『205号室の午後 ―秋の章・しばしの別れ―』 —
【1】知らせ
10月の終わり、慎吾はいつものように205号室の前に立った。
けれど、今日はどこか、胸がざわついていた。
「……ああ、ごめん。ちょうど連絡しようと思ってた」
黒瀬が出迎えると、静かに言った。
「しばらく、ここを離れるの」
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【2】理由
「親戚が倒れてね。郊外のほうで少し暮らすことになったんだ。世話をしながら……たぶん、ひと月くらい」
紅茶の湯気の向こうで、黒瀬はどこか遠い目をしていた。
慎吾は一瞬、言葉を飲み込んだ。
そして、無理に笑った。
「……そっか。じゃあ、その間は、荷物もお休みですかね」
「うん。配達も、午後の紅茶も、おあずけ」
ふたりは、少しの沈黙の中に座っていた。
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【3】言えなかったこと
帰り際、慎吾は言いかけた。
「……じゃあ、また、帰ってきたら」
「うん。戻ったら、連絡するね」
ドアを閉める直前、黒瀬がそっと付け加えた。
「……待っててくれる?」
その声があまりに優しくて、慎吾は胸の奥がふわりと熱くなるのを感じた。
「……待ちますよ。ちゃんと、ここで」
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【4】不在の午後
それからの日々、慎吾は205号室の前を通るたび、無意識に足を止めてしまう。
窓のカーテンは閉じたままで、あの甘い紅茶の香りもしない。
だけど、ドアの前には、まだ夏の名残の風鈴が揺れていた。
まるで、「帰ってくるよ」と言ってくれているように。
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(つづく)
『205号室の午後 ―秋の章・ただいまの紅茶―』
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【1】帰ってきた気配
11月の半ば。木々の葉が色づき、団地の風が少し冷たくなってきたころ。
その日、慎吾はいつものように団地の配達を終え、ふと205号室の前を通った。
カーテンが、開いていた。
いつもの、レースの白が、窓のなかでふわりと揺れている。
「……戻ってきたんだ」
慎吾は一度通り過ぎてから、足を引き返してインターホンを押した。
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【2】ただいま
「……はい」
その声を聞いた瞬間、慎吾の胸が高鳴った。
ドアが開く。
いつもより少しだけ痩せたように見えたが、黒瀬はそこにいた。
「おかえりなさい」
慎吾が言うと、黒瀬は少し驚いた顔をして、それから笑った。
「……ただいま」
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【3】間に合った秋
室内は以前と変わらず、整っていた。
テーブルには、まだ入れていないティーポット。
慎吾が座ると、黒瀬はそっと立ち上がった。
「今日は……アールグレイ。季節、過ぎないうちに飲もうと思ってた」
ティーカップに注がれた湯気が、ほんのり柑橘の香りを運ぶ。
「久しぶりですね、こうして一緒に飲むの」
慎吾が言うと、黒瀬はうなずいた。
「一ヶ月、ずっと長かった。君の声が恋しかったよ」
「俺も、つい配達ないのに205号室見ちゃって……。変わらないでいてくれて、よかった」
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【4】それだけで
言葉は多くなかった。
でもふたりは、その静けさの中に、確かなものを感じていた。
帰ってくること。
変わらずに、ここにあること。
誰にも知られない静かな関係が、またひとつ深くなったような午後。
黒瀬が言った。
「……君が待っててくれたの、嬉しかったよ」
慎吾は、そっとティーカップを置いて、まっすぐに答えた。
「帰ってきてくれるって思ってましたから」
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窓の外では、風に乗って色づいた葉が舞っていた。
季節はもうすぐ冬へ向かう。
でも、205号室には今日も温かな紅茶の香りが満ちていた。
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(終)




