『205号室の午後 ―夏の章― 風鈴と白いシャツ』 —
【1】夏の団地
蝉の声が、朝から絶え間なく鳴いていた。
アスファルトが熱を持ち、団地の廊下も蒸し暑い。
慎吾はTシャツに汗を滲ませながら、いつものように階段を上がる。
インターホンを押す指先が、わずかに湿っていた。
「……はい」
応答の声は、いつもと同じ。
でも、聞こえてくる空気が、どこか重たく感じた。
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【2】午後の部屋
扉を開けた一真は、薄い白いシャツを羽織っていた。
いつものように整った身なり。でも、少しだけ息が浅い。
「大丈夫ですか? 顔、赤いような……」
「ちょっと、夏バテかも。ごめん、扇風機壊れちゃってて」
「それ、やばいですよ。……買ってきましょうか?」
「ふふ、大丈夫。今日は来てくれて、それだけで涼しくなったから」
慎吾は思わず目をそらした。
そんな風に笑われると、身体の内側がかえって熱くなる気がした。
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【3】風鈴の音
しばらくして、慎吾は勝手に近所の電器屋で小さな扇風機を買い、一真の部屋に置いた。
「これで……少しは涼しいはずです」
「ほんとに優しいね、君は。……お礼に、かき氷でも食べる?」
キッチンでごそごそと音がする。
ほどなくして出てきたのは、削られた氷に蜂蜜をかけただけの素朴なかき氷。
「冷たい……でも、うまいです」
「でしょう?」
二人の背後で、窓辺に吊るされた風鈴が、からん、と鳴った。
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【4】夜の縁側
その夜。
慎吾は配達を終えてから、もう一度205号室を訪ねた。
「……来ちゃいました」
「来ると思ってた」
そう言って、一真は冷えた麦茶を差し出した。
窓を開け放った和室には、夜風が吹き抜ける。
縁側に並んで座ると、外から団地の子どもたちの花火の音が聞こえた。
「俺、小さいころ、線香花火が怖かったです。すぐ終わっちゃうから」
「……君らしいね。そういうとこ、ずっと変わらないでいてね」
ふたりの腕が、少しだけ触れていた。
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【5】真夏の告白
ある日、慎吾はふと思い立って、風鈴を一つ贈った。
透明なガラスに、青い波の絵が描かれたもの。
「……これ、夏が終わったら、俺が預かります。次の夏まで、ちゃんと保管しておきますから」
「なんで?」
「また来年来るための“口実”にします。黒瀬さんに忘れられないように」
一真は、風鈴を光にかざしたまま、そっと笑った。
「……忘れるわけないよ、そんな人」
その声に、蝉の鳴き声が一瞬だけ遠ざかった気がした。
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【6】八月の終わり
八月の最後の日。
風が少し涼しくなってきて、団地の廊下に秋の気配が混ざりはじめる。
慎吾は、そっと一真の部屋のドアをノックした。
「……もう秋ですね」
「うん。……でも、ここにはまだ、夏がいる」
部屋の隅で、青い風鈴がかすかに揺れていた。
午後の光に、二人の影が重なる。
夏は終わるけれど、
その季節の記憶は、ちゃんとここに残っていた。
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(終)




