがただの小娘ならば、イングリッドの相手を射る目におそれをなしたことだろう。しかし、それ以上に怖い人を知っているカリンにとっては、あってないようなものなのだった。
脳裏をよぎったその人に背筋が冷えるが、顔には出さない。
「貴女へお訊きしたことを覚えていらっしゃいますか」
「訊いた――。あぁ。『落し物』の事、かしら?」
大袈裟なくらいに首を縦に大きく振る。
「はい。その『落し物』のことです。イングリッド様が人生という長い道のりの途中で、うっかり置き忘れてきてしまった――」
すっかり生前の調子を取り戻して隙の無くなったイングリッドを注意深く観察しながら、カリンは少しの変化も見逃さないために言葉を慎重に選ぶ。
「――一番大切な、心の欠片のことを指すのですが」
ソーサーに伸ばされたイングリッドの手に震えが入る。
「あの、ひとつ気になるのだけれど」
「何でしょう?」
イングリッドが見やるのはカリンの手元。その表情は若い少女の行先を心配するような暖かい。
無理もない。それはひとえに、カリンが頼んだ『リョクスイ』が高級品だからだ。
「……カリン様。それ、『リョクスイ』でしょう? お支払いは?」
伊達に女実業家として成功していない彼女は、この嗜好飲料の価値をよく知っている。
「経費で落ちるので、お気になさらず」
イングリッドの懸念を他所に、カリンは最後の一滴までリョクスイを飲み干した。最後の渋味がなんだか癖になりそうな気がする。
「それより、イングリッド様」
カップを戻したカリンは机に肘を付いて手を組みイングリッドを見据える。イングリッドが話をすり替えることで、自分の意識を逸らそうとしていた事を正しく理解していた。
「――どうです?」
彼女が起きた直後は遠慮気味に行ったが、彼女のような『出来る人』には、優しい応対は逆効果だ。
「流されてくれないわね」
少女の見た目年齢に似合わない貫禄を直に受け、イングリッドは諦めたように笑った。
「この職に就いて長いですからね」
平然と言いのける葬儀師にイングリッドは目を伏せて頷いた。
(もう一押しね)
物事を客観的に見る俯瞰力には自信があるカリンだ。これまでの経験で培ってきた観察眼を遺憾無く発揮する。
「葬儀師は全ての魂の前に現れる訳ではありません」
「未練ある魂のみでしたわね」
「はい。とはいえ全ての未練ある魂とは行きません。外道の未練なんて、我々も知ったこっちゃないので」
イングリッドに今必要な言葉は何か、カリンには手に取るように分かった。
「その中で私は貴女の時間を巻き戻した。それは何故か」
彼女には未練を吐露する理由が必要なのだ。
「貴女にはその資格があるから。遺恨を遺して、消えてはならない。形を失った魂ではもう二度と触れられないものがあるのです。器を戻し、お手元にそれをお返しするのが葬儀師の仕事だからです」
静寂の中にロングケースクロックの腹の底に響くような深く重厚な低音が十二回鳴り渡る。
もう正午だ。
「イングリッド」
鐘の残響が消え、代わりに不気味なほど微かな絹が擦れるような音が響く。カリンの首元、砂時計の中では星屑のような霊砂が重力に逆らって上球へ昇り続けていた。
「生前に落し物は御座いませんか?」
ーーーーーーー
霧を含んだ空気が陽光の暖かさを拒むように冷たく湿っている。
「孤児だったのよ」
しっとりと濡れて鈍い銀の鏡となった石畳が二人の足影をぼんやりと映し出し、歩みを進めるたび鳴る硬い音が空に溶けていく。
「まだ乳飲み子だったうちに教会の前に捨てられて、幼少期はずっとそこで過ごしたわ。別に恨んではいないけれど、いい思い出ではないのは確かね」
搔き抱くようにイングリッドが自身の肩を上下に撫で下ろした。
「貴女は知っていて? 鞭打ちや暴力は日常茶飯事なのよ。排泄物まみれの状態で放置されたり、ね」
ぽつぽつと話し始めた彼女の過去は、子供が経験するにはあまりにも酷な内容だった。
霊子カルテで事前に知っていたことだが、本人から聴くのは重みが違う。そこには、情報からのみでは受け取れない感情が確かに存在するのだ。
「後から知ったことだけれど、私がいた都市部の《捨児養育院》は特に酷かったのよ。管理者や職員による女子孤児への性的搾取だって、横行していたのだもの」
カリンはただ首肯した。
イングリッドは幼少期から言葉では言い表せないほどの辛酸をなめてきた苦労人だ。今の彼女には、どんな相槌も陳腐に響くだろう。
「そんな時、耐えきれなくなってとうとう抜け出したことがあったのよ。無謀だと思うでしょう? なんの力も持たないただの子供以下の子供が、生きていける訳がないのに」
角を曲がった先に佇む花屋の前で二人はやおら足を止める。まるでこの街の冷たさを拒絶するように、そこだけが濃密な花の香りと生命の熱を放っていた。
「これいただいても?」
イングリッドが迷いなく選んだのは、隅の方にひっそりと置かれた花だった。それは、カルテにも映し出されていたあの花だ。
「あいよ。また珍しい花を選ぶな? 一輪でいい――」
受け取ろうとした店主の動きが石像のように凍りついた。
手渡されようとした花が震える指先から石畳へと滑り落ちる。
「イ、イングリッド……さま……」
喉の奥から絞り出された乾いた引きつけのような声には、敬愛でも嫉妬でもなく、純粋な『異物』への恐怖が乗っていた。
「く、来るな! 死者が俺の元を訪れるなんて、なんて悪夢だっ」
直接的なその言葉と畏怖の視線に晒されたイングリッドは、悲しむでも怒るでもなく、ただ自嘲気味に口角を上げた。
「驚かせてごめんなさいね。……お代は」
「私が」
カリンは地面に落ちたその花を拾い上げると、イングリッドに手渡し外で待つように促す。
店先に出た彼女を確認して、カリンは代わりに対峙した。
地面に尻餅をついた店主の前に片膝を着き、顔の前で手を数度往復させる。
「違うか」
目を剥いて気を飛ばしているようで反応は微塵も返っては来なかった。その手に銅貨を握らせて店を後にする。
「行きましょうか」
「何度もごめんなさいね。先程も払わせてしまったし……」
「いえ、後で上に請求するのでご心配には及びません」
イングリッドがふと足を止めて隣を歩く少女を見下ろした。
「あなたは、怖くないの?」
「怖い?」
その質問に首を捻りながらも、カリンは思い至った事を正直に答える。
「上の者に怒られることには、もう慣れましたね」
カリンが恐怖を感じるとするならば、それはハデスから雷を食らった時くらいだ。
「そうではないわ。死者と歩くことよ。今の私は、この世の理から外れた化け物でしょう?」
イングリッドの瞳には、巨万の富を築いた権力者の影はなく、叱られるのを待つ子供のような怯えが浮かんでいた。
先程の花屋の店主の反応が心に澱みを生んでしまったのだろう。
「まぁ私自体が化け物みたいなものですしね」
実際、サブジェクトにそう言われたこともある。
「お揃いってことでどうでしょう」
「おそろい――すてきね、それ」
カリンの能天気な返答に目を丸くさせたイングリッドが一歩遅れてくすくすと柔らかな忍び笑いを漏らした。
「はぁ……。聞いてもらってもいい?」
「ええ」
言葉は多くないが、なんの事かは話の流れで容易に想像がつく。
「もちろんです」
努めて、カリンは落ち着いた声色で先を促した。
「このお花ね、貴女はお名前知ってるかしら」
「あ、そうそう。気になっていたんですよ」
イングリッドの手の内に収められた一輪にカリンが目を向ける。
「スノードロップよ」
「スノードロップ」
お辞儀をするようなうつむき加減に撓垂れた茎の先に、丸みを帯びたしずくのような純白の花弁が特徴的なスラリとした花。
「可愛らしい名前ですね」
その愛らしい名前に違わず、イングリッドの歩みに合わせて、耳飾りのようにゆらゆらと揺れる様子がとても優美だった。
「でしょう? この花、春を告げる妖精って言われているのよ」
「神秘的ですね」
「えぇ、ほんとに――飛び出したあの時、死んでいたら知らず終いだったわ」
あの時とは、孤児院を抜け出した時のことだろう。
イングリッドが懐かしむようにスノードロップの花弁に指先で優しく触れる仕草にカリンは見惚れた。
「冬の、うんと寒さが辛い日でね。猛吹雪に空腹はさすがに堪えたわ。でも孤児院に戻る選択なんて寸毫もなかった。そうする位なら、このまま死んでやるってね」
半歩前を歩いていたイングリッドがピタリと足を止めた。
カリンの場所から彼女の表情ははっきりと読み取ることは出来ない。
ただひとつ、何処かまだ迷っているという――これが自分の落し物なのか、決めかねているように見えた。
(大丈夫よ)
カリンができることは、そっと背中を押してあげること。
「でも?」
「――でも、私は救い上げられた。スノードロップを私に教えてくれた老齢の庭師によって、ね」
過去を吐露する間、外敵から身を守るように強ばらせていた雰囲気が、途端解けていく。
「失意の私に彼は自分の食事を分け与えてくれた。それだけでも信じられないことなのに、加えて厳しい冬を越すために「春にはこの花が咲く。だから生きなさい」――彼はそう言って、スノードロップの花言葉を教えてくれたの」
それがどれ程の勇気を彼女に与えたかは、他の誰にも測ることなど出来やしない。
「私の未練は彼に逢いに行くことよ」
カリンに振り返ったイングリッドは、不退転の決意を抱いているように見えた。今まで何処かまだ濁ったままだった瞳には光を宿している。
(貴女は、これほどまでに美しい瞳を隠し持っていたのね)
それはまるで、北の夜空に揺らめく光のカーテン――極光を映したかのように爛然と輝いていた。
彼女の瞳は世にも美しい碧翠眼だった。
ーーーーーーー
目的地の入り口である門が見えたとき、イングリッドが小さく噴き出した。
「ふふっ、おかしいわね。あんなに広い屋敷で、金貨の山に囲まれていたときは一秒も笑えなかったのに。何も持たないままの今が一番軽いわ」
その無防備な表情は、今日カリンが初めて目にした彼女の血の通った人間らしい顔だった。イングリッドからはどこか吹っ切れたような清々しさを感じた。
「あぁ……ここよ」
とある荒れ果てた――それは貧民墓地だった。
イングリッドは朽ちかけた木製の十字架が目印の共同穴を通り過ぎたその端、ひっそりと小さな墓石が立てられた前で膝を着く。
「ここだけ切り離されているんですね」
本来、名もなき死者たちが積み重なるこの場所で、誰かの切実な執念が残した忘れ形見のように見えた。
「えぇ。おじ様は大きなお屋敷で庭師をしていたから、そこのご主人がご好意でね」
水分を含んだ湿り気のある土に汚れる事も厭わず、ただ一心にその墓碑を見つめる。
「おじ様――随分とご挨拶が遅れてしまいました」
スノードロップを墓前に捧げたイングリッドの眼差しには拭いきれない暗い後悔が見え隠れしていた。
「私は……。私は、当時運良くとある豪商の養女として引き取られて、そのチャンスに藁をも掴む想いだった」
カリンへ向けての懺悔ではなく、それは明確におじ様に向けられていた。
「おじ様が亡くなった時、成功に固執するあまり大きな商談を優先して葬儀に行けなかった。――いいえ、行かなかった。それどころか貴方が眠るこの場所を……。知らなかったとはいえ開発のために取り壊す計画を立ててっ」
糸が切れたのではない、もっと巨大な何かがイングリッドの中で決壊した。彼女の瞳からハラハラと涙が停めどなく流れ、土を瞬く間に濡らしていった。
「私は……わ、たしは……」
震える呼気がやがて慟哭に変わる。
心の奥底で耐えていた堤防が崩れ、とうとう子供のように声を上げて泣きじゃくった。
カリンは言葉をかける代わりに、波打つ背中のすぐ隣へ音を立てずに膝を折り、両の手のひらを合わせる。
指先が吸い付くように隙間なく重なったその時、彼女の纏う空気が湖の凪のように静まり返った。
「それは、何かのまじない?」
瞼を持ち上げたカリンは合掌を解かずに答える。
「私の故郷の作法です。右手は――神を。左手は自分自身を。二つを合わせることで、一つに繋がるのだと言われています」
カリンの内にある想いが指先を通じて静まり返った心へと溶け込み、灯火となって満ちていく。
「一つに?」
「はい。それが繋がった時、御魂が迷わず天へ導かれると言われています。あとは、感謝を伝える時にもこうして手を合わせたりもしますよ」
「感謝――」
両の指を固く結ぶ風習が根強いこの世界で、指の隙間なく両手を重ねる構えはとても異質だった。
「そんな考え方があるのね……」
イングリッドは逡巡した後、カリンに倣い胸の前で恐る恐る手を合わせた。
「いま――」
言葉を切った、彼女の声にならない叫びのような、けれど澄み渡った祈りがカリンに流れ込んでくる。
(今の、私があったのは、貴方のお陰です)
霊砂の最後の一粒が昇った――。
◇◇◆◆◇◇
「ふぅ……」
カリンはリフレッシュルームに設置されたソファへずしりと体を沈めると、天井を仰ぎ目を閉じる。
「おっ。よう、カリン。今回の対象魂はどうだったよ」
「あぁ、ヘリオ――」
背もたれの縁に頭をだれさせたカリンの無防備な額を同僚のヘリオが気安く弾いた。
「うがっ、ぁぁぁぁ……」
いつもならそれに軽くやり返す位のことはするのだが、そんな気力は残っておらず。
「まぁた要らん事したんだろ? 聞いたぞー、また突風を起こしたって。冷めてるように見えて、血が昇るとすぐこれだからなぁ。――お? やけにへばってんじゃん」
やりかえすどころか、今度は頭を抱えるように俯いたカリンを訝しみ、ヘリオは彼女の前にしゃがみ覗き込んだ。
「酔ったか」
「酔った」
潔い白旗にヘリオが呆れたように笑う。
「よし、手ぇ出せ。ヘリオ様がいいものをやろう」
「いいもの?」
ガサゴソとポッケを漁り取り出したのは、シガレットケースだった。
中身の想像がついたカリンは露骨に顔に嫌悪を滲ませる。
「要らないわよ。辞めたと思ったのに、一体いつからそんなもの――」
「おいおい、シガーじゃねーぞ?! 辞めろって言ったから辞めたんだからな! 今は空箱使ってるだけだって!」
華奢な白い手を掴んだ彼は、シガレットケースから取り出した小さな包み紙を小さな手中に納める。
「ほれ、これ」
言葉と共に不意に伸びてきた骨ばった手が、カリンの髪をわしゃわしゃと優しく乱した。
「じゃ、俺もいっちょやってきますか」
「行ってらっしゃい」
「おー」
颯爽と去るヘリオを見送り、受け取った包みを開ける。
「あ……キャラメル?」
ここに来てからは初めて見る四角い物体に目を瞬かせ、口に放り込む。
「ん! おいし」
想像通りの甘塩っぱい甘味に口元を綻ばせたカリンは、霊子カルテを抱えてヘリオとは逆方向へ歩き出した。
◇◇◆◆◇◇
部屋はひっそりと薄暗く、オイルランプの柔らかな灯りがカルテの羊皮紙を琥珀に染めている。
カリカリというクイルペンの音が、静止した時間の中を穏やかに流れた。
「ふぅー……」
冥府の職員にとって、カルテとは単なる処理済みの記録に過ぎない。未練の解消が終われば、その頁は閉じられアーカイブの闇に放り込まれる。しかし、カリンはクイルペンを手に取り、イングリッドのカルテの末尾に「最後の一行」を書き添える。
『――未練の解消を確認。対象魂は笑顔で帰零に至る』
それは、ハデスも、ヘリオも、誰一人として重視しない、カリンだけの葬儀師としての儀式だった。
「おかえりなさい、イングリッド。そして――おやすみなさい」
その時まで。
「あ、ハデス様に領収書渡さなきゃ」
~完~




