第10話 独身女子のお宅訪問
宇津木さんは目を丸くした。
「まあ、いいじゃない。ぜひ」
俺は下手に出た。
「そうだ。日本酒いける? おいしい店、知ってるんだけど。あとで店の場所、ラインするから」
なにやら、不審そうに眺める宇津木さんを抑えて、俺はさっさと勘定を払った。
そして、晩。
「へえ、真壁さん、いい店知ってるんですね?」
なぜか彼女に褒めてもらえた。
あんまり女子向きじゃないと思ったんだが、彼女のお気に召したらしい。
駅近の場末感漂う店なのだが、何しろうまい。
立ち飲みに毛が生えたような拵えで、魚がうまいという触れ込みだが、牛タンとかもうまい。あと、ポテトサラダが、なぜかうまい。
「レモンかけるとホントうまいよね」
「ぐいぐいイケますよね」
「え? お酒強いの?」
ちょっと、この線の細いメガネ娘にしては意外だった。
彼女はニッと笑った。
「たしなむくらいです」
たしなむくらいとか謙遜する女で、酒豪でなかったヤツに会ったことがない。
俺は警戒した。
「ぐいぐい……は困るな」
「そうですかあ?」
困るんだよ。
だって、水まきしてほしいんだもん。
「ここのおでん、美味しいですよねー? もひとつお願いしまーす」
おい、勝手に注文すんな。こんな店構えだが、モノがモノなだけに、安くはないんだ。
「ねえ、あそこの日本酒、どうでしょう? 超辛口ですって。飲んでみたいですよね?」
「いや、俺は、別に……」
「あ、お願いしまーす」
結局、彼女を送って行くことになった。
全っ然、俺の話を聞いていないじゃないか。
あれがうまいの、この日本酒を飲んでみたいのって、この店、時間制限あるんだよ。
次の客が順番待ってるの。最初に1時間半だけですって、注意されたでしょ?
俺はごねる宇津木さんを椅子から引っ張り上げて、無理矢理、地下鉄に乗った。自宅を聞き出すのは不本意だが、仕方ない。送って進ぜよう。
酔っ払いを介抱しながら地下鉄に乗るのは、かなりめんどくさい上に、かっこ悪い。こんな女が彼女だと思われたらどうしよう。それに、肝心の水まきの話が出来ていない。
だが、これは好都合だった。
ぜったい、今日のことを忘れている。
下手に約束したり、交渉するよりずっとラクだった。
「ふっ。口ほどもない。何が《《たしなむくらい》》だ」
俺は思わず、ニヤリと笑った。
そして、翌朝、ビルのエントランスで待ち構えていたのは、今度は俺の方だった。
「おはよう、宇津木さん」
宇津木さんは、ややうつむいた状態で出勤してきた。二日酔いだ。
あほうめ。人の金で好き放題飲むからだ。
だが、俺はにこやかに彼女に近づいた。
彼女は、重そうに顔を上げた。
「あ、昨日はどーも」
どーもじゃねえわ。
「いやー、こちらこそ」
俺はニコリと笑って見せた。
「昨日の約束覚えてる?」
彼女はぎくりとしたらしい。記憶がないのだろう。
「約束? 何の約束?」
「っ凄く助かったよ。水まきしてくれるんだよね」
「み、水まき?」
「そ。俺の代わりに、水まき」
昼休み、俺は彼女と公園でランチしていた。なぜなら、今日は快晴だから。雨の心配がないなら、こんな女、外でコンビニ飯でたくさんだ。それより晴天だとナスが心配だ。
「なんで、あんたのナスの水まきなんか、やんなきゃいけないのよ」
宇津木さんがキレた。だが、想定の範囲内だ。
「あれ? 夕べ、すごく喜んでOKしてくれたのに」
ニコリと笑ってしれッと答えた。
「あんたんとこの家、こっから3時間かかるんだから、お断りよ」
「いや、クルマで行けば1時間だよ」
「私、クルマ乗れませんので!」
「電車でも構わないって昨日言ってたよ?」
「言ってないよ」
自信がないらしい。ちょっと声が弱々しくなった。
「でも、ナスが心配でって、言ったら、わかるわあって」
「言わないわよ! そんなこと」
彼女が大声を上げた。そして、頭を抱えた。まだ二日酔いだな。
まあ、どんなに叫んだって、公園だからいい。ビアンコだったら、大ごとだけど。
「ええ? だって、すごく喜んで請け負ってくれたからさあ。そりゃ俺だって、あんなとこまで、お願いするのはちょっと申し訳ないなって思ったんだけど、宇津木さんが大丈夫だからの一点張りで。だから、水まき、うちの母に頼んでたんだけど、夕べキャンセルしちゃった」
宇津木さんの目が大きく見開かれた。
手で転がしてると思うと、なんだかかわいく思えてくるな。
「うちの母、町内会の用事があるらしくて。水まきしなくていいって電話したら、すごく喜んでたよ。今週は元々行けないかもしれないと思って、前から母に頼んでたの」
これでどうだ。
彼女はぐったりした。
「めんどくさい。行きたくない」
「でも、俺が行かない方がいいって言ってくれたの、宇津木さんだよね」
「すごく行きたくない。ナスごときのために」
ムカッとした。
「ナスは生きてるんだよ? 枯れたらどうするの?」
「ナスはスーパーに生える」
違う。そうじゃない。そんなことを言ってたら、夢もロマンもないだろう!
「自分で育てたナスで、ナスの油みそと、焼きナスと、ラタトゥイユと夏カレーを作るんだ」
「それ、全部、スーパーのナスでも作れるよ」
「そんなわけにはいかん。せっかく植えたんだ。今週、雨は降らない予定なんだ」
「あ、雨が降ればいいのね?」
俺は疑い深げに宇津木さんを眺めた。
「雨ごいでもする気か?」
どう考えても、天気予報の方が信憑性があるだろう。
俺は細っこい宇津木さんが巫女姿になっているところを想像した。案外、似合うかも。そしてスッゴク馬鹿に見えるよね。そんな理由で雨ごいしてたら。
思わず笑いそうになった。
(二日酔いのせいか)宇津木さんは物憂げに俺の顔を観察した。
「……家庭菜園狂いか。たまにいるな。若いのに。実家の農家でも手伝ってりゃいいのに……」
ニコニコしてたが、俺はムカッとした。俺に農家は禁句だ。