『205号室の午後 ー番外編ー 旅路の途中』 —
【1】発車時刻
五月の終わり、梅雨入り前の澄んだ青空。
桐島慎吾は、少し緊張した面持ちで新宿駅の改札に立っていた。
手には小さな旅行バッグ。隣には、淡い色のシャツを着た黒瀬一真が立っている。
「……ほんとに行くんですね、俺たち」
「ええ。あなたが“どこか行こう”って言ったんでしょう?」
「冗談かと思ってたんですよ。いつも部屋で紅茶飲んでるのが日常って感じだったから」
黒瀬は少し笑った。目元が、陽に透けている。
「時には、知らない場所で、同じ紅茶を飲んでみたくなるんですよ」
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【2】電車の窓
特急列車の指定席、窓際の二人分。
慎吾は落ち着かない様子で、車窓に映る景色を眺めていた。
一真は膝の上に文庫本を開いているが、ページは進んでいない。
「……なんか、旅行っぽくないですね、俺たち」
「どうして?」
「もっと、喋ったりとか、テンション上がったりとか……そういうの、ないのかなって」
一真はページを閉じた。
「こうして、静かに並んでるのが私たちらしいでしょう。言葉がなくても、景色が共有できる」
「……ああ、そうかもしれないですね」
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【3】湖の午後
目的地は、長野県の小さな湖畔の町。
観光地とは少し違って、静かで、風の音がよく聞こえる。
「わ、空気うまっ」
「湖はいいですね……この匂い」
「黒瀬さん、こういうとこ来るの、昔から?」
「……いいえ。ずっと、部屋の中にいた。ひとりで。それが“似合う”って、誰かに言われたから」
慎吾は黙って、小道に咲いていた野の花を一本折った。
「似合うとか、似合わないとか、関係ないですよ。来たかったら、来てよかったんですよ」
花を差し出すと、一真は少し照れたように受け取った。
「ありがとう、慎吾くん」
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【4】宿の夜
宿は小さなペンションだった。
夕食を終え、夜風に当たりながらベランダに出る。
一真が、缶ビールをひと口だけ飲んだ。
「普段は、誰かと泊まるなんてしなかった。怖かったから」
「なにが?」
「夜って、親密になる代わりに、なにもかも見えてしまうから。隠してるものまで」
慎吾は、一真の肩にそっと手を添えた。
「俺、もう見ましたよ。弱いとこも、影も。でも、それでやっぱり好きだなって思ってます」
「……ほんと、ずるいな、慎吾くんは」
そう言って、一真は目を伏せたまま、慎吾の肩に寄り添った。
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【5】旅の終わり
帰り道の電車は、少しだけ混んでいた。
それでも、ふたりは並んで座っていた。
黒瀬がふと、ぽつりと言った。
「このままどこか、遠くまで行ってしまえたらいいのに」
「行きますか、また今度。仕事の休み、取れるかわかんないけど」
「……ふふ。でも、それがいいんですね。戻る場所があって、また来ようって思えることが」
慎吾は、頷いた。
「また来ましょう、次は季節を変えて」
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ふたりの旅は、特別なことを何もしなかった。
でも、特別な時間だった。
部屋の紅茶と同じ香りが、知らない湖畔の空気にも、ほんのり溶けていた。
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(終)




