『205号室の午後 ―一真のまなざし―』 —
【1】足音
あの日も変わらず、静かな午後だった。
読んでいた本を閉じ、少し伸びをする。
窓の外では、鳥が鳴いている。
そういえば、そろそろ来るころだ。毎週、決まってこの時間。
“宅配便の人”。
まだ名前は知らない。
けれど、以前とは違って、最近来る人は——若くて、ちょっと無口な人だった。
ドン、と階段を上がる足音。
迷わずこちらの方へ向かってくる気配がして、わたしはそっと立ち上がる。
ピンポーン。
「……はい」
受話器越しに答える。少しだけ、喉の奥が乾いていた。
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【2】まっすぐな眼差し
扉を開けた瞬間、今日の空気が違うのに気づいた。
彼が、何かを観察するようにこちらを見ていたからだ。
一瞬だけ、その視線に戸惑う。
「ごくろうさま。……サインは、こちらで?」
そっと手を伸ばすと、彼の指に少し触れた。
冷たかった。手先が冷えているのか、それとも——
「……あ、冷たい」
とっさに、そんなことを口にしてしまった。
彼が戸惑うのがわかった。ああ、余計なことを、と心の中で思う。
「ごめん。今日、ずっと手が冷たくて。室温、下げすぎたかな」
言い訳のように笑って、彼の反応を見る。
でも彼は、それ以上、何も聞かなかった。
「……どうも」
頭を下げて帰っていく背中は、妙に律儀で、でもなぜか——
また来る気がしてならなかった。
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【3】気配
それから、彼は定期的にやってきた。
荷物はいつも同じようなもの。紅茶、花、本。
たまに届く、誰からかの小さな手紙。
そして彼は、いつも扉の前で、ほんの少しだけ間を置くようになった。
呼び鈴の後、返事をしても、すぐには喋らない。
わたしが「こんにちは」と言えば、「あ、はい……」と、やや遅れて応じる。
人見知りだな、この人。
でも、不器用なやさしさが、仕草の端々にある気がしていた。
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【4】言葉が重なる日
ある日、彼が言った。
「黒瀬さんって、お茶、好きなんですね」
その声は、ほんの少し緊張を含んでいて、でもまっすぐだった。
「好きです。ひとりでも、ちゃんと淹れるの。なんでもない午後でも、ちゃんと続けるのが、私なりの暮らし方」
その言葉に、自分でも驚くくらい自然に答えていた。
他人に語るほどのことでもないのに、なぜだろう。
彼には、ほんの少しだけ、話したくなってしまう。
——わたしの、空白の時間のこと。
——誰も知らない、午後のこと。
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【5】誘い
次の配達の日。荷物を受け取ったあと、
彼がふと玄関にとどまっていた。
わたしのほうが、自然に口を開いていた。
「……よかったら、今度、お茶でも飲んでいって」
彼は驚いたように目を見開いた。
でも、すぐに頷いた。
「いいんですか?」
「ええ。……ちょっとだけ、ね」
扉を閉めたあと、わたしはカップを選びながら、
ふと、笑っている自分に気づいた。
——たぶんもう、あの午後から決まっていたのだ。
——この人が、わたしの「暮らしの中」に、入りはじめていたこと。
—
(了)




