第3話 エレベーターで声をかける
だが、少女との出会いは不愉快だった。
静かな時間を過ごそうと思っていたのに、気になることが出来てしまったからだ。
知っているけど、知らない顔。おかしな話だ。
そしてもうひとつ、気になることと言えば、その少女の顔には何とも言えない妙な感じがあった。なんなのだろう。
しばらく頭をひねっていたが、結局、考えるのはやめにした。
「どうでもいいな」
俺は結論付けた。
お茶を飲み、コンビニで買ってきた食べ物を食べ、庭を見ていると、まだ明るいのに白い月がしずしずと山の端から登ってきた。
女の子のせいで心を乱されたが、やがてあたりが本格的に暗くなり始めると、月は黄色味を帯びて煌々とあたりを照らし始めた。
僕が整備した庭は月光を浴びて、とても明るかったが、色を失い銀一色に染まって趣きを変えた。
美しい。
この世のものではないようだ。
同じ形、同じものなのだ。だが、すべてに魔法がかけられたように違って見える。
だが、俺は腰を上げて実家に戻った。明日は仕事に帰らなくてはならない。
ここにいつまでもいられるわけではないのだ。
帰る前に実家に寄った時、それでも、俺は一応確認してみた。
「母さん、ちょっと足を延ばして、おじいさんが住んでた家に寄ってみたよ」
母はピンとこないようだったが、すぐに思い出したらしく答えた。
「ああ、あの山の中の。もう廃屋になってるんじゃない? 誰も行かないから。何かあるわけでもないしねえ」
「あの近所って、誰か住んでるの?」
「裏側は、そうだね、渋木さんたちが住んでたね」
渋木さん?
「誰? その人たち」
「渋木さんて覚えてない? 娘に潤夏ちゃんがいたから、一緒に遊んだかもしれないね」
「ジュンカちゃん?」
「同い年か一つ下だったと思うよ。今、どうしているか知らないねえ。あの人たちも何年か前に引っ越してったからね。あそこ、場所が不便だからね」
それで知っているのか。
名前のことは記憶になかった。もっとも、一番仲良しだった奥野君だって苗字しか覚えていない。子どもの記憶力なんか意外にダメなもんだな。
いや、だが、年が合わない。
母にそれとなく食い下がったが、そんな高校生くらいの少女はいないと言われた。結局、何もわからなかった。
「まあ、どうでもいいけどな」
帰りは土産に地元の銘菓を買って持っていった。
よく職場でもらうのだ。
めずらしい場所に行ったとか言うなら、あるいはみんなに調節させて長期休暇をもぎ取った場合などは、気を使って話題になりそうなものを配ってくれるのはわかるのだが、一泊どまりの旅行でもせっせとお菓子を配って歩く風習がうちの課にはあった。
たまにはお返しをしなくてはいけないと思っていた。実家帰りなんて、ちょうどいい口実だった。恋人と石垣島に行ったなら、それは社内的には極秘事項にとどめておきたい。
その朝、僕は例のモデルの引率をしていた事務の子と同じエレベーターに乗った。
この時は二人きりだった。少し早めに出社したからだ。
高層エレベーターは乗っている時間が長い。
ついでに言うと、この時は待ち時間も長かった。
そして、彼女が珍しくチラチラと僕の菓子入りの紙袋を見ていることにも気が付いてた。
「あ、あの……」
彼女がついに話しかけた。
「え、なんでしょうか」
「そのお菓子、弧月堂のお菓子ですよね」
俺は彼女の顔を見た。
その瞬間に声をあげなかったことは特筆に値する。
あの少女に似ている。
僕があの少女を見たことがあると思ったのは、この人の顔のせいだったのだ。
「はあ、そうですね」
なんの変哲もない返事。
一呼吸おいて、俺は続けた。
「ローカルのお菓子なのによくご存じですね?」
「地元なので」
そう言ってから彼女はほんの少し赤くなって言った。
「失礼しました」
「とんでもないですよ。地元、よく帰られるのですか?」
「いえ全然」
「ゴールデンウィークに帰ったり?」
「いいえ」
「じゃあ、お菓子もお久しぶりなんですね。一つ、どうぞ」
個別包装はこういう時便利だ。
どうせ紙箱は破るのだ。そして箱に入ってる数と課の人数は合わない。僕は箱一つと、足りない分はバラで買ってきていた。彼女に渡しても、自分が食べなければいいだけの話だ。
彼女は驚いて、ものすごく辞退していたが結局押し付けられた。もう十八階でエレベーターのドアが開いてしまったから、俺は出て行ってしまう。返せない。