再び動き出す
トースケは今では日課となったレポート作成のため、ネットへとダイブしていた。無慈悲なAIは非情にも現在のトースケの立ち位置を伝えてくれる。今の立ち位置はどちらかと言うと希望するハイスクールへは入れない成績だ。ラビッシュはトースケのクラスでも今の時期はもっぱらの話題で、入学してしまったら一生底辺から這い上がれなくなるとか、まるで刑務所のようにAIの監視下で清掃活動を強いられるとか、まるで噂の域を超えない物ばかりが囁かれているが、中には信憑性のある情報ももたらされたりもする。おなじマンションに住む仲野さんの息子のケンタはトースケよりも10歳年上である。ケンタはラビッシュの経験者で、底辺とされるラビッシュから這い上がった稀なケースの一人である。今となっては中央アフリカの軌道エレベーター宇宙ステーションまでの定期便パイロットをしている。仲野家と袴田家は同時期にこのマンションに入居したため、古くからの顔馴染でありケンタもトースケを弟のように可愛がっていた。トースケにとっては自力で成功をもぎ取った憧れの人物として写っていた。そんな彼も中学の時は悪い仲間との交際から成績と共に素行も悪かったため、当然のようにラビッシュに入れられた。幸か不幸かそこで悪い縁が断ち切れたため、2年後には飛び級して大学へと進学を果たした。そこからはエリートの道を歩んでいる。基本的にはラビッシュでの環境に染まらない彼の強い意志があったため、パイロットになるまでのシンデレラストーリーを描けたわけだ。そのような事例を身近に感じているトースケにとっては、今さほど頑張らなくてもラビッシュで頑張りステップアップしていけば良いんだという、かなり楽観的な思いを漠然と考えていた。ケンタは東京の宇宙港の近くに住んでいて、トースケともめっきり会わなくなっていた。しかし、先日初めてトースケが東京湾に浮かぶケンタの家へと遊びに行ったことがある。2人が顔を揃えるのはアンリの葬式依頼になる。その時、ケンタは中身のない棺を前に泣きじゃくるトースケの横に行き、何も言わずにただ横に寄り添っていた。
―ケンタも幼い頃、父親を交通事故で亡くしていた。幼かったため記憶には断片的にしか残っていないが、観光のためガラパゴス諸島の軌道エレベーター宇宙ステーションからのシャトルでの帰還中でのことだった。ネットワークの一瞬の乱れにより、AIナビの計算に誤差が生じ大気圏突入の角度が少しズレた。少しのズレならシャトル自身が軌道修正を行い問題はない。しかし、その制御が働かなかった。シャトル自身の操舵用AIは操縦せずに、ただシャトルがどのくらい危険な状態かをあらゆる計器を使って訴えてくるのみだった。パイロットがマニュアル操縦に変更するも、軌道がズレたままシャトルは進み続け、なんとか大気圏は脱したが機体のダメージから正常な飛行ができなくなり洋上への不時着を選んだ。期待はぼろぼろであり、不時着しても大破するのではというくらいで、ケンタの父親はすかさず母親とケンタを後部座席の辺りに押しやった。シャトルは不時着どころか急降下での墜落のような格好になり、そのまま洋上へ体当りした―。レーダーと衛星の情報から、救助隊がすぐに駆けつけたが、機体は真っ二つになっていて、前方にいた人間は半分以上が亡くなった。ケンタの父親はというと、ちょうど損傷の激しい機体の真ん中に居たことで、シャトルの壁、骨組みの一部が体に突き刺さった格好となり即死だった。母親も酷く頭を打ち付けたため、病院での治療が数ヶ月必要だったが命に別状はなかった。ケンタも母親にしっかり包まれていたため、軽い擦り傷程度で済んでいた。幾重にも安全対策がされたシャトルで何故このような事故が起きたのか騒然としていたが、3日後に自然保護団体の過激派が犯行声明を出した―。トースケの母親アンリも過激派によるテロ行為で亡くなっているため、ケンタと同じ境遇であり、やりきれない思いを抱いていることはケンタには痛いほど解っていた。ラビッシュからここまで這い上がれたのも母親をなんとか助けたい、あのような事故で亡くなった家族を持つ人を増やさないために、シャトルに関する安全対策を大学で学び、自らがパロットとなることで実現させようという理想からだった。
トースケがケンタの家についた時、ケンタはちょうど翌日のフライトに向けてのミーティングを終えた直後だった。フライトと言っても自らがシャトルを操縦することはほとんどなく、AIによる自動運転が主だ。システムによる安全航行を監視し、適宜AIに指図を行ってシャトルを運行する。AIにも個性があり、彼らとうまく付き合い業務を円滑に進めるためにもメンテナンスクルーやアンドロイドCAとのミーティングによる入念な準備が必須になる。時間が伸び始めた半年前にアメリカ宇宙局からの発表があり世界的に足並みを揃えて時計をずらしていた。宇宙局ではどのような計算をしているのかはわからなかったが、とにかく瞬時に時計を合わせられた。度々宇宙空間を行き来するケンタにとっては、時間が少しづつ伸びていても地上で働く人々よりは感覚的にもさほど影響はなかった。ただ一つ変化が感じられたことは時間が伸び始めた頃、宇宙ステーションとのドッキングの際に月を左手に見ながら自動運転の座標軸を見ていた。月の方向からの圧力を感じふと左側に目を逸らすと、全身がその方向に引きつけられる感覚に陥った。なにか興味のあるものがあるとか、重力のように引きつけられるとかの感覚ではない。自分の深層心理までも吸い取られていくような今まで感じたことのない感覚だった。その後2回ほど経験したが、度重なるフライトで慣れてしまったのかそのような感覚に陥ることはなくなった。初めて宇宙にでたわけでもないのに、不思議な感覚を経験したと、今度の父親の転勤で初めて宇宙に出るトースケにケンタは昼食のパスタを頬張りながらトースケに話した。トースケはラビッシュでの事、そこでどのように頑張れたかを熱心にケンタに聞いた。一方ケンタは当然のことながら、ラビッシュに入らないことがいちばん大切なんだと説いた。
昼食の後トースケの進路への手助けになればと思い、ケンタは自身の勤務する宇宙港へと案内した。東京宇宙港へはケンタの家から更にトレインで南下し、同じように東京湾に浮かんでいる。シャトルはカタパルトから発射するため、道中のトレインからは空に向かって伸びる、または空から伸ばされたストローのような巨大な構造物が姿を表す。カタパルトをトレインから横目に見ていると、ちょうど宇宙ステーション行きのシャトルがカタパルトに運び込まれ、エンジンからの火柱が大きくなったと思いきや、すぐさま発進しトレインの遥か前方へ消えていった。その後は太陽に照らされた光の粒になり宇宙へと旅立っていった。トレインは第一ゲートに到着し改札を出ると、コンシェルジュアンドロイドや荷物運搬ロボットが忙しく走り回るロビーへと出る。通常はロビーからシャトルの発着ゲートに直行するか、一休みして買い物や食事を摂りにモールへ向かうかの2通りだが、パイロットであるケンタの計らいでシャトルのドッグに連れてもらえることになっていた。ロビーの片隅にSTAFFONLYと書かれているハッチ型の扉がある。その前には警備ロボットがいて、ケンタは自分の顔と手のひらをロボットのカメラにかざし、承認を受けるとロボットが
「―入場の要件はどのようになりますか?」とケンタに訪ね
「昨日、申請していた案件で入場する。通してくれ」
一瞬ロボットが通信を行い
「―申請No.10056承知しました。トースケさんとごゆっくり」
「いつも的確な業務ありがとう。」
「―どういたしまして」
ケンタはSTAFFONLYの扉にまた、顔と手のひらを近づけると、パシューと音を立てながら扉は開き2人は少々暗い小部屋に入った。また、パシューと音を立て扉が閉まるとぼんやり明かりが灯され、眼の前にまた扉が現れた。どうやら身体のスキャンを行う小部屋らしい。セキュリティの高い場所などはAIがちょっとした挙動や身のこなしから悪意があるかの判定もできるらしい。人の心までも読み取ってしまうのかと驚くと同時に、トースケは自宅のAIは曲を間違えたことを指摘すると機嫌が悪くなってしまったり、進路判定AIは本当に無骨な表現しかしなかったり、人間もAIも変わらないんだなと少し笑えてきた。次の扉が開き、ケンタの後ろをついて扉を出ると、先程の小部屋からは想像もつかないほど広大な空間に出た。壁伝いに廊下が続いている。中央部は下が霞んで見えるほど深く、そこには大きな踏み台のような上下するエレベーター状の作業スペースがあり、その上に整備されているシャトルが鎮座している。どうやら、流れ作業で下から来たエレベーターが一番上まで行くと整備が終了し、地上へと搬出される仕組みのようだ。それぞれの階層でロボットが忙しく作業をしている。しかし、地下何十階になるのだろうか。下を覗き込むと寒気がするほどの深さだ。ほとんどすべてがロボットによる作業のため、人のような物体が見る限り数百とひしめいているが、会話は一切なく作業音だけがこだまする異様な空間にもなっている。作業用ロボットは遠隔やロボット同士それぞれが通信をする。当然そこには声はない。今となっては人間も耳の裏に端末をつけることでネットワークに繋がることができる。そこには声はなく、脳で考えたことが表現されていく。軍人や中央警察の治安対策部はネットワークを介してではなく脳それぞれで会話をしている。そのうち民間人でも脳通信ができるようになるだろう。実体としての会話や声は退化していくのだろうか。声のない世界はどうなってしまうのだろうとトースケはぼんやり考え始めた。
初めて目の当たりにする景色に面食らい、そのようなことを考えているとケンタの実体の声が話しかけてきた。ドックに収納されたシャトルはここで整備が実施され別のトンネル状のドックで検査を受け、エンジンやAIを除いて殆どが新品のようになり一日もしないうちに地上に戻って来るらしい。このような作業についてはロボットやAIが人間よりはるかに長けていて、特殊な判断が求められる状況では人間の出番になる。昔は技術において人間が圧倒的に優れていて、それに長けた人を「ショクニン」と読んでいたと、古い機械を漁りに行っている店の店主にもらった古い文献に載っていた。ただ、今ではAIが設計から開発まで行っているため、特殊な判断についてもAIが長けている場合がある。社会のインフラについても、地上においては人間が介在する場所がなくなってきており、システムが管理や監督を行っている。人間のためにロボットやAIがあるのか、人間はいつまでAIを制御していけるのか、テクノロジーがどんどん進む世の中に生きているトースケは、自分が生きているうちに人間がAIに制御される世界に切り替わるのではないかと考えている。所々に作業員用のコンシェルジュロボットが設置されていて、トースケは作業用ロボットはどのこメーカーの物なのか、修理の作業フローはどんなものなのかを熱心に聞いていた。左手に廊下をずっと渡っていくと、トンネル状の検査ドックになるが、スキャンなどでロボットがシャトルの周りをぐるぐる回るだけで、見ていて楽しくないから発着場を見に行こうとケンタが促した。
見学で修理ドックの最下部まで移動していた2人はエレベーターに乗り、地上の発着場まで数十階もの階層を駆け上がった。凄まじい速さなのだが、エレベーター内は平穏そのものである。この技術はシャトルにも使われていて、快適な旅の手助けになっているようだ。地上へ出ると今度はギラギラと太陽の降りそそぐカタパルトデッキに到着した。人工の光の中でしばらく過ごしていたせいで突然の光に目が追いついていなく、エレベーターの扉が開くと一瞬、扉の開いた分の視野しかなかったが、程なくしてエレベーターの第二の扉が開いたかのように視界がひらけた。そこには先程見たカタパルトのレールがより存在感を増し空に突き刺さるイッカクの角のように見えた。その角は正面、左右それぞれに計3本伸びていて、各宇宙ステーションや各国の空港へシャトルを誘う。イッカクは30年くらい前に絶滅したらしい、トースケは教科書でその姿を目にした瞬間から強烈に脳裏に焼き付き、今日始めてその姿を例えられるものに出会った。ちょうどインドへ向かう便が発進するところだ。インドへは2時間弱の時間でついてしまう、インドくらいまでは日本からは偏西風に逆らい宇宙空間にはでずに西への航路を取る。シャトルは今見えている3本の角のうち右側の角の上を滑るように走っていき瞬く間に右手へ消えていった。それ以上は太陽からの光が眩しすぎて追うことはできなかった。
ケンタはラビッシュでの学生生活を語り始めた。幼い頃に父親をなくし母親と生活していたが、同じく父親がいない当時の先輩と良くつるむようになり、バイクの後ろに乗せてもらい夜の街を低層区画から高層区画まで、くまなくツーリングした思い出などを少々自慢げにトースケへ披露した。トースケは自分が憧れるケンタの話に興味津々で食らいついていた。エイチの声には一切反応しないが、ケンタの言うことなら素直に聞くため、エイチは予てから機会があれば、進路のことについて諭してくれとケンタへ頼んでいた。今日はその目論見がまんまとかなった形になった。このへんはまだまだ子供だなと、その後報告を受けたエイチはコーヒーを飲みながらほくそ笑んでいた。しかし、その先輩が問題で、当時若者の間で流行っていた合法ドラッグのショップに仲間とともに溜まっていた。合法でも裏では違法まがいの物も扱っていて、何度かケンタも摂らないかと誘われていた。ケンタも子供だったため、その誘いには断れずに手を出そうとしていたその時にドラッグショップの摘発に会い逮捕されたのだった。ちょうど違法ドラッグが社会問題になった頃で死者も数人でたことから、中央警察は一斉に厳しい取り締まりを行った。ケンタの世代はその社会現象に捩られて薬世代と呼ばれている。ケンタは落ちぶれる直前に逮捕されたわけだが、その状況から不起訴処分になっている。しかし、聖人君主であるべき時期のため、成績がそれなりに良いケンタではあったがラビッシュに送られたというわけだ。元々、比較的勉強ができることはあったが、劣等感溢れるラビッシュからの抜け出しには相当な苦労があった。今のトースケは真っ当に勉強していけば自分の理想に必ずたどり着けるであろう場所にいるのに、ただただこの瞬間を頑張りたくないがために、ラビッシュに行くのは間違っている。今の時期は妥協しちゃいけないと、ケンタは自分が経験しただけに熱くトースケを叱咤激励した。トースケも憧れの人からのメッセージは深く心に入ったようである。その時、ちょうどバゴオオと逆噴射の音を立てながら、シャトルが1台滑走路へと帰還した。その後は、ケンタの家で中央アフリカ宇宙ステーション界隈ではやっているという、ワニ肉のシチュー、ワニも絶滅危惧のため本物の食用は厳禁なので合成肉になる。今では家畜と呼ばれていた動物や野生動物の肉は厳重に取り締まられている。本物の肉の味を知っている人はトースケの年代はあまり居ない。トースケは帰りの地下リニアトレインに乗りながら、母親と食べたハンバーグの味が記憶から薄れていくことに少し寂しい気持ちになり俯いたのだが、社会見学の疲れでそのまま目を閉じてしまい、気づいた頃には最寄りの駅を過ぎてしまっていてもう一周トレインに揺られることになった―。
東京駅跡地には地上80階、地下30階の大きなショッピングモールがある。周りの建物に比べて屋上は低いが、そこは大きな公園のようになっていて、リニアトレインや空中バスの発着場にもなっている。ケンタは、トレインから降りゲートを潜ると、前方では何やら誰かが演説をしているようだった。進む方向なので近づいていくと、誰か一人が演説をしているのではなく、公園にいる人々に向けて10人ほどの集団が何かを声高に訴えているようだった。近づくに連れて、周りの雑踏の中からその声が徐々にクリアになってくる。
「…のよの…」
「…れは、償う時が来ている!」
「人間の本質を追い求め生きるのが正しい道である!」
「共に歩み、…のすがた…いきする…」
すぐ横を通り過ぎた訳では無いが、断片的に聞き取れた内容と集団の雰囲気でおおよその察しはつく。有名な人間統一連合といって、テクノロジーを批判し人間の姿を追い求めようとする集団で、社会的になにか不安なことがあれば、テクノロジーを進化し続けてきた人間は、地球や影響を与えた全てに償わなければいけないと謳っている。自分たちも産まれていないような地球温暖化というものが末期の時代をとりあげ、いかに人間が愚かなのか、教えに沿って生きていくことが心理としている。今は、何故か時間が伸びていることを『不安』と嗅ぎつけたのだろう。いつの時代にも人々の不安にかこつけて自分たちの利益に繋げようとする宗教は存在する。例の環境保護団体の過激派だっておかしな思想を持って活動していた。それこそ自然保護にかこつけて自分たちのエゴを押し付け、利益を実現するために人々を勧誘している。宗教と何も変わらない。彼らにとって自然なんて二の次だ。人間が行う開発や建設を妨害すること、犯罪をすることが目的で、無理やり自然に絡めているだけだ。アマゾンに穴を開けたときだって―。アンリはあいつらの幼稚な思想の犠牲になり記憶の中の存在になってしまった。一瞬で人の命も人権も奪った者は、一生懸命に他の人達の労力も時間も自分の物のように奪い取り延命され命を繋いでいる。これからも生かされ続け、世の中からの償いの要求に答えながらも、程度は分からないが少しでも自分の人生を謳歌できるだろう。殺人者や犯罪者の方が自分の理想に近づけて、かつ自分の生きる権利も邪魔されない。エイチはお経のように恨み節が頭の中を駆け巡り、怒りや憤りが心の中をあっという間に支配してしまった。ちょうどエレベーターが地上1階に到着し眼の前右手にアニクから教えてもらった、トースケとの約束の場所が見えた。
(そうだ、トースケとの約束があるんだ)
ふと頭の中にトースケが浮かび、エイチは感情の沼から足を引き上げ、硬い土の上に身を置くことができた。やはりトースケが心の支えになっているのは確かだった。
17時20分。約束より早めに着いた。ヌードル店とは謳っているが、アルコールのドリンクも充実しているため、エイチはビールを頼み時間を潰そうと考えた。グラスに入った水に小さなキューブを入れると、たちまちビールへと変化する。つまみも、簡単な素材の物になってしまうがプリンターで作成もできてしまう。この技術ができてからは注文して瞬時に提供されるため、矢継ぎ早にアルコールを摂取できる。世の中の時間は伸びたが、人によっては呑みすぎて我を失うまでの時間が短縮される。先日アニクと別所の3人で呑んでいたときは、隣の席の若者がビールのキューブ、ワインのキューブなどをどんどん頼み、異様なペースで呑んでいた。誰が見てもわかるようなオーバーペースであったため、当然のように酔い潰れてしまった。別所が言うには、隣の席で乾杯と声を聞いてから25分間の出来事だったようだ。その若者は店が保有している介抱ロボットに連れられ、どこかに行ってしまった。そのあとは何事もなかったかのように、グループの人たちは酒や食事を楽しんでいた。その時エイチは、なんて非情な人たちだろうと思っていたのだが、今あらためて思い返してみると、彼は厄介な存在のため早いうちに戦線離脱をさせてしまおうという作戦だったのかもしれないと考えることもできた。それはそれで前者よりもっと非情ではないのかと、エイチは1/3の量になってしまったグラスを傾けながら思いふけっていると、グラスの表面に見覚えのある人影が写った。慌てて振り返ると、そこには誰もいない。注文に慌ただしくしている配膳ロボやトイレなのかわからないが、立ち上がっている他の客だけだった。居るはずがないかと、ため息を付いたその直後にトースケがやってきた。エイチは疲れているからかもしれないと言い聞かせようとしたが、あの見覚えのある人物はまさしくジョンソンだった。
トースケはエイチの真正面に座り、おもむろにメニューディスプレイを操作しだした。こちら側から見ていると、半透明のホログラムディスプレイ越しにトースケがまるでオーケストラの指揮者のような指さばきで、メニューを検索していた。
「何を頼んでもいいんでしょ?」
「あぁ、俺はもう1杯頼むから合わせて頼んでくれよ。ビールのキューブを1つ」
指揮者の華麗なタクトさばきで注文がされ、トースケは味噌スープのヌードルと餃子を頼んだ。この店は、ヌードルの麺はプリンターではなく小麦から作っているらしい。昔ながらの製法なのだそうだが、プリンター麺とはまるで風味が違うらしい。その点が人気の秘訣のようだ。それなりに品物の値段は上がるが開店して3年経っても変わらずいつも盛況だ。エイチはアニクに教わって始めて昔ながらの製法の小麦の麺を口にした。昔の人はこんなにも美味しいものを毎日のように食べていたのかと感動さえ覚えた。グラスへキューブをポチャンといれ、エイチはこの麺の素晴らしさをトースケに熱く説いた。トースケは電話の端末を、今度は空中に文字を書いているかのように操作していた。聞いてるのか聞いていないのか分からなかったが
「前に給食で食べたことあるよ」
と返した。エイチはちゃんと聞いているなら頷くくらいできるだろうと心のなかで思ったが、それよりも自分はやっと最近になってこの麺のすばらしさを知ることができて感動すら覚えているのに、かたや、10代にしてその味を知っている。しかも、美味しいとか何も感想もなくただ冷静に食べた事実だけを淡々と述べたトースケがもどかしく感じられた。エイチが小さい頃はやっと、酷かった温暖化がテクノロジーによって回復して気候も安定しだした頃で、世の中の風潮はまだ温暖化の渦中とあまり変わっていなかった。中でも食については特にそうで、ちょっとの贅沢も許されず給食に本物の小麦粉製品が出ることはなかった。今はだいぶ気候も安定したおかげで社会も落ち着きを取り戻し余裕を持って食を楽しめるようになった。味噌スープのヌードルと餃子が運ばれ、トースケは箸とフォークをテーブルサイドから取り出した。配膳アンドロイドは
「どうぞごゆっくり。このメニューのアピールポイントは」
「それはいい」
「―何かありましたら何なりとお申し付けください」
そう言って何一つ表情を変えずにアンドロイドは去っていった。トースケは食い気味でアンドロイドの仕事を妨げ、ヌードルにフォークを伸ばした。ヌードルを食べ始まられてしまったら、ひたすら食べ終わるまで待たなくてはいけなかったじゃないかと、エイチは少し後悔したが、こちらのほうが改まって顔を付き合わあせて話すより良いかもしれないとエイチは思った。ひとしきりヌードルとのファーストコンタクトを終え、トースケは餃子に箸を向かわせた時に本題を切り出した。
「なあ、トースケ…」
「…ん?」
餃子を頬張りながらトースケはかすかに聞き取れる音量で返事をした。
「この前、月への出張が半年後になると言ってたと思うけど、お前も連れていけることになったよ。多分周りはみんな年下だけど新天地で勉強もはかどるだろう?」
「ただ…ちょっと、ちょっとどころじゃないけど2ヶ月後になっちまった」
トースケは麺をすすり終わると
「滞在する期間は変わんないんでしょ?ハワイのじいちゃんも迷惑だと思うし…カリキュラムの環境は変わんないんでしょ?それなら、別にいいけど…」
「そうか…良かった」
「準備するものもそんなにないし…」
エイチはアニクに言ったような、アンリの死との向き合い方の新たなフェーズになればいいと考えている事は、なんだか恥ずかしくてトースケには話せなかった。トースケも2ヶ月後はアンリの命日になるのは当然わかっているはずだが、その事についても深くは聞いてこなかったため、この会話はそれまでとなった。その後は、トースケが予定があると言っていたゲームの仲間についての話から学校での生活等々、ありきたりな話が続いたが、エイチは軽い緊張から解き放たれたことに加え、アルコールの力を借りて上機嫌になっていた。どうしても喋りたくなってしまい、あまり勉強をしているように見えないトースケに、聞くはずがないからケンタに頼んだにも関わらず、今の時期の重要性や人生観に至るまで説教じみた話を延々としてしまった。食べ終えたトースケは電話端末を取りだし時折頷きながら空中に文字を描いていた。―どうやら、聞いていないときは頷くようである。
翌朝は少しアルコールが残ってはいたが、エイチはいつも通りパンとコーヒーを食卓に並べ朝のルーティンをこなしていた。テレビの向こうではトースケが歯のブラッシングマシーンを口に含みながら着替えを行っていた。テレビに流れる話題は、この頃いつも放送している突然姿を表した火星探査機についての話題で、コメンテーターが独自の解釈を展開している。月の次は火星に軌道ステーションを建設するため、無人探査機を送り込み、地形や大気の調査とともにステーション建設のための物資の輸送を行っている。今回は5回目の往復で、地球と火星のちょうど中間地点のあたりで突然消息不明となっていて、つい先日に月の裏側に忽然と現れた。この間はこのニュースの後にジョンソンの殺人事件の話題があった。昨日、グラスに写ったのは確実にジョンソンだったのかと思い返したが、あれは確かににジョンソンだった。現実には彼は勾留されているはずで、あの場所に居るはずがない。この頃は月への出張が早まったせいで、準備しておくものや打ち合わせに忙しい。ずっと気が張り詰めているせいで疲れているんだろうとエイチは自分に言い聞かせた。いつものようにトースケが慌ただしく学校へ出かけ、エイチもそろそろ会議の準備をしなくてはと耳にかけていたテレビを外そうとした時に速報が流れた。アメリカの宇宙局の会見のようだ。エイチは火星探査機の事だとしたら大げさすぎはしないかと思いながら、テレビをまた耳にかけ内容に目を凝らした。その内容とは、時間がまた徐々に伸び始めているという内容で、標準時間の修正を行うと宣言していた。宇宙局の会見では、人々が知りたいような内容はほとんどされなかった。時間が伸びたから事務的に標準時間を伸ばすこと、また、前回同様に個人差はあるが、一定数の人が体の不調が現れることが示され、時間が伸びた根本的な原因や表面上は環境や生態系にも影響はないとしているが、それは本当なのかという世間の疑問には触れられなかった。
一度とならず二度目ともなると、世間の不安は一気に大きくなった。連日、ニュースやワイドショーでは時間が何故伸びるのか、考察や想像が飛び交った。時間が伸びるといった事象なだけに、そのどれもが突飛なものだった。この現代においても未知の部分は多くあり計り知れないところがある。我々の住んでいる地球ですら深海のすべては明かされていない。そのような状態でも人々は外へ出ようとする。ほんの数パーセント人間が知っている宇宙の環境がこんなにも人間にとって恐ろしいもので、他の90何パーセントがもっとひどい事実があるのかも知れない。未知のものへと進んでいく人間の探究心というものにエイチは、いくばくかの怖さまで覚えた―。会議が終わりひとしきりの仕事を終え、エイチは自慢のコーヒーメーカーに今日の気分である、ネオキリマンジャロの豆を入れ、そっと手をかざし機械を動かした。ブーンと小さな低い音をたて、コーヒーメーカーが手のひらから読み取ったエイチのバイタルから、最適な淹れ方のコーヒーを提供するためせっせと動き出した。温暖化が加速した際に、地球のコーヒーベルトは崩壊し、コーヒーの木が世界から全滅する手前までになってしまった。環境の回復と遺伝子技術によりコーヒーの木はすぐに再生された。昔からのオリジナルはほとんど存在しておらず、今ではすべてのコーヒー豆には「ネオ」がつく。
「コーヒーが出来上がりました。今日は少し渋みを強調させています」
AIがコーヒーができたことを知らせてくれた。エイチはコーヒーカップを手に取り、ソファーに腰掛け一息ついた。忙しい日々が続いていたため、2杯ほど飲んだ後飲みかけのコーヒーをテーブルに移し、足を伸ばしてソファーに横になって、ダラダラしていたらそのまま寝入ってしまった。
―(疲れていたから寝てたみたいだ。どれくらい寝ていたんだろう。)
エイチの周りは配管やドアハッチが剥き出しの場所だ。
(ここはどこだっけな。)
何故か高揚感に満たされ、迷うことなく前へ進んでいった。その先には何やら数人の話し声が聞こえる。もっと近づいていくと、食器の音とともに見慣れた顔ぶれが並んでいた。2年ほど前の太陽光パネル設置時の同僚たちだ。窓の外には青白くガラスの表面のように光を反射している地球が見える。
「ぼーっと突っ立ってないで、飯食おうぜ!また設置を急かされたせいで、休憩が削られてんだぞ~」
ちょうど一つ席が空いていたので腰掛けると、どこからともなくワンプレートに盛られた食事が運ばれた。ひき肉やコーン、ブロッコリー、サイコロステーキなど、プリンターで作られたものばかり。一つの贅沢とすれば、そこにノンアルコールのワインがグラスに注がれている。
(そうだ。閉鎖空間での仕事は気が滅入ってしまうから、会社に声を上げてやっと勝ち取ったものだ)
エイチは、そこでやっとこれが夢なんだと頭の中ではっきりした。何時もはここで目覚めるのだが、この夢はエイチを開放してはくれない。
(もう眠りから覚めていいだろう?意思もはっきりしているのに眠りから醒めないなんて…夢ではないのか?)
物語はエイチの戸惑いなど関係なく進んでいく。
「できの悪いリジェネビーフ食べてるからネガティブになるんだ」
「地上に降りたら、その足で高級レストランの本物のビーフを食べたほうがいい」
(実際に聞いた言葉だ)
この物語が夢ならば、過去が再生されているだけで、ただ俯瞰で見ているだけで自分が発言しようとしても水の中で話しているように、大きななにかに包まれて泡のように消えていくだけ、物語の中にいる人物には届かない。
「この話、前もしたよね?」
「するわけないじゃないか。袴田が怖い怖い言い出したんじゃね~か?」
心のなかで思い、泡のように消えて物語には介入できないと思っていたエイチは、戸惑いの次に少しの混乱に陥った。ここからまた、物語が始まるのか?知っている結末じゃない場合は?やり直しの人生なのか。とすればアンリは?―。
「そうなんだよ。伸び始めてから、感覚が鋭くなるというか、心の奥に眠っていた感情を誰かに取り出されてテーブルの上に置かれながら、これからはどうする?って聞かれているような。―その感情は今まで自分が認識していなかったものだし少し戸惑ったのだけれど、すぐに受け入れられた。だから、自分の中の理性では理解していなかったけど生まれてからずっと『そこに』いたんだと確信が持てた。」
(何なんだこの話は?)
少しの混乱に陥り項垂れていたエイチは、聞き覚えのある声が、この場にいる誰の耳にも届かない、エイチだけの耳、心に届いてくるのを感じ、顔を上げ目線を響いてくる方向に向けた。そこには明らかに、ヌードル店のビールグラスに一瞬写った姿、ジョンソンがエイチの顔を直視しながら座っていた。
(いるはず…いたはずない。ジョンソンとは同じ職場では仕事をしていないはずだ)
彼はグラスに入ったノンアルコールワインを一口くちに含みテーブルにそっと置きながら
「なあ、エイチ。君も同じ思いをここで感じたはずだ。私の言っていることはわかるだろう?おそらく私達は選ばれたか特異的なのか、自分の深海を知ることができるようになったようだ。ただ知っているだけではだめなんだ。社会に示しながら、これからの何かに備えなければ」
そう言うとジョンソンは立ち上がり、エイチの反応を待つことなく歩きだした。エイチは慌ててジョンソンの後を追ったが、何故か一定の距離を保つだけで彼には追いつかなかった。そのままジョンソンは居住区と作業船をつなげる通路を登り始めエイチもそれに続いた。擬似的に居住区の重力を作り出すために、作業船から通路が伸びドーナッツ状の居住区とともに回っている。途中から重力は徐々になくなり無重力になった。上部のハッチが開けば作業船内に入るが、見上げた先にジョンソンは居ない。バシューとハッチが開いたが、そこには作業船の船内ではなく青く光る地球の表面が現れた。
(は!?)
無重力から一転、強烈な地球の引力に引かれエイチは地球へと落下した。眼の前が一瞬真っ白になり、今度は一面真っ暗な空間になった。見上げると光がゆらゆらと差し込んでいる。冷たい世界だ。身体を動かすと地球の重力よりもはるかに重い力が体にのしかかる。海の底のようだ。エイチはほんの一瞬息ができないと思ったが、その心配はなかった。自分の鼓動も感じられないのだ。
(死んでしまったのか?)
エイチは直感的に、この場所はアンリの歴史が途切れてしまったアマゾンの目だと感じた。しばらく浮きも沈みもしなくゆらゆらとしていると、背後に気配を感じ振り返った。そこには誰の姿もないが、存在として感じ取れるアンリがそこにいた。
「やっと話すことができた。あのままじゃ酷すぎるもの」
「君はもう死んでいるのか?結末は何も変わっていないのか?」
「結末は何も変わらないの。だって時間は前しか見ていないでしょ?」
「俺は死んだのか?だから君と話ができているんだろ?さっきまでいるはずもない2年前の職場にジョンソンがいたんだ。これは夢ではないのか?脳がハッキングされでもしたのか?」
混乱しているエイチとは対象的に、アンリは淡々とエイチの感情をまるで無視しているようにまた話しだした。
「ここはあなたが思っている通り、私が無くなった場所。一瞬だったから何も苦しくはなかったの。だから一層、あなた達に何も言えなかったのが悔しかったの。でもやっと、あなたが鋭くなって、近くに来てくれた。ずっと伝えていたことだけど、今までありがとう。トースケも愛しているわ。これからもずっと…」
「本当にいつも…感謝してい…ま…今度ね……」
その声は次第に遠ざかり、冷たく何も聞こえない世界に戻った。エイチは何度もアンリの名前を叫んだが、アンリの声は戻ってくることはなかった。次の瞬間、アンリが感じた走馬灯と思われる、エネルギーパックが爆発する瞬間や、それまでのエイチとトースケとの思い出がエイチの頭の中を駆け巡り、どうしようもない絶望と恐怖が襲ってきた。
(や、やめてくれ!…!!)
「とうさん、…とうさん?大丈夫?」
目を開けたエイチの前には不安そうに顔を覗き込むトースケがいた。何時もは反抗的な態度で、エイチを心配するようなことはなかったため、息子のこのような表情を見るのは、久しぶりなことだなとエイチは感じたが、すぐに今の出来事は夢だったんだと感じた。しかし、アンリの走馬灯など知る由もないし、ジョンソンは何を伝えたかったのか。エイチは念のためAIにネットワークにハッキングがなかったか確かめたが、そのような事実はなかった。