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目覚め

体を屈めないと入り込むには難しいハッチをくぐり抜け伏せていた顔を上げると、今まで見ていた白の世界とは一変しコンクリートがむき出しの部屋が現れた。正面の壁には小さなガラス窓の下に肩幅ほどのカウンターがあり、まるでスポットライトのように照らされた背もたれのない椅子が置いてある。エイチは4、5歩ほど前に進み椅子に腰掛ける。正面の窓の内側は真っ暗で何も見えない。ボーっと照明に照らされながら上を見上げると、2098と書かれたプレートの下に拳ほどのサイズの四角い黄色のランプが消灯した状態で佇んでいた。ここまでの道のりは絶妙なタイミングで案内されスムーズにやってこれたのだが、椅子に座って待っていても次のアクションが一向に始まらない。エイチは飲食店でも中々待てるタイプではあるが、流石にAIに文句を言おうとしたその時、頭上のランプが点灯し眼の前の小窓の奥がぼんやりと見え始めた。小窓の向こう側もこちらと同じ様にコンクリートがむき出しの部屋のようだがかなり狭い。面会専用なのだろう。2人の人間が入るのがやっとの広さだ。向こう側の扉が開きあちらのほうが明るいため、こちらからみると黒い人影が扉の向こうから出てきた。人影は徐々に色味を増し、ヒゲこそ生えているがエイチの記憶している懐かしい顔が現れた。胸には2098と印字されたグレーのつなぎのような服を着ている。収監と聞くと食事が満足にできず窶れた姿を想像していたが、どうやら栄養状態は良好のようだ。あちらも同じ背もたれのない椅子が置いてあり、ジョンソンは小さな太鼓を小股に挟み込むように椅子に座った。座るために少々俯いていたのだが、何を考えているのだろうか、叱られた子どものように腰掛けた後も顔を上げずに座っている。


「―2098、エドガー・ジョンソン、面会時間は1時間となります。不正行為を確認した場合は途中で打ち切ることがありますので、ご了承ください」


事前に聞いてはいなかったが、面会時間は1時間のようだ。エイチは何を会話するのか話の組み立てもできていない状態でやってきたが、これだけの時間があれば余裕を持って話ができるなと踏んでいた。アナウンスの終了とともにジョンソンは顔を上げた。




「やぁ、元気かい?その顔を見ると食事はできているようだね。―突然来てしまってごめんね。収監施設なのに、友達の家に行くつもりで、手土産買っちゃうところだったよ、ハハハ」


何を緊張しているのか、エイチは自分でも咄嗟に出た言葉に驚くくらいくだらない冗談が口をついて出てしまい、台本でも作ってくればよかったと恥ずかしくなった。


「私も初めて来たんだけれども、真っ白な空間でとても清潔な施設なんだ。他の収監者もどれほど居るかわからないんだよね」


こちらは冴えた冗談とともに聞き覚えのある懐かしい声でジョンソンは返した。ただエイチの知っている頃、仕事も家庭も順風満帆な時代の明朗快活な語り口ではなく、一歩引いて落ち着き払った語り口へと変化していた。しばらく会っていないので、こんなものかと思っていたが、この落ち着いた語り口は、あの時夢の中で聞いたジョンソンの旋律そのものだった。思い返してみればエイチのイメージの中には無かったはずで、やはり夢ではなかったのだと確信へ一歩近づいた。


「この前、別所と君の家に行ってきたんだ。君のお母さんが手伝いに来ていたよ。奥さんも娘さんも元気だったよ」


家族の話題になってもジョンソンは顔色一つ変えなかった。エイチは彼の雰囲気から、相当な覚悟を持ってここに居るのではないかと思えてきた。逮捕され仮収監施設に居るために、これからの刑期に対する覚悟ではなく根拠はまったくないが、これからどうなるか家族や身の回りの人々がどの様になってしまうのかを全てわかった上で覚悟を持って事を成し遂げた人物の佇まいが伺いしれた。




「別所さんと一緒にギターも弾けなくなったな。会社にも迷惑はかけたと思ってる。多分エイチに月行のお鉢が回ってきたんじゃないか?」


ジョンソンはエイチよりも2歳年下なのだが、エイチと職場で出会った頃、エイチのことを彼と同じ歳だと思い込んでいたらしい。エイチはというと、ジョンソンが2歳年下ということを知っていたが、話の何処かで気づくだろう、気づいたときのリアクションが楽しみで自らは口に出さないでいた。そしてジョンソンが思い込みをしたままプロジェクトが終了した。その後、なにかの拍子に本当のエイチの年齢を知ったそうだ。確かアニクが話したとか言っていた。その時のリアクションはどうだったのだろうか、その場に居合わせられなかったのがエイチの心残りでもある。次に会った時には『さん』付けで呼ばれたのだが、もはや、こちらの呼び方のほうがしっくり来ないし、エイチやジョンソンほどの年齢ともなると2歳違いであろうと同年代で括られる。エイチも程度の差はあれ、呼ばれ方に強い拘りもないため彼には前のままでいいよと伝え今の呼び方になった。エイチは1時間は長いと考えていたが、仮収監所での生活や今の会社の状況、最近の出来事など病床に伏した友人にお見舞いに来たような面持ちで2人は話を弾ませ、あっという間に30分ほどが過ぎてしまった。




「月のプロジェクトは順調なのかい?昨日ニュースで見たんだ。仮収監所では見られるみたいなんだけど、本収監になったら見られるかどうか。ルナエンジがディープスペースを吸収したらしいね。そうなるとあのエンジンもルナのものになるのか」


ディープスペース社はイオンエンジンでは後発になるが、ルナエンジ社より推力が1.3倍で、安定化率もルナエンジ社に並ぼうとしていた。軍事ロボットも手掛けており、シェアこそ及ばないが、これからルナエンジの軍需部門を脅かす存在になると思われていた。エイチはディープスペース社の話題が出たことで急に心がざわつき始め、両腿の中に手を組み収めていたが、組んだ手を解き両手の指先の腹を合わせ両親指をクルクルと回し始めた。エイチの同様とは裏腹に、引き続き落ち着き払った語り口で


「―僕が動くのはちょっと早かったかな。フフフ。そんなことないか。偶然かな?その時が彼だっただけだがね。僕はパイオニアなのかも知れないな。もっと増えてくれば何をしたいかわかってくるかもね」


そう言うと、ジョンソンは俯いた。エイチは彼が何を言っているのか具体的には理解できなかったが、犯した殺人のことについて語っているのは分かった。一つ一つについて掘り下げても何も実りがないと思い話を進めた。


「君に会いに来た理由は、先日君が夢に出てきたんだ。その夢も妙なもので、現実に起こったことのように進行していた。君がニュースになって強く意識するようになったからかもしれないけど、その言葉の中に君が奥さんに話していたことも含まれていたりして―」


「アンリさんはなんて言っていたのかい?エイチも鋭くなったんだから逢えたんだと思うけど」


その言葉にハッとした。自分の夢の中を彼は知っている。エイチのイメージの中に確実に彼はいたのだ。


「君はどうしてあの時私に潜り込んできたんだ?私にどうしてほしいんだよ!訳のわからないことばかり言っちゃてさ!君をここから出すことはできないし君がなぜこんな事をしたのか―。家族のこと考えたことあるのかい?君の存在が彼女たちから消えてしまうんだぞ!?」


エイチは、揺るがない事実を突きつけられ、しかもその事実は理解の範疇を超えていることから、つい感情的になってしまった。


「―そんな事はわかっているよ。エイチよりもずっと。だが、不思議と後悔の感情は私の深海のどこにも見当たらない。これが適合しているということなのかもしれない。大きなシステムの一部の仕事をしただけだ」


「仕事!?殺人がか!?君は本当にどうかしてしまったのか?」


「僕とあの時会話できたんだ。エイチもそのうち解ってくるさ。自分の深海を知り、相手の深海も見えてくる。僕は新たなフェーズに来たと思っているよ。あれはエイチのイメージでもあり、僕のイメージでもあった。時間も伸びているじゃないか。時空が、次元が変化している証拠なんじゃないか」


本当にどうかなってしまったのか。エイチはアメリカ宇宙局が発表しているし時間が伸びていることは事実だが、これに紐づけて自分の犯した罪を正当化しているような事を言っているジョンソンに吐き気がするほどの嫌悪感を抱いた。なぜ彼がここまで変貌してしまったのか、かつての彼の人間性も知っているだけに嫌悪感の後には悲しさが湧き上がり、目の奥がじんわりしてしまうほどだった。あのときの彼はもう居ない。そう思った途端にエイチはたちまち冷静さを取り戻し話の根幹についてジョンソンに訪ねてみた。


「君が入り込みたいと願ったのか?私になにか伝えたかったのかい?君と私は夢の中で語り合うことができる能力を得てしまったのだろうか。テレパシーは手術しないとできないし、ましてや一般市民なんだし」


「これはテレパシーだと思っている。僕が会話したかった時間帯にエイチが丁度寝ていただだけだよ。おそらくエイチはまだ未熟だから夢の中のような雰囲気だったのだと思う。その後アンリさんにあったんだろう?それは君が望んで逢いに行ったんだよ。死者でも強い意志があると、この世に残っているらしいから」


エイチは少しづつだがジョンソンの言葉をうわべだけなら理解できてきた。


「あれは想像ではなく実際に話したっていうのか?なぜ私たちなのだろうか。誰が手を引いているんだ?」


「それはわからない。ある日どこからか声がしてきた。その後から見えるようになったんだ」


「何がだい?」


「―殺意の感情だよ」




エイチはこの言葉を強烈に憶えている。父の言葉だ。彼は殺意が見えたから相手を攻撃してしまったのか。ならば相手は誰かを殺そうとしていたのか?


「ディープスペースの人間は君を殺そうとしていたのかい?」


「殺意の感情が込み上げもするし、殺意が見える場合もある。この前は相手の殺意を先に知っちゃったから行動に移した。相手も鋭くなった人間なんだろうな。さっきも言ったけど、これからはどんどん増えるはずだよ」


「君と私に共通しているものは、シャトルで感じた感情だよね。それが関わっているんだな?」


「多分ね。エイチと僕はそうだったけど、他の人はまた違う形なのかもね」


エイチの父親が感じていたものと同じなのだろうか。父親は行動にさえ移せなかったが殺意を感じると言っていた。資源回収探査船も宇宙へ出るし、宇宙空間になにかあるのか。触れたものは特殊な力を与えられるのか。とすれば父親も宇宙に『心を吸い取られる』場面があったのだろうか。


「もうそろそろ時間だ。僕の社会での存在はなくなってしまうと思うが、さっきも言ったように仕事を成し遂げた達成感は大きいんだ」


自分の人生まで投げ出して得るほどの達成感なのだろうか。それとも個人の感情など超越してしまう力が働いているのだろうか。ジョンソンの姿を見て、そんな力が確かにあるのかもしれないとエイチは思った。ジョンソンの言葉を借りるなら『新たなフェーズに来た』のかもしれない。


「面会時間は残り10分です」


「AI!もう話は終わったよ。お客さんに帰ってもらってくれ」


そう言うとジョンソンは立ち上がり両腕の服の袖をまくりあげのそっと後ろを向いた。エイチももはやこれ以上は話のアウトラインは解るのだが言葉一つ一つはよく理解できていない哲学書を読んでいるような気持ちになり、後10分で理解し解決できる話はできないだろうと思い反論はしなかった。扉が開きやはり明るい向こう側に照らされながら、光の中に消えていこうとするジョンソンは向こう側を向いたまま


「時間はなぜこんなにもフィットしているのだろうか。外的ではなく内的なものなのかも知れないね。また逢いましょう」


そう言って彼は消えていった。同じようにエイチも感じていて、アメリカ宇宙局の早すぎる時間へのフィット感は、あらゆる計算が素早く対応できる現代だからといっても、計算のソースなどが明かされないことも含めて違和感を感じる。また逢いましょうとはどういうことか。彼の最後の冗談かとも思えたが、すぐにテレパシーについての事だと気付いた。しかしまたどのようにアクセスしてくるのか、またはこちらからできるかも知れない。エイチは肝心なやり方についてジョンソンに聞けばよかったと後悔したが、本当に手術もしないでテレパシーができるのかというのは疑問が残る。ジョンソンとの会話でもそうだったが自分の未知に触れた時、エイチはパニックに陥ってしまった。今の世界では宇宙へも進出し太陽系を縦横無尽に探索できているし、地上でも法律でこそ規制はされているが人間そのもの又は人間を超越した存在さえ、その手で創り出すことができる。このような現代においても未知は限りなくあるし今まさにその未知の一部に触れている。触れただけなのにこんなにもパニックというオーバーヒートを起こしてしまう人間は進化の限界なのだろうか。だがしかし、テレパシーを身に着けたらしい事実やジョンソンの言葉からすると、ジョンソンはもとよりエイチも新たな機能、進化というものを手に入れつつあるのかも知れない。頭が熱を持ちひどく疲労してしまう1時間だった。エイチは立ち上がった途端、一瞬目の回るような感覚になり大きな溜息をついた。その感覚が収まるとまた白く長い通路を超えて外の現実世界へと戻った。




エイチは家に戻り、帰りの道中でAIに頼んでおいたコーヒーを飲みながら仮収監所でのジョンソンとの会話について考えようとしたが心身の疲労が酷いため明日にまわし、今日はいつか贅沢しようと思い買っていた和牛のステーキを夕飯にした。ジョンソンのことは話さなかったため事情を知らないトースケは、なぜ特別な日でもないのにステーキが出てくるのかとキョトンとしていたが、同じ食卓に付きながらも父親への会話は極力避けているため理由を聞くことはなかった。アンリがいなくなってからの袴田家の食卓はなにか物寂しいものとなっていて、食器の音やテレビなどのメディアデバイスからの音と何か気の利いたことを話したいがうまく言えずに飲み物のおかわりを伺うAIの声だけが響く空間になっている。翌朝には何時もの生活が始まりエイチは差し迫った月への出張の準備に追われジョンソンとの会話を精査する暇が中々持てなかった。隙間を見つけて考えては見るものの、何と触れたらテレパシーのようなものが使えるようになったのか、殺意を見つけ殺人という行動にまで人間の思考を操るものがあるのか、そもそもなぜ時間が伸びているのか、話していることや起きていることが超常過ぎて自分なりの解釈や答えが出ないため何時もへとへとになってしまう。ただ、エイチもそれに似た力は持っているようだし、いつかジョンソン又は父親のように人の殺意が見えてしまうのではないと大きな不安があった。もしそうなった時は自分の心に立ち向かえるのか、大きななにかに操られてしまうのではないか。アンリが居ない今はこの気持ちを相談する相手も居ないためエイチはやり場のない悶々とした気持ちを抱えながら日々が過ぎていった。




あと3日で月への出張になる。トースケは月へと持っていく荷物を少ないながらもまとめていた。この辺りの準備の良さは父親ではなく母親譲りのものと思われた。エイチは太陽光設置のためのシャトル滞在のときも下着を忘れてしまうなど何処か抜けていて行動力は高いが注意深さが少々欠けていた。今回はなぜか13歳までしか月に行けなかったが、例外的にトースケは行けることとなっていた。なぜこのような形になっているのか、13歳もすぎれば飛び級をして大学に行っている前提なのだろうか。そんな超エリートばかりではないしなんとも微妙な年齢設定だ。いったいどんな理由で決まっているのだろうか。少ない荷物の中には母親との写真を一枚入れている。トースケはいつも行っている店の古い機械の中で、50年くらい前のカメラを見つけていた。今のゴーグルタイプの軽いものではなく、レンズの付いたずっしり重く覗き込んで操作する代物だった。昔のネットワークに繋げられたらしいが今のネットワークでは一筋縄では繋がらず、アニクの自作したゲートウェイを通しストレージに繋げられるようにした。市販されているものもあるが売っているものの10分の1程度の値段で自作できてしまう技術力を持つアニクはトースケの憧れの一人でもあった。試し撮りだと言いながら出張の準備をする母親を捉えたもので、母親が亡くなったあと昔のカメラがそうやって残していた方法と同じく紙の形で残していた。これが一番最後の『記録』として残っている母親の姿となり、ストレージには沢山の記録があるが、どの記録よりもひと際存在感があり、角が少しボロボロになりながらもトースケは肌見離さず持っていた。床に座りスーツケースに荷物を入れながらカメラの方に振り向き笑っている姿は少しピントが合っていない。ネットワークに繋げたときにAIからピントや角度を調整されそうになったが、写真に撮ったときの空気感や自分と母親の感情まで調整されそうな気がしたため、トースケは一切手を付けるなとAIに言い聞かせた。時間が伸びはじめ1年の長さが昔と比べれば2週間以上長くなっているはずだが心の時間は以前とは変わらず、1年という単位では悲しみを癒やすことはできない。トースケは目に涙がたまりはじめ、あと少しで溢れそうになった時


「トースケ、エイチが帰宅します。今ロビーからエレベーターに乗りました」


とAIが気を利かせ知らせてくれた。トースケはスーツケースを素早く閉じて目を閉じ顔にパンパンと2回両手を合わせた。そしていつもの父親向けの仏頂面に顔を変化させた。




ザシューと音を立て搭乗口がロックされた。窓からは中央アフリカ宇宙ステーションの発着用デッキと、その向こうに光の筋を点滅させる発着用ブイが浮かんでいる。ケンタはAIに東京宇宙港への航路を取れと指示を行った。乗客は60席のうち46席が埋まっている。おそらく半分は観光目的でもう半分が月の住民だろう。アンドロイドCAに対する態度でも分かったりもして、月の住民は官公庁の役人や企業の出張者か多いため地球と月との往復で利用している人が多い。そのためこれからの移動時間に向けて座席のリクライニングを調節し始めアンドロイドCAにはブランケットと目覚めのドリンクを注文する。今日の便もケンタの中の統計通りの客層だった。シャトルはデッキの中をゆっくりと動き機体半分が宇宙空間に出る頃にエンジンが光だし発着用ブイの光の筋に従い加速していく。ケンタは目線を下に向け数々の計器が正常なことを確認しアナウンスを行った。


「この便は定刻通り発進いたしました。標準時間の17時42分に大気圏に突入いたします。17時57分までの15分間はあらゆる通信ができませんのでご了承ください。18時30分に東京宇宙港に到着予定です」


標準時間とは時間が伸び始めた頃にアメリカ宇宙局が発表した時間単位だ。表示こそ今までの時間表示で、10分単位で調整されてあらゆる時計に同期していて全ての時間表示が修正されている。機械式の時計と比べればどれくらい時間が伸びているのか判るが、人も順応していることもあり宇宙局の発表がなければどれだけ伸びているか判らないほどだ。地球を半周して大気圏に突入する。発着用ブイを通り過ぎ十分に加速したシャトルは大きく舵を取り同時に地球へと腹を向けた。




あと3分ほどで大気圏突入シーケンスに移る。AIによるシャトルの微調整が行われ始めたその時、ケンタは目の奥がズドンと重くなり頭痛が襲ってきた。マニュアルでは大気圏への突入時はAIとパイロット共に健全な状態でなければならない。それ以外ではどちらかの異常を報告すれば管制塔が操縦に介入できる。AIも心配していたがいつも経験する頭痛よりは酷い。しかし、操縦に支障をきたすまでには至らないとケンタは判断し管制塔にも異常なしと伝え残り1分を切ったところで操縦桿を握りしめ各計器が異常ないことを確認した。窓の外が大気圏の摩擦により青から赤紫になり始め17時42分になりすべての通信は途切れた。グォーと低い音だけが船内に響き渡っている。すると、また頭痛が強くなり遠くから声が聞こえてきた。管制塔との通信も切れていてAIの声でもなく頭に直接訴えかけてくる。何を話しているのかは分からなかったが次は外の音を遮断するかのようにピーンと頭の中に一本の長い針が貫通し電気が流れたように衝撃が走った。再び外の音が戻ってきたと同時にケンタ自身ではない誰かにすり替わったような気がした。白昼夢のような感覚の中でケンタまたはその誰かは強い感情を感じそれは完全に負の感情であった。ケンタはこの感情は何なのかともう少し深く探った。それが何かと解ったと同時にアンドロイドCAから乗客の一人が刺されたと報告が入った。




ケンタは自分の感情を引き戻してコックピットから立ち上がり、警備ロボットを起動させた。その時またイメージが頭の中に入り込み次なる犠牲者がでてしまうことを悟った。ケンタはアンドロイドCAとともに現場に向かいながら、逃げ惑う乗客の中心にいた人物がイメージの発信者であることを確信した。犯人の傍らにはうつ伏せになった男性と少し後ろの座席にもたれ掛かっている女性がいてどちらももう息はないようだ。


「今こそ私達は償わなければならない。ここまで歯車を進めてしまったことに。人間統一連合により偉大なリセットをかけなければなりません!」


どうやら座席の部品を切り取ってナイフを作成したようだ。外目には分かりにくいマシンを座席に貼り付け、見えないように座席を切り取って凶器を作成する方法があるらしいことは噂には聞いていた。


「『意志の受信者』がいたことは想定外だったがまあ、いい、この計画を遂行するだけだ。我々の行動を起こす時が来たのだよ」


時間に対する不安を背に人間統一連合は勢力を拡大していた。かつての環境保護団体のように過激派も生まれつつあり各地で犯罪を犯し始めていた。


「外部と遮断されるこの時を待っていたんだ。今ナノマシンをシャトルに仕掛けた。リモートも効かず銀座に墜落するはずだ。同時にドカンだ!俺を捕まえようとしてもこの爆弾のスイッチを押すからな」


 犯人は小型の水素爆弾を懐から取り出しコートの隙間から見えたベルトのあたりには銃のようなものも確認できた。セキュリティになぜかからなかったのか。ナノマシンといい、組織の拡大とともに優秀なクラッカーが存在するのではとケンタは考えた。警備ロボットもうかつには動けないようで再び電源が切れたかのようにピクリともしない。どのように動いていいか分からないまま時間が過ぎ窓の向こうの景色が赤紫から一面に広がる海原へと姿を変えた。




大気圏を抜ければ管制塔からの通信が入るが何も聞こえなくAIも黙ったままだった。どうやらナノマシンによるジャックは本当のようだ。30分弱で東京の上空に差し掛かりこのままだと犯人の思うつぼで、このクラスの水素爆弾でも銀座に小さなクレーターができてしまう。犯人はこのままナノマシンによる航行で銀座に衝突と同時に水素爆弾のスイッチを押すため、どうにか航路を変えなければならない。目標を達成するまではスイッチを押さないと判断したケンタは犯人が横を向いた瞬間に警備ロボットに何やらつぶやいた。シャトルには有事の場合にマニュアル操縦に切り替えるコマンドがあり、それは物理的にもシステムが介入できない、いわばアナログの作りとなっていて操作できれば最悪東京へのダメージは回避できる。犯人が一瞬時計へと目をそらしたその時、ケンタはクジラが海面から身を翻しながらジャンプするように華麗に振り返りコックピットへと走り出し同時に警備ロボットが犯人とケンタの間に立ちはだかった。犯人は咄嗟の出来事に手に持っていた水素爆弾を手放し銃を取り出した。銃からはすぐにレーザーが発射され、2発目が立ちはだかる警備ロボットをすり抜けケンタの右ふくらはぎに命中した。警備ロボットは床に転がった水素爆弾めがけて捕獲ネットを瞬時に打ち出し見事手元まで引き寄せた。犯人はレーザーを何度も発射したが強化合金で武装している警備ロボットはびくともしない。背中から刺股を取り出し素早く犯人の目線より下に潜りこみ足を払った。犯人は華麗なまでに天を仰ぎ背中を強く床に打ち付け刺股により拘束された。




 一瞬右足を後ろから蹴られるように取られよろけてしまったが次の一歩は踏み出せた。しかし強烈な鈍痛が襲いケンタは左足でケンケンのようになり体を支えきれずに前に倒れた。床を這いつくばり後ろを振り向くと警備ロボットが犯人を取り押さえている。水素爆弾も奪い取れたようだ。警備ロボットの足の隙間から仰向けになった犯人と一瞬目があったが、その目は観念したのかどうかも分からないほどに血走っていた。右足の痛みに苦しんでいると乗客2人が体を持ち上げ支えてくれた。ケンタはマニュアルで操縦できることを伝え、その二人にコックピットまで肩を借りなんとか運転席に座った。マニュアル操作用のコードの入力と生体認証を行い操作を切り替えると機体が少しぐらついたが、操縦桿を修正してバランスを保った。右足も使用するが乗客の一人に指示を行い痛む足の補助をしてもらった。目視でも薄っすらと海の上にそそり立つビル群が確認でき、できるだけ地上から離れた海上に不時着させようと操縦桿を右へといっぱいに切り海上すれすれまで高度を下げた。フラップにより減速させ着陸用スラスターを噴射すると、緊急時でかついつものAIの操縦とは違いジェットコースターのように荒々しく上下左右する操縦に、乗客たちは椅子にしがみつきながら悲鳴にも似た声を上げ、その後機体の動きが落ち着き海上に降り立つことを悟ると悲鳴から一点安堵の声に変わった。ケンタも無事に不時着できそうな姿勢にまで機体を安定出来たことに大きなため息を付き乗客2人と握手を交わした。アンドロイドCAもコックピットにやってきて救急キャビネットから治療セットを取り出しケンタの右足の手当を始めた。




シャトルは海上への着水のためいつもよりゆっくりとスラスターを調整しながら下降していた。同時に遭難信号を発信したあとケンタの頭に犯人が語りかけてきた。


「人間の作った物の愚かさ、不完全さを知らしめるために計画されたんだ。解るか?セキュリティだよ。こんなことになるのは想定内だったんだ」


「凄腕のクラッカーが居るようだね。それはすぐに改善される。君はしっかりこの罪を悔い改めるんだ!」


「悔い改める?そんな時間は俺にはもうないよ。―お前らもな」


「―ん?」


「スイッチなんかないんだ。時限式だよ」


シャトルは着水しようとフロートを機体下方に展開しいよいよ着水するその時、空間が一瞬息を飲んだように縮こまり白い閃光に包まれたあと、水面は巨大な岩が落下したように凹み反動で大きな波紋が幾重にも連なった。波紋の中心は濃い煙に包まれ周囲にシャトルの残骸を撒き散らしていたが煙が晴れた場所には何も残らなかった。避難信号は出され東京宇宙港から救助チームが向かっていたが、避難信号はなくとも夕焼けの中での閃光と煙がその位置を知らせていた。




仲野家とはどちらも片親であり、マンションの部屋も近いということですぐに意気投合した。会話の中でエイチは生前父親から聞かされていた小惑星探査のチーム員である仲野さんがケンタの父親かと思い世間は狭いものだと思ったのだが、そうではなくケンタの父親の弟が小惑星探査を行っていたようである。いずれにせよ世間は狭いと感じられる。その弟、ケンタの叔父に当たる人も数年前癌でこの世を去っている。どうしても完治ができない癌に侵されていたらしいがエイチの父親とほぼ同一の死因である。深宇宙ではまだまだ謎が多く月への移動もいつにもまして大変不安になってきた。エイチは隣でぐっすり寝ているトースケとは違い、そんな事をなぜか漠然と思い出しシャトルでの緊張とともに落ち着かない時間を過ごしていた。気分転換にテレビでも見ようと座席の肘掛けにあるスイッチを押すと眼の前にテレビが現れ、面白くもつまらなくもない情報番組が流れ始めた。何も情報を頭に入れずにぼんやり眺めていると速報が入ってきた。いつもの政治家のスキャンダルだろうと高を括ったが、ぼんやりとした目に飛び込んで来たものは波打つ海面に散らばる金属と思われる破片と薄い煙で霞がかった周囲の空が映し出されていた。東京宇宙港から南の沖合での出来事らしいが、続けて速報が入り人間統一連合の一派が犯行を行ったようだ。急激に勢力を拡大させていて過激派も出来ているようだった。アンリの時の環境保護団体と状況が被り、エイチは怒りとも悲しみとも分からない感情がこみ上げた。宇宙ステーション往復シャトルが犠牲になったらしいが即座に犠牲者の情報も流れてきた。そこにはシャトルをより安全にしたい、誰かを亡くして悲しむ人を増やしたくないと努力を重ねどん底から這い上がった『仲野ケンタ』の文字が記載されていた。ジョンソンのときと同じように同姓同名かと自分の心を疑おうとしたが、ケンタの母親からの連絡に疑う余地がなくなってしまった。エイチは電話先で息をつまらせ嗚咽しながら話す母親になんと声をかければいいのか分からないまま、会社の業務連絡を受け取ったときのように突然の出来事に思考が停止し、ただただ相槌だけを打っていた。今はどんな言葉をかけても彼女には伝わらいだろう。幸い親族がそばにいるようで安心し電話を終えた。少しばかり呆然としていたエイチは、デブリがシャトルの外壁にぶつかり電磁シールドにより窓の外が一瞬明るくなったことで我を取り戻した。隣りでいびきをかいているトースケはどのように感じるだろう。さしあたりどのタイミングで言うべきか考えているとトースケはむにゃむにゃと目を開け寝ぼけ眼で正面を向きぼーっとしていた。しばらくしてテレビを起動しチャンネルを次々と変えている。どうやらエイチと同じく何も情報を入れずに見ているようだ。速報でも流れたくらいだからいずれ何処かのチャンネルでニュースが流れるだろうとエイチは考え、それで知るよりは自分の口から彼に伝えようと口を開いた。


「なぁ、トースケ」


「…ん?」


「さっき仲野のおばさんから電話があったんだけど、…ケンタが亡くなったって。東京宇宙港で事故にあったみたいだ。…ニュースでもすぐに流れたよ。また目にすると思って―」


「…」


「…」


「そっか。大切な人が亡くなったような感覚があったんだ。誰かはわかんないけど」


「…」


「…トイレ行ってくる」


トースケはすくっと立ち上がりエイチの前を横切り急いだようにトイレへ向かった。テレビのスイッチを切らなかったためディスプレイはトースケにより煙がかき乱されたかのように消えすぐさま元に戻ると再び身にならない情報を流し始めた。トースケは顔をこちらへ向けないまま立ち上がったため表情はうかがえなかったが、若干上を向いていたように見えた。




トースケは誰かが亡くなったと感じていた。虫の知らせとはよく言うが、端末を通じてのネットワークではなく人間同士の有機的なネットワークがあるのではないか。それこそ手術をしなくてもネットワークを築けるように人間は進化しているのかもしれない。ジョンソンとのテレパシーを経験したエイチは素直に考えられるようになっていた。エイチ自身や家族、身の回りの人もそういった力を会得している。世の中の人もこの力を得ている人はたくさんいるだろう。この頃増えている殺人事件もジョンソンの時のように『殺意が見えた』人々の犯行なのだろうか。しかし、殺人を犯す者とエイチのように犯さない者の違いは何なのだろうか。もしくはテレパシーは過渡期の能力だけでエイチ自身も殺意が見え始めるのだろうか。その時自分は、トースケもこれからどうなっていくのだろうと、彼もテレパシーを使えるようになった事らしい出来事が今明るみになったこともあり、エイチの不安に拍車がかかった。シャトルは地球から打ち上げられた衛星デブリ帯を抜け更に加速して動き出した。トースケはトイレから戻ってきてエイチの前を通り座席についた。まぶたが若干赤らんでいる居るようにも見え、たがすぐにブランケットにくるまってしまった。地球を飛び立ち2時間経っている。月への渡航に対する不安も薄れ今では新たな不安の方がエイチの心の中を支配しているが、考えたところで自分にはどうにもできないと踏ん切りをつけ、エイチはアンドロイドCAにブランケットの用意と5時間後に目覚めのコーヒーとともに起こしてほしいと伝え座席をリラックスモードへと変化させた。

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