表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/12

1日が伸びる

食卓にはいつも、パンとコーヒーが並ぶ。どちらも温暖化の煽りを受けて、エイチが小学生の頃までは大変高価だったようだが、今では温暖化を制御し、学者たちが口を揃えて合唱する、あるべき姿としての気候が実現されている。これには日本を含めた先進国が一丸となり、宇宙と地球をつなぐ軌道エレベーターを建設して電波による効率の悪い送電に変わり、宇宙太陽光が有線により確実に地上に送電されるようになったからだった。軌道エレベーターはトンガと、中央アフリカ、ガラパゴス諸島に建設され、宇宙空間へ飛び出し太陽光パネルが設置されている。それぞれが宇宙港の役割をしており、宇宙船の発着も行われる。向こう15年のうちに今の地上からのロケットによる宇宙港へのアクセスを、トレインによるアクセスに切り替える。この計画が実現できたのは、今までにない無尽蔵のエネルギー量から、全世界に平等に分け与えられるようになり、権利だの覇権争いだの細かいことへの執着が薄くなったことでの心の余裕が、各国の協力に繋がったのだと当時建設に携わりながらエイチは考えていた。




パンをかじりながら、いつもAIの勧める、テレビに流れる朝のニュースを見ていると、テレビを通した向こう側にトースケが映し出されている。今では一般的になった壁の一面がディスプレイのテレビもあるが、この間購入した、目の前にディスプレイが映し出されるイヤーカフタイプのテレビを見ているからだ。朝の忙しい時間帯にはうってつけのアイテムで、エイチ的には2102年上半期の購入家電のトップに君臨する。トップ2はというと、今飲んでいるコーヒーを淹れているコーヒーメーカーだ。やっと今時の、焙煎からAIが自動で好みのコーヒーを淹れてくれるモデルを購入できた。トップ2と言ってしまったが、今年の上半期はその2つしか購入していない。物持ちは良い方で、ついこの前までもゴムタイヤがついている自動車を所有していた。日本自治政府が去年打ち出した法案が来年に施行されるため、純粋なゴムタイヤタイプの自動車の税金が倍以上にはね上がる。愛着のあった車だが背に腹は代えられないため、ゴムと反重力のハイブリッドタイヤの自動車を去年購入した。速度が上がるとゴムタイヤか傾いて浮遊状態になり道を傷めないんだとか。昔は趣味で郊外の田舎道をドライブしていたが、今はめっきりしていない。エイチの家がある都心では、ネットワークによる自動運転のため、自分でハンドルを握り運転することも殆ど無い。これも購入の後押しになった。




「今日は、ハイスクールの説明会だよな?何時からあるんだ?」


「…12時」


「お昼ごはんはどうすんだ?」


「…ハイスクールで出る」


「時間が伸びて体が中々慣れないけど、トースケはどうだ?疲れが取れないんだよ」


「おっさんだから体ガタガタなんじゃねーの?時間が伸びたってフツーだけど」


憎まれ口はすかさず出てくる。トースケはいわゆる反抗期だ。この頃は目すらまともに合わせてくれない。トースケは15歳になる。人生が決まる分岐点に立っているのだ。小学校と中学校まで一貫で、高校と大学も一貫となるため、ここでの選択が人生において重要になってくる。勉強のできる子はどんどん飛び級する。隣の王さんの息子はトースケよりも1歳歳下だが今年大学へ入学した。エイチの頃はまだ、日本が独立国だった頃の旧態依然なシステムだったが、アメリカの自治区になり、アメ力から派遣された首相や政府になったことで社会構造は実力主義、個人主義が加速している。この家の周りは、いわゆる「できがいい」子供がたくさんいる。飛び級するのが当たり前の家庭ばかり。留年こそしていないが、トースケの成績は中の下といったところらしく、できるやつ、できないやつ、どちらかと言うとできないやつの3パターンにはっきり別れている。トースケはどちらかと言うとできないやつの中にいる。エイチも学生の頃はできない部類にいた。今の自分がエンジニアになれたことを考えれば、トースケの将来は恐らく大丈夫だろうと高をくくっている。しかし、今の社会構造を考えると、トースケの選択に一抹の不安を抱く。しかし父親として彼にどう接していいか、これからのことをどのように話し合うのかをただ呆然と考えている。今の世の中になっても時間が足りないようだ。テレビではありきたりな街頭インタビューが始まった。


「―の時間ができちゃったけど、どう有意義に過ごしますか?」


「えーとー。あたしたち有意義に寝てまーす」




もうそろそろ9時になる。エイチの会社はエンジニアリング会社で社名は「ルナエンジ」今は月面に10000人規模の住宅地を建設するプロジェクトを推進している。アメリカの宇宙局が日本の同局を傘下に入れ、それの直下に位置するプロジェクトだ。数々の民間企業が参画し、それぞれの分野で建設を進めていく。去年におおよその計画案がまとまり、段階的に住宅地を完成させるため、順次、物資と人員を月へ向けて投入していく。2112年、10年かけて完成へとこぎ着ける。この短期間でできるのも、宇宙太陽光のおかげだ。エイチはその中で、住宅地のエネルギーインフラを整えるため、計画の初期から携わる。具体的には作業用ロボットのメンテナンスや作業のスケジューリングが主な仕事だ。今は地球での作業用ロボットのメンテナンスは他のチームが行っている。プロジェクトの準備が主な仕事なので会社に出社する必要はないのだが、月に数回、コミュニケーションのために、会社が出社を命じている。少し前までは、時間の調整に世間が右往左往していたが、他にデメリットもないことで、会社はだいたい1時間遅く始まるようになった。ただそれによって睡眠の時間は額面上増えているのだが、クローン細胞学の権威の先生が言うには、人間の時間間隔も個人差はあるが同じように増えているため、感覚や細胞の時間経過も25時間程度に合っているらしい。エイチの睡眠不足は時間延長に便乗して解決はされないようだ。




トースケはエイチの出社後、重りの付いたベストを脱ぎ捨てたかのように深い溜息をつき、ソファーに座った。


「音楽かけてくれ」


「―ポップスを再生します」


AIがトースケのお気に入りの音楽を流す。トースケの声色から、体調や感情を読み取り今の好みを反映してくれている。しかし、エイチの妙なもったいない精神が発揮され、このAIはグレードがあまり良くない。トースケのお気に入りを購入してから3ヶ月でやっと学習してくれた。トースケはロックが聴きたかったのに、童謡が流れてきたりしていた。訂正すると、やや反抗的に謝ってくる始末で、家の鍵の一つをかけ忘れたりもしていた。この手の製品は個体差が大きなことから返品も考えた。しかし、時間をかけて育てるのも楽しいかもとエイチは思い返し、じっくり育てた結果、3ヶ月の月日がかかってしまったが今では頼れる相棒である。トースケはネットワーク端末を引き出しから取り出し、右耳の後ろのポートに接続し、ネットワークへダイブした。ハイスクールへ入るためのレポート提出が課せられているためである。トースケは昔の機械が好きなことから、エンジニア系の大学に進みたいと漠然と考えていた。そのため、そちらの道に精通したハイスクールを選ぼうかと考えている。エイチには話していない。恥ずかしいというのもあるが、父親と同じエンジニアの道を進みたいと知られるのがどこか嫌だった。そんなことを言えば、父親は喜ぶだろう。喜ばせるために選んだわけではない。ただ自分が進みたいだけなのだ。そういうことを改めて父親に話すのも面倒だ。ほんとはエンジニアの先輩である父親に聞きたいことは沢山ある。大事な今の時期だからこそ、話さなければならないことがあるのは頭ではわかっている。十分わかっているのだ。一人の人間として独立して父親と向き合いたいが、力が及ばない所が多々ある。そこがもどかしくて悔しい。それがしょうがない事なのも十分分かっている。だが悔しい。何故かその感情のほうが支配的になる。大きな波が押し寄せて、聞いてみたい、話し合いたいという感情をさらっていく。さらわれた感情の下には反発が見え隠れする。砂浜に打ち寄せる波のように、素直と頑なが見え隠れしている―。




とはいえ、トースケの学力は中の下だ。そんな事はよくわかっている。だからこそ、レポート提出を課されている。中学最後の1年間は20年前までにあった受験制度は無く、日頃の授業の出来や生活態度、成績を逐一ネットワークに共有しAIが進路を判定してくれる。最後は個人の自由意志となるが、ここまで来ると「自由」の意味がかなり薄れてくる気もする。進みたいと考えているハイスクールは今のトースケには突破は難しい。冷徹なAIは悲しくもパーセンテージで希望校に行けるのかを出だしてくる。これでやる気を出すタイプと落ち込んでしまうタイプに二分されるだろう。努力を見せたくないタイプのトースケはエイチの前では勉強している素振りは見せない。だからこそエイチには進路を本気で考えているのか不安で仕方がない時間がやってくる。トースケへのレポートのお題は「エンジニアになった暁の自分の姿」―なんてありきたりなお題なのだろうか。妙にうがった所があるトースケは、このように、ボジティブで意識を高いところに持っていこうとする物に触れると、一気に冷めてしまう癖がある。今回のレポートはまさに当てはまる。小さい頃は、その傾向がもろに態度に出ていた。5歳のときに同級生と一緒に劇の発表会を行った。トースケは森の中の木の役だった。その劇は、温暖化に苦しんでいた森の木々たちを科学者たちが技術の力で助けるというような、英雄伝説のようなものだった。最後にはお決まりの、全員で一箇所に集合し歌を合唱する件になっていたが、トースケだけが木々の立っている場所から一切動かなかった。そこで歌うでもなく、本当に壇上に根をはやした木のように。段取りが分からなかったのではない。歌を忘れたのでもない。木というものは喋ったりはしないし歌も歌わない。ただそこに根付いて光合成をして生きているだけという確固たる信念のもと、トースケは木を演じきっていた。たまに枝を戦がしながら。レポートのお題に冷めたところで、こちらを提出しなければ、希望するハイスクールに合格すら難しくなる。もしそうなった場合は、個人の学力に見合った場所を割り当てられるが、個人の希望は反映されなく、AIがすべてを決める。それでも「適切」な場所が見つけられない者は、通称「ラビッシュ」と言われる場所に入れられる。この場所から這い上がり、一流企業に就職または、成功を収めることは皆無に等しい。それが故、中学3年生付近の学生は聖人君主のような生き方をしている者がほとんどだ。と言っても多感な世代なので、反発する者も必ずいたりする。ほとんどは、その両極端な世界になっていて、聖人君主的な生き方はどうにも気持ちが悪く、性に合わないトースケはAIが求める「きれい」な人にもなれず、かと言って反発心剥き出しなものにもなれない、今の時代背景で見れば中途半端な人に当てはまる。このままでは当然いけないので、ここは、聖人君主に一歩でも歩み寄りレポートを作成して日頃の頑張りをAIに見てもらわねばならない。かなりストレスは溜まるが仕方あるまい。そのように考えながらトースケはネットのレポート作成フォームにダイブしている。小さな頃のように、不承知が態度に出ることはなくなったが、AIに気付かれないよう細心の注意を払っている。




大きなあくびをしながら、エイチは地上132階のオフィスへと入った。右手に持っていた水を飲もうとしたとき、上司に呼び止められ、会議室へと案内された、上司は申し訳無さそうに口を開いた。


「袴田さん…なんか、申し訳ないんですけど」


上司と言っても、4つ歳下のエリートだ。


「突然なんですか?急な用なら車の中でも話せたのに」


「計画されてた月への出張なんですが―」


これは、朗報かもしれない。というのも、半年後とされている月への出張は、できることなら行きたくない。2年ほど前に軌道エレベーター建設にからむ太陽光パネル設置のため、1週間地球を周回していた。宇宙から見る地球の圧倒的美しさには感動したのだが、同時に強烈な虚無感に襲われた。自分が小さな存在だと気付かされたからか。心の奥に眠っていた悲しい気持ちが、地上の引力がなくなり表に出てきたのか。なにか大きな、人間の知り得るどんな強力な力を持っても立ち向かえない物が、遥か遠くからやってきて、エイチの心の奥底に入り込んでくる感覚がした。それは決してポジティブなものではなく、簡単な言葉で表すなら『恐怖』だった。地上から離れ、大気のない密閉空間に投げ出された「恐怖」ではない。それよりももっと深く、むしろ、エイチの体の細胞一つ一つの中心から湧き上がるような物だった。その当時は同行した同僚たちと、抱いた感覚について食事をしながら話しをしたが、誰ひとりわかってもらえず


 


「できの悪いリジェネビーフ食べてるからネガティブになるんだ」


「地上に降りたら、その足で高級レストランの本物のビーフを食べたほうがいい」


 などと、再生ではなく本物の肉を食べろと、あしらわれるだけだった。ただ単に出される食事にうんざりしていたのだろう。実際にエイチもうんざりしていたので、そんな気持ちから非日常の中で気持ちが落ちただけだと思うようにした。今思えば、その後に来る大きな憤りに比べれば大したことのないことだ。だがしかし、気持ちの良くない体験をしたことは確かで、当時の宇宙生活よりかなり短い9時間ほどだが、エイチはどうしても地上を飛び立つということに抵抗があった。そんなことから、歓迎されるべき報告なのではないかとエイチは考えた。


「半年後だったんだけど、2ヶ月後になったんです」


「計画が早まったのと、ジョンソンが居なくなったので、前倒し前倒しになっちゃって」


ジョンソンは10日前に会社をやめていた。会社には心の病気となっているらしいが詳しいことはわからない。それなりにストレスの掛かる仕事なので解らなくもないが、そんな素振りは微塵もなかった。そういった人だからこそ表には出さない秘めたものがあるのだとエイチは考えていた。しかし、元々計画されていたとはいえ、割を喰らった形になったことに加えて嫌なことが2ヶ月後にやってくると思うと、エイチはじめて宇宙太陽光の成功を恨んだ。




ジョンソンはエイチの会社では名のしれたエンジニアで、今回の「オアシス計画」の調査の段階から携わり、月にも何度が赴いている、いわゆるエースだ。最近も代理出産での第一子が生まれたばかりで、ますますやる気を出しているようだった。―彼は中国の宇宙局からやってきた。エイチより2歳年下だが、かなりしっかり者の好青年で、みんなから頼りにされていた。月クレーターの資源開発では、学力に裏付けされた勘から地質の特性を読み解き、掘削で苦戦していたドリルチームとともに難しい岩盤へと挑んでギリギリの納期に間に合わせてみせた。月に関しての知識は地球上の誰よりも豊富で、後に計画されている火星の軌道ステーション建設にも当然携わるだろうと考えられていた。エイチとは軌道エレベーターの建設のときに仕事が一緒になった。部署こそ違うが、ジョンソンは持ち前のフランクさで、エイチとも気軽に雑談した。妙にエイチと気が合い、ジョンソンの自宅でのパーティーにも、トースケとともに呼ばれたりしていた―。そんなことを思い出していると、エイチはもう一つ大事なことを思い出した。ジョンソンも宇宙へでたときに、エイチと同じ感覚に囚われたことがあると話していた。やはり周りの誰にも理解はしてもらえなかったようで、唯一エイチと分り合えたことで自分だけじゃないんだと安心していた。そう言えばあのときはもう、二人だったんだなとエイチは物憂い気持ちに苛まれた。




今では、地上からロケットで人と物資を軌道エレベーター上のステーションに送り込む。中央アフリカから伸びるステーションは大きなロボットドックを備えているため、ルナエンジの作業用ロボットもこのドックで製造される。ドックでは常駐している職員も居るが、エイチは地上から作業ロボットを製造するロボットの監視や命令を行なっている。同じ業務内容のアニクと別所とは年が近いのでエイチがこの会社に入社した当時からの友人だ。休憩時間に3人でドリンクコーナーの椅子に座り、別所が昨日会社の帰りに自動車のAIが誤作動を起こし、危なく逆走しそうになったので慌ててマニュアルに切り替え自動車を自宅まで走らせた。安全運転を支援する公共のAIアシスタントがあったとはいえ、久しぶりにハンドルを握ったことで酷く疲れたと話した。すかさずアニクは、何かあったときには肉体を使えるように身体強化してみたらと別所に提案した。医療行為で行われていた身体のサイボーグ化が一般市民へ最近緩和された。登録制で強化レベルが厳密に制限されているが、手軽に身体を強化できる。しかし、強化せずとも普段から身体を動かしていれば酷く疲れることはないだろうと、エイチは喉までその言葉が出てきていたが、先日、エイチと別所の二人で、アニクに教えてもらった東京駅跡地の記念碑近くにある飲食店へと赴いた。そこでは痩せなきゃと言いつつヌードルの特盛を頼み、いつかは痩せる日が来るんだから、今食べなきゃいけないと言っていた別所の恐ろしく楽観的な姿を思い出すと、その言葉を飲み込むことしかできなかった。かたやアニクはオリジナルの身体の筋力トレーニングを趣味としている。現代ではかなりニッチな趣味だ。アニクのようにオリジナルの人間を大切にする動きは予てからある。今では潤沢なエネルギーと何世代にも渡る和平への試みから、大きな侵略などは起きていないが、小さないざこざは未だにまだ続いている。テクノロジーが進化した現代においても、人間は100年、200年と進化していない。それ故「人間は人間らしく」を掲げた人間原理主義の過激派もいたりして、サイボーグ化法案の成立時には大きなデモが起き、あと一歩で暴動まで発展しそうな勢いだった。その暴走の抑止力になり、過激派リーダーと自治政府を同じテーブルにたどり着かせたのは、交渉AIと中央警察の治安対策部、いわゆるサイボーグ軍団だ。「人間」の暴走を抑制し和平へ繋げた力こそ「テクノロジー」だということは、このケースにおいて大変皮肉な結果になった。アニクは筋力トレーニングとともに、昔の機械にも趣向がある。その点でトースケとも気が合う。昔の量子コンピューターについて熱く議論していたことは、もう3年前になるがエイチの記憶に新しい。




翌日になってもトースケのレポートは一向に進まなかった。第一弾の提出日は来月になる。やればやろうとするほど雑念が入り込む。こんなはずではなかった。あの時からどうにも気持ちが上がらない。元々はそれなりに勉強が理解でき、飛び級も難しくはないレベルだった。今回のレポートのように、何かに集中しようとすると、ぼんやりと頭の片隅に小さく隠れていたものが、眼の前で爆弾が爆発した閃光のように瞬時に頭の中を支配する。ネットに頭を繋げているときはもっと厄介で、ストレージから母親の記憶を大量にダウンロードしてしまう。




エイチは書斎でプロジェクトチームとのミーティングを終え、ログオフしようかとした時


「奥さんの命日のときに、月にいていいのか?トースケだって大事なときなんだから」


「―いつかは切り替えなきゃいけなくなるのは解るが、まだ早いんじゃ」


とアニクが切り出した。2年前に妻が亡くなり、2ヶ月後のちょうど月面に降り立つ日が命日になる予定だ。


「もう、そんなことで地上に縛られている時代でもないだろう?トースケだってきっと気持ちを切り替えられるよ」


エイチは月面に降り立つ日が2ヶ月後になったことをトースケにまだ話していない。あの時から何事にも集中できなくなっているのは解っていた。トースケ自身、周りが飛び級をしていることもあり、劣等感を抱いていた。予定が早まりはしたが、月への道中は別として新しい土地に行くのはトースケにとっても好機だと考えていた。


「宇宙局 に交渉してまで月に行かせようとするんだから、それなりの考えがあるんだろ。お前はいいが、トースケが心配だ」


「ちょっと、俺のことも少しは心配してくれよ」


「ハハハ、別所も心配してるから。トースケを」


トースケは15歳。今回の月への家族帯同は13歳までの年齢制限がついていた。本来なら連れてはいけない年齢なのだが、袴田家の事情を知るプロジェクト人事のリーにエイチは相談していた。表向きはトースケのためで、身寄りが近くにいないためだとか、人生を左右する大事な時期に側にいてあげたいという理由で月へ連れていきたいと願い出ていた。この理由は嘘ではない。これから大事な選択をしようとしている矢先に母親を亡くしてしまい、その傷もまだ癒えていない。身寄りも近くには居なく、エイチの両親は早くに他界しているが、妻の両親はまだまだ元気でハワイに住んでいる。厳密には日本とハワイのちょうど中間の洋上に浮かぶ人工島に住んでいる。妻の父親もエンジニアであり、人工島建設の開発及び設計に携わっていた。理想のユートピアを自ら創り上げ、その後はそのまま終の棲家にしている。東京からは高速ジェトで2時間ほどの距離だ。あまりにも住みやすい都市なので、トースケのような状態で住んでしまうと堕落した考え方に陥ってしまうのではないかとの懸念と、妻の両親もかなり高齢で多感な孫との共同生活はストレスになってしまうこと、何より妻が亡くなってからは、エイチと同じように納得や整理がついていないようで、その気持ちをエイチも痛いほど分かる。そういったことから自分の両親でないこともあり疎遠になっている。このような事情をリーに話し、リーを通じて日本の宇宙局のプロジェクト管理部に掛け合ってもらっていた。人員的にも余裕があることから、先日、特例的にトースケも月へ連れていけることになった。




当の本人は興味があるのかないのか読み取ることは大変困難だったが、どうやらそれほど嫌ではないようだ。トースケを思っての行動のようで、実は自分のためにトースケを連れていきたいとしているのではないか。いや、自分自身がそうしているんだとエイチは感じていた。妻を亡くしてからは、エイチは身寄りのいない中、息子を立派に育て上げなくてはいけないし、そのためには自分が気丈に振る舞わなければならない。トースケのために自分がいると考えていた。しかし、トースケが居ることでエイチの心の悲しみは和らぎ、すべての行動を前向きにとらえることができる。エイチはトースケに支えられている。地上の引力のように心が留まっていられる。トースケが居なくなれば宇宙空間に役目を終えたロケットエンジンの破片のように投げ出され、どの星にも捕まらずに深宇宙へ心が砕けて散らばっていく。こんな状態で月面への旅路につけば、あの虚無感とともに―


そんな、ある意味恐怖まで感じていた。もう2年経つ。そんな自分の心境も新天地で好転出来ればいいと考えていた。この月面での計画はエイチにとっても好機なのだ。




2100年、ガラパゴス諸島沖の海底では宇宙太陽光エネルギーを新しく南米アマゾン地帯へ供給するためのパイプラインを設置していた。このパイプラインは海底を更に掘削し、コロンビア沖で地上へとせり出してアマゾンの蓄電システムへと続くものだった。この地域は自然保護団体のうち、過激派化した一派による長年に渡る強烈な妨害により、宇宙太陽光システムの建設が遅れた送電システムの空白地帯だった。現代のテクノロジーにおいては綿密な自然への理解のもと開発や建設を行っているため、自然への影響は皆無になっている。自然保護団体は、それらのテクノロジーが適切に実行や評価がなされているかを監視しているが、曲解な解釈のもと自然原理主義の過激派が生まれ、南米を中心に活動を行っていた。そのためアマゾン地帯を最後の砦としてあらゆる妨害行為を行なっていた。洋上での放水や威嚇射撃によるものから、技術員、作業員、男女問わずのレイプや性的暴行、脳の破壊、立件はされていないが殺人行為も噂されている。マフィアや麻薬組織との関係も懸念されていて建設中のパイプラインや施設への爆破はもはや、自然原理主義ともかけ離れた理念も秩序もない行為を繰り返していた。昨今のマフィアや麻薬組織でも、民間と組織の壁は超えない秩序があるが、旧世紀の野蛮行為として世界的に批判を浴びていた。過激派の中でも、組織の枠を外れた個人の犯罪行為として認識し対処するという声明を出し、過激派トップとともに組織は、もとの自然保護団体に吸収された。事実上「ならず者」が放出された形になる。マフィアや麻薬組織の中で活動することになったため、ある程度の秩序が守られることになり、過激な妨害行為は無くなった。マフィアや麻薬組織としてもアマゾン地帯での潤沢なエネルギーの確保は悪い話ではないため、表面上バランスが保たれている状態となった。




エイチの妻である袴田アンリはアメリカ宇宙局の研究員であった。蓄電システムの研究と開発を行っており、アマゾンでの新しい蓄電システムの稼働に向けて調整を行っていた。世界的な送電システムの中で後発であるため、ロールモデルとして新たな方式での蓄電を行う。そのため現地での調整は必須であった。作業用ロボットの運用はエイチがいるチームとは別のチームが担っており、アマゾン地帯はネットワークインフラが完全ではなく通信が不安定なため、コントロールエリアを1キロほど離れた場所に設置し作業用ロボットの運用を行っていた。蓄電システムの建設は佳境に入っており、エネルギーパックの収納作業に追われていた。このエネルギーパックは新開発のものとなり従来の3倍の容量を誇るが、現地の環境とも調和させながら運用を行わなければならず、そのためアンリが派遣されていた。逆に言えば、少々不安定なシステムとも言えた。




この蓄電システムでのエネルギーパック数はは100を超える。一つ一つが蓄電の個性を持っており、1ヶ月にわたるアンリの調整と運用をAIが学習し、のちの調整と運用を肩代わりして行うことになる。すべてのパックを収納し巨大な防護壁でもある格納扉を作業用ロボットが閉め設置完了となった。ここからはアンリの出番になり、蓄電の動きを見ながらの調整を始めた。作業用ロボット達は一仕事おえたため、コントロールエリアのそばにあるドックへと家路についた。アンリは、本日の調整を終えコントロールエリア近くの宿泊施設へと帰った。施設での食事はお世辞にも美味しいものとは呼べないが、この日は作業用ロボットチームの大方の作業終了を祝して、本物のビーフを使用したハンバーグがメンバー全員に振る舞わられた。本物のビーフを食べたのはトースケの小学過程終了のお祝いの時以来だ。アンリは1年もしないうちに本物のビーフを再び食べられるなんて、ちょっと贅沢で優越感を味わえた。しかし、向こう1ヶ月間はアンリのチームがシステム稼働へ向けてのメインになるので、ハンバーグを食べると同時に明日へ向けて気を引き締めた。そこへ作業用ロボットのエンジニアが食べかけのハンバーグプレートとともにアンリの隣りに座った。彼は過去にエイチとともに仕事をしたこともあり、アンリとも顔馴染であった。


「明日からは頼むよ!完璧に設置してあるから、理論値に近い数値で稼働できるはずだ。各部の手直しでロボットはまだ動いているから、用事のあるときは遠慮なく言ってくれ」


「ありがとう。この前みたいにしくじったりしないので、ご心配なく」


アンリのチームでは過去に試験モデルとして、今回と同じように新しい方式の蓄電システムの稼働をオーストラリアで行っていた。システムの稼働中に出力設定の誤りからエネルギーパックの一部が焼き付き交換をしなくてはならなくなったのだが、交換がシステムの中枢付近なので中々大変な作業になった。今では新たな設計を行い、同じような事態にはならないのだが、アンリの中では自身の落ち度として捉えているので、言われてもいないのに返しとして出てしまった。


「あれは君のせいでも何でも無いよ。お気になさらず。とにかく頑張ってくれ」


そう言って彼はアンリとグラスを交わし、食べかけのハンバーグとともに席を立とうとした時


「そういえば、さっき珍しいことが起きて、帰り際のロボットが1台通信不能になったんだ。コントロールエリアがすごい近いのに。1分弱で収まったんだが、今念のため総点検している。なにもなければいいんだか」


今度はグラスの代わりに右手を上げ、席を立っていった。




翌朝から作業が始まり、エネルギーパックへの送電が徐々に開始されていた。作業用ロボットは格納扉の最終仕上げを行なっていた。エネルギーパックの調整は順調すぎるくらいで、アンリは流石、エンジニアの彼が声を大にして言っていたことだなと、プロフェッショナルさを実感しながら作業にあたっていた。ほぼ、理論値での稼働状態で、もうそろそろ、本番運用での出力状態になる。アンリは計器のチェックとAIへの指図を行なっていた。その時ふとエネルギーパックへと目を向けると、作業が終わり閉じているはずの格納扉が少し開いていて、作業用ロボットが1台まだ作業を行っているようだった。次の瞬間、開いている格納扉から、今までで体験した光の明るさの何千倍とも思える閃光が辺りを一瞬包んだあと、エネルギーパックがまるでぶどうの房になったように次々と爆発し、接続している送電ユニット、作業用ロボット、研究員、技術員すべてを巻き込んで爆発し消失した。感覚的には爆発したのかさえ分からない。今までそこにあったものが、瞬き一つくらいの間に見渡す限り無くなった。一瞬のうちに―。大きな地響きとともに、小さなクレーターの様に蓄電システム中心部であったであろう場所が一段とくぼんだ半径1キロメートルほどの大きな目が見開き、一瞬、流れ込むことを躊躇ったようだが、すかさずアマゾンの潤沢な水が涙のように全てを無かったことにした―。




自然保護団体の過激派からも切り離された「ならず者」メンバー5人の犯行であった。マフィアや麻薬組織にも馴染めなかった彼らは、後ろ盾もなくコツコツ爆弾や武器を揃えていたようである。そのため、社会から忘れられた頃に、今回のような1つのインフラ施設を吹き飛ばすほどの戦力を備えていた。また、この計画のためにルナエンジの社員一人をスカウトしていた。コントロールエリアが離れていたために、被害は受けたが死者は0人だった。その中にスカウトされたならず者メンバーがいて、懸命な蘇生措置のお陰で、彼女の証言により残りのメンバーが逮捕された。昨日の作業用ロボットの通信障害も、点検によりエラーがなかっことも、エンジニアである彼女が仕組んだため発覚しなかった―。




その後、事件を受けて不安定な新エネルギーパックの開発は事実上凍結したが、今ではもっと安全な方法や大容量を誇るシステムが開発され、アンリが情熱を注いだ技術は忘れ去られようとしていた。アマゾンに開けられた「眼」だけが現実として残っている。アンリや他の研究員、施設は一瞬にして古のものとなり、そこに「あったかもしれない、いたかもしれない」存在となった。妻が亡くなった事に加え、亡骸も何も無い事実がエイチにはとてつもない憤りを感じさせていた。中学部に上がったばかりのトースケや、人工島建設に携わっていたアンリの両親も同じ境遇に一瞬のうちに晒され、今もなお心の奥の悲しみとなっている。人間の感覚や細胞の時間経過も順応したとはされているが、一日が25時間となった今は、あの時より悲しみを背負う時間が増えているようにも感じる。半年前から徐々に時間が伸びていき現在の一日25時間に落ち着いている。あらゆるコンピューターの時計間隔も不思議と順応し、アメリカ宇宙局の発表もリアルタイムにされたため、太陽が上る時間、惑星や星の位置から補正した時間を設定し直すだけで社会がコントロールできた。原子時計でさえも、全てが順応した。まるで時空が歪んでいるように。




また一日が始まり、いつものようにイヤーカフテレビを見ながらエイチはパンをかじっていた。今日は出社の日ではないので、時間には追われず少々優雅な朝となっていたが、ディスプレイの奥のトースケは少々慌ただしい。今日はハイスクールのレポート提出の一貫で、小集団のディスカッションを行うため全員ハイスクールに集合するようだ。


「帰ってきたら、ちょっと話したいことがあるんだ。18時に例のヌードル店で落ち合わないか?」 


「…まぁいいけど。長引かせないでよ。9時(21時)にゲームの約束あるから」


この前、アニクに教えてもらった、東京駅跡地のヌードル店が思いの外美味しかったため、家では中々会話がなくても飲食店ならできるとエイチは考えた。トースケは慌ただしく着替え家を出ていった。エイチはその後、コーヒーを一口含むと、消えたはずの火星探査機が予定の軌道よりもだいぶズレた場所で発見されたことのニュースの次に


「この頃は殺人や傷害の犯罪が統計的にも優位に増えていますね。今の安定した社会なのに、なんて旧世紀な事件ばっかりなんでしょうねぇ」


などと、政治家や芸能人のスキャンダルを、まるで自分の身内のことのように不届き千万的な言い方をする、おせっかいコメンテーターの言葉の後に、殺人未遂事件のニュースが流れた。いつもは、朝に取り上げるこの手の事件は、無駄にスキャンダラスに取り上げるメディアがあまり好きではないので、テレビを流してはいるものの真剣には聞いていない。しかし、今朝はなぜか、その事件の内容をしっかり聞いていた。もしかすると、不思議に耳が向けられるのではなく、すべての内容を真剣に聞いてはいるが、脳が選別しているのかもしれない。目覚ましがなる直前に起きてしまうように、実は人間の脳は身の回り全てを監視しているのではないだろうか。あとから考えるとエイチにはそう思えた。




「―の刃物を取り出し、犯行に及んだようです。調べに対しエドガー・ジョンソン容疑者は―」


聞き覚えのある名前だ。一瞬ドキッとしたが、同名の人はいくらでも存在する。珍しいことだが、無い話でもないと思い込もうとした時に続けて


「―数日前に突然会社をやめた様で、仕事上のストレスが―」


回避したかった仮説に一歩近付いた。その後のリモートミーティングでエイチの仮説は定説と変化を遂げてしまった。上司や同僚もエイチと同じく詳細はわからなかったため、おせっかいコメンテーターと共にスキャンダラスに報じられる内容が今では全てになっている。ライバル企業であるディープスペース社のエンジニアを刃物で刺した殺人未遂で立件されている。被害者は意識不明の重体らしく、動機については今のところ何も語られてはいない。ジョンソンとはとても気の合う友人ではあるものの、お互いの心境を語り合うまでの仲ではなかった。これからは当に、その域に達するのではないかという時期であった。彼は宇宙へ出たときは自分と同じ心境に囚われたと共感してくれた。彼にとっても自分にとってもお互いに唯一の存在だった。「その時」に自分が彼の近くにいたのならば状況は変わったのだろうか。自分はなにか彼のためにできることはあったのかと、エイチは無力感を抱きつつトースケとの約束の時間に向けて準備をしていた。印象に残していたことを、できの良い袴田家のAIが読み解き、続報を瞬時に叡智へと伝えてくれた。被害者は懸命な蘇生処置にも関わらず死亡したようだ。現代でも即死に近い人間を合法的に蘇生させることはできない。ジョンソンの罪は殺人に切り替えられた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ