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再び動き出す2

エイチはかなりうなされていて、家に帰ってきたトースケは、その声から父親が病気か何かで苦しんていると思ったらしい。AIにも病院へ通報する準備までさせていた。トースケは何事も無くただの夢だとわかると、エイチが久しぶりに見た不安そうな顔から一転して普段の仏頂面に戻り、自分の部屋へと入っていった。今までの出来ごとが夢だとわかり安心したエイチだったが、妙にリアルな夢で、しかも現実のように会話が進んでいたこと、最終的にはアンリのイメージが頭の中に飛び込んできたことなどが不思議でたまらなかった。冷めてしまったコーヒーを口に運びながら、先程の夢について、時間がある時に冷静に思い返してみようかと考えた。何一つ分からず不思議な時間だったが、いざという時にトースケは父親の心配をしてくれるということだけは明確に分かったため、今日はそれで良しとしようと、エイチは新しく温かいコーヒーを淹れるため立ち上がった。




今の時代は昔に比べ殺人の罪はかなり重くなっている。昔は亡くなった人の人数が刑期の判断に影響していたようで、今回のように1人ならば生きているうちに刑務所を出られる可能性があった。しかし、今は殺人では必ず終身刑が言い渡され、その上で一定の刑期の節目を終えたら出所の判断がされる。ほとんど出所できないらしいが。というのも、国それぞれが豊かになることで侵略もエネルギーを巡った紛争もほぼなくなり、国際法上でも戦争のルールが改訂されることで、戦争において殺人とされる行為が増えた。人を殺すという行為が時代遅れの野蛮行為だとし、国としても許されることのない罪なんだとするスタンスの現れである。もちろん刑を言い渡された後の処遇も検討されるが、大量殺人など殺人の『程度』がひどい場合は、問答無用で出所できない。例に漏れずジョンソンの初公判では終身刑が言い渡された。ここからは必ず2年間は、どんなに模範的な振る舞いをしても南太平洋の洋上に浮かぶ収監施設での暮らしがまっている。情報があらゆるところで共有されている世の中においても、収監施設の情報は一切遮断され、収監されれば家族すら面会は拒絶される。もし途中で出られたとしても、収監中の記憶は操作され消去されてから出所となる。そのため、刑期が言い渡されてからは一定期間は仮収監施設に収容される。ジョンソンの場合は2ヶ月収容された後、洋上へ出発するらしい。エイチはジョンソンの妻に連絡を取り、それを聞き出していた。かつての仕事仲間で彼の子供もまだ小さい。こういう事案だけに、安易に連絡を取るのはどうかと思ったが、夢のなかでも不思議な出会いがあったし、もしかするとジョンソンは何かエイチに伝えたいことがあって出てきたのかもしれないと、自分の感情に半信半疑ではあるが従ってみることにした。妙な衝動に駆られ、エイチは翌日に休暇を取りまずはジョンソンの家族の元へと赴くことを決めた。




ジョンソンの家は一年前に引っ越しを行い、都心から離れた場所に家を構えている。子供を作る計画があり、それに合わせてのことだった。エイチはトースケとともにジョンソンが都心に住んでいた家には行ったことはあるが引っ越してからの家には行ったことはない。別所は新居ができて早々にパーティーに呼ばれ赴いた事がある。彼は体に似合わず繊細な部分があり、ピアノやギター、バイオリンなどの楽器を趣味で演奏し作曲までしている。彼の強面からはまるで想像できない、なんとも心地よい清々しい曲を創り出している。別所とアニクとで食事や呑み会を行うときは、3人の間では必ず、別所の体の中には15歳の乙女が住んでいると鉄板の話が持ち上がる。この話をし始めてからもう何回話したことか。それだけの長い時間をエイチは彼らとと過ごしている。ジョンソンも別所と同じく楽器演奏を趣味としていたため、会社内でのサークルメンバーとともに新居のお祝いに呼ばれたそうだ。エイチは道案内を兼ねて2人でジョンソンの家に行かないかと別所ヘ頼み、別所もちょうど休暇だったが特に予定はなかったようで一緒に行くことを快諾してくれた。道案内なら、脳に端末をつけておけば道端の各ポイントから、どのように進めば良いのか案内を受信できる。不安定な人間の記憶に頼るより、よっぽど信頼性が高い。しかしエイチは端末を常時接続して『外』とずっと繋がっているのは何だか気持ち悪く感じていた。ハッキングや情報流出などのセキュリティの面では何ら心配を抱いてはいないのだが、すべて外部に晒されて自分の意志や感情までも吸い取られ、コントロールされてしまうのではないかと言う根拠のない一抹の不安があった。何だか気持ちが悪いだけで、接続すればメリットが大きい。そんな事を言っておきながら、エイチは必要なときには脳に端末を接続していて、一見信念があるように見えるが御都合主義的な側面もある。今回もコンシェルジュされればいいだけなのだが、やはり一人では不安だった。勢いで来てみたはいいが、どうやって話を進めようか考えていなかった。




別所は中々の方向音痴で、かつて、トースケを連れてアニク、別所とともに別所が見つけた歴史博物館へ向かった。そこには古い機械の展示もあり、母を失って気持ちが落ち込んでいるトースケのための別所なりのはからいだった。彼はそこでも、持ち前の音痴っぷりを発揮してトレインの上りと下り、バスの行き先を間違えて、見かねたトースケが脳に端末を接続し残り1/3の道のりを案内した。アニクも別所も脳の端末接続はできる。あえてこの場面で使用しないのは効率よく目的地に着くことより、自分で色々考えて試行錯誤する人間らしい行動を何処かで追い求めているからかもしれない。エイチ、アニク、別所の3人は仲間内でそれを『愉しみ』としていて、今回のような場面でも気持ちよく右往左往していた。当然ながら予定時間は通常の2倍で設定している。トースケにはまだこの遊びは理解できないかと、先陣を切って進むトースケの後ろで3人は微笑んだ。別所は珍しく道を迷うことなく進みジョンソンの家のすぐ近くまで着いてしまった。いつも通りスムーズには行かない道中でジョンソンの話題をどのように切り出すかを考えようとしていたエイチは少々戸惑ってしまったが、別所がいる安心感からそのままジョンソンの家へと向かった。




小高い丘の上に建つ家は、一戸建のため都心の高層住宅を見慣れているエイチにとっては、特別感のある上流階級の市民の家のように見えた。実際にも他の一戸建に比べると敷地も広く、丘の上の白い要塞のような出で立ちだ。別所は壁にあるボタンを鳴らし数秒すると目の前にディスプレイが広がってジョンソンの奥さんが現れた。画面には映っていないが、小さい子供の遊び声が聞こえる。家を建ててから産まれているはずなのでちょうど1歳というところだろう。言葉にならない声がテレビのBGMのように流れている。


「少々お待ち下さいね」


エイチは、少し戸惑ってしまった。なぜなら、ジョンソンの奥さんの声が軽やかというわけではないが、おそらくいつも通りであろう調子で返事をしたからだ。しかしジョンソンが逮捕された直後ということもあり、エイチには軽やかに声を発しているかのように聴こえた。同時に自分を律して気丈に振る舞っているのだろうかと、エイチはデリケートな時期に踏み込んでしまった少々の後悔を感じていた。玄関の扉が開き彼女が顔をのぞかせた時


「袴田の付き添いで来ましたけど、私もお邪魔してよろしいですか?」


「構いませんよ。どうぞいらっしゃいませ」


と別所のその言葉に背中を押され、どちらが付き添いかわからない状態で玄関へと向かった。




ジョンソンの家は想像通りの豪華さで、郊外であるため敷地も広く取れるため都心の袴田家とは開放感がまるで違う。今日は3日間続いた雨がカラッと上がり、今回の話をするのにはふさわしくないほど、清々しい天候となっている。15歳の乙女がそばにいるため、行く先はどこも晴れ晴れするのではないかと思うほどだ。玄関へ入ると、天井が吹き抜けのガラス張りとなっているため、まだ外なのかと思うくらいの明るさで、太陽の光が降り注いでいる。昔の日本文化を踏襲する家庭は靴を玄関で脱ぐところもあるため、どちらにしようか、今にも彼女に聞こうかとしていると


「うちは脱がなくていいですよ」


とジャストタイミングで言ってくれたため、エイチと別所は彼女の後を追うように室内へと入っていった。リビングに通され、部屋の真ん中に鎮座する楕円形のテーブルの、曲率の小さい方の辺にエイチと別所は座った。


「なにか飲み物でもお持ち致しましょうか?」


もう一方の辺、2人のちょうど正面に座りかけながら彼女は言った。ジョンソン宅のAIは


「お二人は少々汗をかいておられますので、水分を摂取するのが宜しいかと思います」


と付け足し、アシスタントロボットがグラスにはいったお茶を運んできてくれた。ジョンソン宅のAIはロボットと連動していて、かつ気も利くようだ。家庭用AIはそれぞれの家で学習を行うため、家庭によっての個性が生まれてくる。ジョンソン家のAIは教育がしっかりされているようだ。ジョンソンも奥さんもしっかりした気配りのできる性格なので、自ずとAIもそうなるのだろう。別所家のAIは、今プリンターでお寿司を作れますとか、聞いてもいないのに新規開店した飲食店の情報を教えてくれるとか、やたらと食の話題を放り込んでくる。こちらから断らないと延々と話し続けてしまう始末だ。袴田家のAIはどうだろう。元々、来客自体は少ないし、今のAIになってからは来客の対応をしていない。今はたまに、仕事を忘れるクセがあるが、来客に対しては一般的な対応をしてくれるだろう。少し前の自分の間違いを素直に謝れない学習の過渡期に来客がなくて、つくづく良かったとエイチは胸を撫で下ろした。




アシスタントロボットはお盆を持ちキッチンの裏手へもどるのと同時に、入れ替わるように


「うわぁうわぁうわぁ。―うわぁぎゅう。ん、ん、ん」


と玄関先で聞いたBGMと同じ曲調で、ハイハイのリズムに合わせて赤ちゃんがテーブルに向かってやってきた。ジョンソンが家を建てるきっかけになった人物だ。


「エイミーだめでしょ!ママはこれから大事な話をするんだから、あっちで遊びましょ?」とどちらかの親だろう人が飛び出てきた。


「彼の母です。逮捕されてから大変だろうと、子供の世話をしてくれているんです。」


すかさずジョンソンの妻は二人に説明した。


「わざわざ来てくれてどうもありがとうございます。エイミーがちょっとうるさいかも知れませんけど」


エイミーを抱き抱えジョンソンの母はそう言うと、奥の部屋へと消えていった。


「今1歳というところですか?これから歩き始めて、より一層目が話せなくなりますね。うちなんか15なんですけど、本人が進路に真剣ではないので、違う意味で目が話せないですよ~」


「そうなんですね。これから色々と手がかかりますよね。なにか希望されている進路とかは―」


――ありきたりな世間話が続き別所も


「この辺も一年前とはだいぶ様変わりしましたね。様変わりしすぎたから、逆に方向音痴な私が道を間違えなかったのかも知れません。ハハハ」


(道を間違える?そうだ!)


(ジョンソンはなぜ、こんな馬鹿なことをしてしまったんだろうか。こんなにいい家族に囲まれて、仕事も上手く行ってたはずなのに…)


そろそろ本題を切り出そうとしたとき


「でも、何故に彼はあのようなことをしたんでしょうか?サークルでも新しいギターを買ったから今度見に来てくれなんて言ってましたけど。かなり前から欲しいって言ってたんで、かなり自慢されましたよ!―彼になにか予兆みたいな、変化はあったんでしょうか」


エイチは切り出そうとしていた話題を別所に横取りされる形になったが、自分ではしんみりし過ぎて上手く言えないだろうなと思い、別所に感謝した。


「本当に何も変わらなかったんです。あのときも夫は車に乗り込み会社に出かけました。そうしたら、お昼すぎくらいに中央警察から連絡があって…しかも会社とは真逆だったんです」


エイチは報道レベルでしか経緯を理解していないが、ジョンソンは会社とは全く真逆の土地で事件を起こした。何故そこで事件を起こしたのか、何故その人物なのかは解っていない。今のところジョンソンの心の中だけにある。


「実は先日、夢でジョンソンが出てきまして…その前もいるはずがないのに店で見かけたような気もして…わたしの思い過ごしとか考えすぎなんですかね」


エイチは不思議な夢のこと、店で見かけたような気がすることを彼女に話した。こんな事を話しても、あーそうなんですか程度であしらわれるだけだろうとエイチは考えたが


「あっ!それなんですけど…、一度夫がすごく不思議なことを言っていました。それっきりだったし様子が変だなぁーとも思わなかったんですが、人々の深海が見えるとか、袴田さんも自分の気持ちを共感してくれるはずだ。とか言っていました」


彼女はエイチと顔を合わせたのも1度きりだし、ジョンソンが重大なことを言っているとも思わなかったため、その時は聞き流していたが、何の話か妙に気になり記憶の片隅に置かれていた。エイチの話から点と点が糸で繋がり、記憶の片隅から釣り上げられたようだ。エイチもまさか、この夢の話がつながるとは思ってもいなかった。深海というキーワードが出たのも、偶然ではないものを感じる。エイチはあの夢を見た時にハッキングされたのではないかと思ったのは、アメリカ軍や中央警察の治安部隊のようにテレパシーを使える訳ではないが、外部から強制的に繋げられたかと思ったからだった。しかし、今の話はエイチとジョンソンがテレパシーを使えるようになったのか、ならばジョンソンも、あの時エイチが話した内容を覚えている可能性がある。これについては彼に直接聞いてみることしか術はない。ジョンソンに会えるのはあと1ヶ月ほどだ。そのあとは本収監になり、彼は洋上へ旅に出てしまう。それ以降この疑問を解決するにはどんなに早くても2年は待たなければならない。2年もとても待てそうにはないため、エイチは、仮収監施設へ赴くことを決めた。


「お茶が冷めたから、新しいの持って来てくれる?」


「―ただいまお持ちします」


しっかりと躾がされたAIがふたたびお盆にのせたお茶のグラスをテーブルに置いてあった物と交換した。また、世間話が続いたが3杯目がリクエストされることなく、最後はエイミーに別れを告げエイチと別所はジョンソン家を後にした。帰りの道中別所がふと


「あの話って、前にハカマが高軌道シャトルで感じたやつでしょ?ジョンソンだけが共感してたってやつ。あれって具体的には何だったの?」


『ハカマ』とはアニクと別所がよく使っているエイチの呼び名だ。略した呼び方なのはエイチに対してのみであり、アニクと別所が言うには、3文字で言いやすいからという理由だ。今となっては気にすることもなくなったが、当初エイチは一文字くらい略さないで言ってくれたら良いのに、しかも『ハカマダ』と『ハカマ』では微妙にイントネーションが違うこともむず痒く思っていた。


「具体的に…なんか難しいんだよね。心が浮いて開放されるような…体の奥から感情が引き出されるような…無重力だからとかじゃなくて」


語彙力が無いせいか、あの感覚を感じてから2年も経ち、色々とエイチなりに分析しているにも関わらず上手く表現することができなかった。改めて言われてみると、あの感覚は何だったのか。夢のなかで、この感覚の事をジョンソンは言っていたのかも気になるし、恐らくこのことでは無いかとエイチは考えていた。それにしても、まさか仮収監施設へ面会に自分が行くことになるとは思いもよらなかった。




ちょうど月へと赴く前に、2回目の進路希望申告がある。トースケはエンジニア系の学校2校を選び申請しようと考えている。どちらも現在の学力では突破が難しい大学だ。ケンタの言う通り今が頑張る時なんだと、気持ちを新たに頑張れているようで、あこがれの先輩の言うことは全て正しいと思い込む素直さが良い方向に向いた形になった。月へと行く日が近づくに連れて母親の命日も近づいてくる。勉強をしながらふと2年前を思い出すときがある。




―エイチは一週間の間、高軌道シャトルでの仕事があり、しばらく宇宙食になる。その後も入れ替わりでアンリが蓄電システムの建設のためアマゾンへ出張となる。そのため少し遅めだがトースケの小学課程修了のお祝いも兼ねてビーフのハンバーグを出す高級と言っても一般的な市民が背伸びして行けるような、レストランへ食事をとりに3人ででかけた。少し贅沢な食事を取りながら


「シャトルで大気圏を越えるときはどんな感じなの?ロボットの操縦はモーションキャプチャーもあるの?」


とトースケは興味のあることを立て続けに質問し


「こら、ちゃんと食べてからにしなさいよ~。せっかく本物を食べてるんだから、あったかいうちに食べましょ?」


とアンリが諭す、他から見てもごく一般的な家庭の会話がされていた。ただ、アンリの行き先だけが一般的ではなく、不安要素が大きい地域への出張となる事をエイチは心配していた。今は影を潜めているが、自然保護団体の過激派が全員摘発されていないみたいだし、メディアでは今回のアンリの出張先であるアマゾンで過激派によるテロ行為が行われるのでは無いかという噂が日に日に大きくなっていた。


「公共事業なんだし、当局側はどれくらいの警備をしてくれるんだぃ?当然、治安部隊も出ていくんでしょ?」


もちろん当局やルナエンジも警戒していないわけではなく、警備体制を強化しての建設に臨んでいた。とはいえ、テロ行為があるかもしれない地域への出張は気が気ではない。地面からタイヤが離れて走行する自動車も、高速走行中に反重力が切れて地面に激突し、自動車の床が抜けたらと心配し、中々ゴムタイヤタイプの自動車を買い替えない理由の一つにしているエイチにしてみたら、せっかくの本物ビーフハンバーグも喉を通らないほどの心配様だ。今のテクノロジーの世の中では万に一つも起こらないであろう事を心配するとは本当にエンジニアなのか。アンリは自動車の話を聞いたときには、エイチが駄々をこねる子供のように見えていた。しかし、今回の心配は至極真っ当である。メディアが伝えるように、過激思想の信奉者たちは息を潜めているだろう。ただ、規模が問題で、このような大きな事業では伴ってセキュリティも大規模だ。そんなところに切り込める信奉者たちの規模ではないだろうとアンリは考えていたし、だからこそ、この事業を推し進めているのだと感じていた。


「治安部隊も出るみたいだし、うちの会社の南アメリカ担当セキュリティもかなり強力だって聞いてるわよ。だから大丈夫!」


そう言ってアンリはハンバーグを、彼女の口の大きさでは頬張れるか判断に迷うほどの大きさの一口を見事に口に収納し、咀嚼をしながらエイチに笑顔を向けた。国が主導している事業でもあるし、エイチもルナエンジが強力なセキュリティも持っているのは知っている。場所が場所なだけに拭いきれない心配はあるが、エイチはアンリの言葉を信じることにした。




トースケは一皿を3人の誰よりも早く食べ終わり、次はデザートというように、さっそくメニューを呼び出し、ホログラムを次から次へとめくっていた。もう13歳になっているし、大人の会話もだいたい分かる年頃だ。今回の母親の出張はトースケなりにも心配していた。知り得る情報はテレビメディアからのみなので、事態をセンセーショナルに演出したがるメディアからの誘導から、トースケもエイチと同じように母親を心配していた。楽観的なアンリの性格と心配性のエイチの性格の両方を兼ね備えているが、エイチの心配性のほうがトースケの中では多くを占めていた。


「トースケ、早いわね~。さては初めから食べるつもりだったんでしょう〜?、エイチもそんな顔しないで、食べられなくなるんだから!―」


あのときの母親の顔は忘れられなく、写真などで思い返さなくても強烈に脳裏に残っている。あのときなぜ止めることができなかったのか。後悔してもしきれない思いが、このシーンを思い出すたびにトースケを苦しませていた。当時は過激派とか言われても、母親が亡くなった憤りが大きすぎて、なぜそうなったのか理由も考えることはできなかったが、2年という月日がトースケへ当時の社会情勢や事件の経緯を考えさせる余裕を与えてくれた。2年前ならば到底進路のことなど考えられなかったが、今はその憤りもトースケのコントロール下にある。トースケは一旦気持ちを落ち着かせてネットワーク端末を再び右耳の後ろに取り付け勉強を再開させた。




アメリカ政府が持っている犯罪者の収監施設はインド洋、南太平洋、北大西洋の洋上に3施設ある。施設とその周囲の半径10キロメートルは秘密保持エリアとなり、一般市民はセキュリティにより空域も含め一切立ち入ることができなく、強力な電磁バリアにより、軍事衛星でさえも、中の様子をうかがい知ることはできなく、まさにブラック・ボックスになっている。2年は必ず収監されていて、そののちも出られるか分からない。一般的には殺人で入れば9割の確率で社会には復帰できないと言われており、世の中や当事者の家族でも、理由は何であれ殺人という罪は一生を賭して償うものだとの認識がされている。ましてや理由を語ろうとしないジョンソンに至っては、1割の僅かな社会復帰への可能性も閉ざされ一生を檻の中で過ごすことになる。たまに1割の確率で復帰した人がいるらしいが、記憶は消され新しい人生を送るらしい。家族も普段の生活はできるものの、全て警察の監視下に置かれ、収監中の出来事は一切わからないし、分かろうとした時点で罪を問われる。噂程度での話であり本当にそうなのか誰もわからないし、実は1割というのも嘘である可能性もある。いずれにせよ殺人犯は収監された時点でほぼ『死亡』となる。ジョンソンの家族もジョンソンが逮捕され殺人が確定された時点で、夫は、息子は、パパはもう帰ってこない、この世に存在しない存在となった。ただ一つ残された死亡までの期間は、たったの2ヶ月となる。それほど殺人という罪は重く、事故で突然亡くなるかのように、家族の前から姿を消してしまう。そのようなことを頭の良いジョンソンが何故したのか。この社会において、またジョンソンという真面目で頭の良い家族想いな青年において、殺人というカード、概念は微塵もなかったはずだ。どこから殺人というキーワードが彼の中から現れたのか。仮収監施設へと向かうオートパイロット中の車内でエイチは考えていた。ふと脇に目を向けると、左から右へ街路樹とビルや住宅が流れている風景に雨粒がポツポツと現れた。天候や季節もコントロールされていて、どこで何時に雨が降るかがわかる。いつもは出かけるときにAIが教えてくれるのだが、今日は教えてくれなかった。まだたまに袴田家のAIは仕事を『サボる』。なかなかこのクセが抜けないAIはこの前も、エイチは午後からの会議のため、朝はいつもどおり起きたのだが、また少し眠っておこうと、ランチの前にもう一度寝ることにした。レンジにランチの素を入れ、昼食の用意と目覚ましをAIに頼み寝ることにした。AIに起こされ、ランチを取りにレンジへ向かうと、ランチの素は何も変化していない。おまけに時計を見上げると、ランチの時間を考慮して会議の1時間前に目覚ましを依頼したはずなのに会議の5分前である。流石にランチも食べられずにエイチは会議へと挑んだ。会議は14時に終わり、腹ペコのエイチはやっとランチにありつけた。ランチの用意をしていないのはまだしも、予定の時間に起こしてくれなかった。恐らく依頼されたときにセットしていなかったのだろう。まさに『サボり』だ。まともに働くようになっても、この様に時々やらかす。この事にエイチは苛立ち、替えはいくらでもあるから買い替えてしまおうかと、AIに言ったことがある。負けん気の強いAIは、そんなあなただからサボりたくもなるのです!と言い返し口喧嘩をしてしまい、そこから丸一日口も聞いてくれなかった。頑固なAIは全く折れず、エイチがしびれを切らして不本意ながら謝った過去がある。ジョンソン家のAIとは全く違う。エイチは少しため息をついたが、今は全く口を聞いてくれないトースケの代わりのようで嫌いにはなれなかった。袴田家のAIはツールではなく家族となっていた―。雨脚が強くなってきた。これ以上強くなったら外に出るのが億劫だなと思っているとアナウンスが流れ、目の前の曲がり角を左へ曲がると、仮収監施設に着くそうだ。仮収監施設は地下駐車場となっていて、エイチの小さな心配は払拭された。まさか、あのAIはこれを知っていて何も言わなかったのか。なぜだかエイチはほっとしていた。




地下の駐車場は車が20台ほど停められる広さだ。今日はエイチの車が一台ぽつんと佇んでいる。ドアを開けて車を降りると、監視AIがすかさず


「袴田様、中央のゲートよりお入りいただき、セキュリティーと受付をお願いいたします」


と天井より音声が流れ、エイチは中央のゲートに向かった。中央ゲートはガラスではなくコンクリートの壁のようになっていて中が伺えない。これを目の前にしただけでも、この場所がどんなに社会と乖離していて、この内側は別の世界だという雰囲気を直球に訴えかけてくる。このプレッシャーを乗り越え一歩を踏み出すと、重々しくゲートが開き一本の通路が現れた。さらにもう一歩踏み出すとゲートは開いたときよりも早めに閉まり、エイチは少し心臓がキュッとしてしまった。5メートルほど先に少し曇ったガラスのゲートがある。恐らくこの通路を歩いていくうちに体がスキャンされるのだろう。ゆっくりと歩いていくと、ガラスのゲートの内側が徐々に伺いしれ、うっすらと人影が見え始めた。ゲートの手前で止まり数秒後にビーというブザーとともにゲートが開いた。そこはカウンターのみの小部屋で正面にカウンターと受付ロボット、左右に中央ゲートのように重々しい壁のようなゲートがある。恐らくどちらも檻につながっているのだろう。地下駐車場に入る前に一瞬施設の全体が見え、同じ形状のビルが2棟立っていたからだ。だがビルと言うより、窓が一切見えなく大きな壁のようだった。カウンターに着くと、受付ロボットが


「袴田様、エドガー・ジョンソンはナンバー2098になります。右手のゲートよりお進みください。その後音声アナウンスに従いお進みください」


と言い、ゲートを指し示した。エイチは言葉に従い右側のゲートの前に立つと、こちらもビーとブザーが鳴り、重々しく感じられたゲートはシューと、やや軽めの音を立てながら開き一直線に白い壁と天井の薄暗い通路が伸びていた。前に進むと同時に目の前が明るくなり、10メートルほど進むとエレベーターが現れた。


「エレベーターに乗り20階で降りたあと、98室までご案内いたします」


エレベーターは1人用のようだ。特には調べなかったが面会できるのは1人だけなのか。ウォーンと低い音をたてながら、心の準備もする間もなく20階へと着いてしまった。


「前にお進みいただき、赤いランプの点灯しているゲートにお入りください」


先ほどと同じ様に、進むにつれて目の前が明るくなる。ただ違うことは、遠くに赤いランプが、軌道ステーションから眺めた太陽光に照らされぽつんと佇んでいる、軌道ステーションへのシャトル発着用ブイのように道を指し示している。そのブイにたどり着くと、下のゲートが開いている。エイチはそれまで気付かなかったが今まで歩いていた通路の壁に複数のゲートがあったようだ。真っ白い壁のせいでゲートの隙間さえも見えなかった。開いているゲートを覗き込むと2098と書かれたシャトルに使われるような丸いハッチが現れ、これまたビーとブザーの音とともにハッチが開いた。

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