『205号室の午後 ―プロローグ・はじまりの午后―』 —
【1】最初の配達
はじめて「205号室」という数字を目にしたのは、春の終わりだった。
桐島慎吾が、異動で新しいルートを任されたその日。
午後の配達先にあった、築年数の古い団地——「日の出第二団地」。
そこは、坂の多い住宅街のなかにぽつんと残る、昭和の空気をそのまま残したような場所だった。
エレベーターはなく、外階段の踊り場には錆びた自転車。
慎吾は、肩に荷物を担ぎ、2階まで小走りで上がった。
「……205号室、黒瀬一真様」
初めてその名を読む。
名字も名前も、読みやすく、けれど印象に残る響きだった。
インターホンを押す。
——静かな間。
「……はい」
低く、けれど柔らかい声が聞こえた。
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【2】開いた扉
ガチャリ。
扉が開いたとき、慎吾は思わず視線を止めた。
白いシャツにベージュのカーディガン。
細身の体つきと、どこか色気を感じる仕草。
“あれ……? 奥さん、じゃない……?”
一瞬戸惑ったが、受け取りの手がすっと差し出された。
「ごくろうさま。……サインは、こちらで?」
「……はい、お願いします」
その指先が、慎吾の手にかすかに触れた。
体温は、ひんやりとしていて——けれど、どこか懐かしいような感覚が胸に残った。
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【3】特別な部屋
その後も、慎吾は定期的に205号室へ配達に訪れることになった。
紅茶、花、書籍。どれも、控えめだが丁寧な暮らしを想像させるものばかりだった。
黒瀬一真はいつも変わらず、静かに笑って受け取るだけ。
けれど、慎吾は少しずつ、自分がこの部屋の前だけで**「言葉を探すようになる」**ことに気づいていた。
「……黒瀬さんって、お茶、好きなんですね」
何気なく言ったとき、黒瀬はふっと笑って、答えた。
「好きです。ひとりでも、ちゃんと淹れるの。なんでもない午後でも、ちゃんと続けるのが、私なりの暮らし方」
「……なんか、いいですね、そういうの」
それが、慎吾が自分から話しかけた最初の会話だった。
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【4】沈黙の中で
言葉は少なかった。
でも、慎吾は自分でも知らないうちに、配達の時間を少しずつこの部屋の前で「使う」ようになっていた。
「また、荷物です。……この銘柄、前にもありましたね」
「覚えてたんだ?」
黒瀬が、微笑む。
「君、記憶力いいのね」
「……たぶん、特定のことだけです」
——たとえば、この部屋の匂いとか。
——たとえば、あの人の声の調子とか。
まだ名前で呼ぶほど親しくもなく、
まだ立ち話を長く交わすほどでもない。
けれど、ふたりはすでに、お互いの午後の記憶に、静かに入り始めていた。
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【5】はじまりの午後
ある日、黒瀬がぽつりと言った。
「……よかったら、今度、お茶でも飲んでいって」
慎吾は驚いたが、すぐに頷いた。
「いいんですか?」
「ええ。……ちょっとだけ、ね」
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それが、あのガラスのティーカップの午後へとつながっていく——
誰にも知られず、静かにはじまった、205号室の午後の、ほんとうの始まりだった。
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(了)




