『205号室の午後 ― 続編 ―』
つづきになります
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【9】落ち葉のことば
秋になると、団地の坂道は落ち葉で埋もれていた。
慎吾は仕事帰り、手ぶらで205号室のチャイムを押す。
扉を開けた黒瀬は、栗色のカーディガンを羽織っていて、少し髪が伸びていた。
「……いい匂い。何か焼いてます?」
「アップルケーキ。紅玉が手に入ったの」
キッチンには甘くて酸っぱい香りが漂っていた。
慎吾はコートを脱ぎながら、ふと呟く。
「こういう日、昔は誰と過ごしてたんですか?」
黒瀬はオーブンの前で、一瞬手を止めた。
「ひとりだったよ。でも、いつも“誰かがここにいたら”って想像してた」
「じゃあ、今はその想像の中の人と、少しは違う?」
「……うん。君は、思ってたよりずっと真っ直ぐで、ずっと不器用で、ずっと……あたたかい」
二人はテーブルを挟み、焼きたてのケーキと紅茶を囲んだ。
「君が来てから、私はちゃんと“今日”を思い出すようになった。
昨日の後悔でも、明日の不安でもなくて、“今”をね」
秋の陽がゆっくり傾いて、窓辺を金色に染めた。
慎吾はふと、その静けさごと愛おしいと思った。
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【10】冬のあしあと
冬がやってきた。
団地の空気は冷え込み、朝には霜が降りる。
慎吾は、毛布を抱えて205号室を訪れた。
「なにそれ」
「古いやつですけど……黒瀬さん、寒がりじゃないですか」
黒瀬は笑いながら、毛布を両手で受け取った。
「……こういうの、泣きそうになるね」
「泣くほどですか?」
「うん。だって、私が“何もいらない”って思ってた頃に、誰かがこうして、何かをくれるなんて思ってなかったから」
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年の瀬が近づき、団地には遠く除夜の鐘の練習音が響いた。
「慎吾くん、今年、ありがとう」
「来年も来ますよ?」
「……来年の話、してくれるんだね」
「ずっとここに来ます。配達でも、そうじゃなくても」
黒瀬は、慎吾の隣に寄り添った。
「なら、来年は、もう少しちゃんと君の隣にいてもいいかな」
「そのつもりで毛布持ってきたんです」
雪の気配のする空を見上げながら、二人はひとつのブランケットを肩にかけた。
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【11】春の名前
桜が咲いた。
団地の中庭には、子供たちの笑い声が戻ってきていた。
205号室の窓からも、その景色が見えた。
黒瀬は、慎吾の手に一枚の手紙を差し出した。
「これ、書いてみたの。今の私が、昔の私に宛てた手紙」
慎吾はゆっくりと開いた。
「あなたは、誰かを失って壊れたけど、また誰かと出会って、生きてる。
もうひとりじゃない。もう“団地妻”でも、“誰かの幻”でもない。
ちゃんと、“黒瀬一真”という名前で、誰かに呼ばれてる。」
「……これ、自分に?」
「うん。でも、きっと君がいなかったら、書けなかった」
慎吾は、ふと彼の名前を口にした。
「黒瀬一真さん」
「……はい」
「呼ぶたびに、ちゃんと“あなた自身”として見てますよ」
一真は微笑んだ。
その微笑みは、かつての影を含んだまま、けれど確かに今を生きていた。
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【12】終章・205号室の光
ある午後。春の光が差す205号室。
ふたりは何も言わず、並んで座っていた。
ティーカップには、少し冷めた紅茶。
窓の外には、新緑の風。
「……あの日、インターホンを押してくれてありがとう」
「こちらこそ、扉を開けてくれて、ありがとうございました」
ふたりは笑い合い、そしてしばらく沈黙した。
けれどその沈黙はもう、寂しさを含んでいない。
名前のない関係は、ゆっくりと形を変え、
誰にも知られない団地の一角で、
確かにそこに“生きている”という居場所になった。
205号室の午後。
それは、ふたりにとって、ずっと静かな愛の時間であり続ける。
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(終)




