『205号室の午後 ―番外編― 海沿いの光』 —
【1】潮風の匂い
列車に揺られて三時間。
降り立った駅は、青い海がすぐそばに見える小さな港町だった。
春の終わり、海風はまだ少し冷たい。
けれど陽射しは柔らかく、光の粒が海面に散らばっていた。
「……こんなに静かなとこ、初めてかも」
「いいね。潮の匂い、落ち着く」
ふたりはリュックを背負って、予約していた古民家の宿へ向かう。
坂道を下ると、海がゆっくりと広がった。
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【2】古民家の宿
泊まったのは、築七十年という元漁師の家を改装した小さな宿だった。
木の廊下、擦りガラス、風の抜ける縁側。
部屋には、海を望む小さな窓がついていた。
「こういうところ、黒瀬さん、好きそうだなって思って」
「……ふふ。思った通り、好き」
宿の主は、無口だが優しそうな老夫婦。
ふたりが並んで歩く姿を見て、静かに微笑んでいた。
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【3】午後の散歩
昼下がり、海沿いの道を歩いた。
釣り人がぽつりぽつりと並び、カモメの鳴き声が遠く響く。
波打ち際まで降りると、砂はまだ冷たく、裸足には早すぎた。
「……何もないのが、いいですね」
「うん。東京の音が遠くなる」
ふたりは漂着した貝殻を拾いながら、波を避けて歩いた。
風が吹くたび、一真の髪が揺れる。
慎吾はそれを、何気なく目で追っていた。
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【4】海辺の食堂にて
夕方、灯りが点き始めた港町の食堂で、地魚の定食を食べた。
女将が「恋人同士かい?」と笑いながら大盛りにしてくれる。
慎吾は少し照れ、一真は「内緒です」と冗談めかして返す。
店の窓から、オレンジ色の海が見えた。
「こういうの、続くといいな」
「うん。でも、たぶん……続けるものなんでしょうね、こういうのって」
慎吾は頷きながら、一真の箸の進み具合を見て、こっそり自分の煮魚を半分移した。
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【5】夜の浜辺
夜、宿に戻ったあと、一真が「少しだけ歩こう」と言った。
ふたりは懐中電灯を持って、浜辺に出た。
誰もいない夜の海。
波の音だけが、絶え間なく打ち寄せている。
「昔、海が怖かったんです」
「なんで?」
「広すぎて。何も返してくれない気がして。
でも今は、ちょっとだけ、平気になった。こうして誰かといると……怖くなくなるから」
慎吾はそっと一真の手を握る。
「怖かったら言ってください。俺、たぶん、海よりしつこいから」
一真は笑った。ほんの少し、涙ぐんだような顔で。
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【6】帰り道の白い貝
東京へ戻る日、ふたりは港の店で、白く小さな貝のオブジェを買った。
「これ、205号室に置いてください。たまに見て、思い出してもらえるように」
「……慎吾くん、ずるいですね」
「何がですか」
「ちゃんと、“また来よう”って言わずに、それを置いていくところが」
「……じゃあ、今言います。また来ましょう」
「……うん、絶対」
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【7】静かな午後の部屋
数日後の205号室。
窓際に置かれた白い貝が、柔らかな陽射しを受けて光っている。
紅茶の香り。
波の音は聞こえないけれど、心の奥にまだ残っていた。
ふたりは静かにカップを傾けながら、あの夜の海を思い出していた。
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(終)




