『205号室の午後 ―秋の章・金木犀の手紙―』 —
【1】秋の匂い
10月の初め、慎吾は配達の途中でふと足を止めた。
団地の古い通路に、ふわりと漂う甘い香り。
金木犀の花が、あちらこちらの植え込みでこぼれるように咲いていた。
「……205号室、そろそろかな」
毎年、この匂いが漂いはじめると、黒瀬の部屋には少しだけ季節の装いが加わるのを慎吾は知っていた。
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【2】季節の茶
「いらっしゃい。今日は配達じゃなくても、歓迎するよ」
いつもの微笑みと、ほんの少し温かみのある声。
テーブルの上には琥珀色の紅茶と、秋の果物——洋梨と柿のスライスが並んでいた。
「今日のは、ダージリン。秋摘みって、知ってる?」
「……春とは違うんですか?」
「うん。少し深くて、落ち着いた香り。季節に合ってる」
慎吾はゆっくりカップを傾けた。ほんのり渋みと甘さの残る味。
「……なんか、大人な感じです」
黒瀬はくすっと笑った。
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【3】書きかけの便箋
ふと、窓辺の棚に置かれた便箋に気づいた慎吾。
「手紙、書いてるんですか?」
「うん。……毎年、この季節になると書くの。出さない手紙」
「誰に?」
「昔の友達。……もう、会わない人。でも、季節が変わると、ふと、声をかけたくなる」
黒瀬の声は穏やかだったが、どこかに寂しさがにじんでいた。
「……俺も、たまに昔の友達の夢を見ます」
「夢の中って、不思議と会えるよね。記憶じゃなくて、もっと曖昧で優しい場所で」
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【4】風にまかせて
その日、慎吾は便箋を一枚もらって、帰り際にそっと鞄に入れた。
「……じゃあ、俺も今度、誰かに書いてみます。出さない手紙」
「ふふ、それいいかも」
団地の坂道を降りるとき、慎吾の胸にはまだ金木犀の香りが残っていた。
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(終)




