chapter 2 爪研ぎはマーキングの一種②
気絶は大げさだったけれど気が遠くなりそうになりました。私達を乗せていた車は高い塀が連なる場所で止まり、どこかへと去っていきました。専用の入り口でもあるのかもしれません。
目の前には大きな門。門というよりも柵の方が近い気がします。冷たそうな鉄の棒が何本も刺さってできたみたいな形をしています。インターフォンみたいな機械に迷羽さんは財布から取り出したカードを当てています。どういうことなんだろうと不思議に思っていると大きな柵の一部がかしゃっと開きました。柵の中に小さな扉があるように見えます。あのカードが鍵だったみたいです。これだけ大きな家だとセキュリティもハイテクなのかもしれません。
庭だとは思うのですが公園みたいに広く、現実味がありません。綺麗だけれどとても作られた感じがして少し怖くなりました。昔テレビで見た映画を思い出しました。あの映画のように真っ白な顔で真っ黒な服を着た鋏使いがでてくるんじゃないかと少し本気で思ってしまいました。まだ昼間だから大丈夫と根拠のない納得をして恐怖を飲み込みます。
迷羽さんと新塚さんの後ろについてしばらく歩くと遠くから見えていた屋敷の前に着きました。また迷羽さんはカードを当てています。ピッという電子音がした後にロックが外れる重い音が響きました。扉は勝手に開き中が見えました。お手伝いさんらしき人達が数人います。その人達は迷羽さんを見て「お嬢様、お帰りなさいませ」と口々に声を掛けています。お嬢様? 迷羽さんはやっぱりお嬢様だったんだ。髪型に違和感があったのは髪がいつもより短いからだと思いました。わからないけれど私はお嬢様らしさを演出しているように見えました。
他にも迷羽さんに声を掛けるお手伝いさんは居たのですが、迷羽さんは最後まで聞かずに適当にあしらっていました。あまり友好的ではない感じに胃が少し痛みます。振り向きもせず躊躇わず迷羽さんは進んでいきます。階段を一つ上がり二つ上がり一つしかない扉を開き部屋へと招き入れました。
周りを遮断するように扉を閉めると鋭かった迷羽さんの空気が柔らかくなった気がしました。
「さてと……」
そう切り出して話し始めた内容に私は物凄く驚きました。それこそ気絶しそうなぐらいに。新塚さんは想像がついてたようであまりびっくりはしていないみたいでした。
――京姫を一週間で変える、と言った話を唐突にしたのです。
ここから数日は精一杯であまり覚えていないところもあります。当時書いていた日記をもとに覚えている範囲で書き出してみたいと思います。
まず最初に私はさっきのお手伝いさん達の所へ連れてこられ、エステをしてもらうことになりました。裸にならなければいけないようで服を脱がされました。せめて自分で脱ぎますと伝えても聞き入れては貰えませんでした。とにかく色々と初めての体験ばかりで恥ずかしくて逃げたくなる気持ちでいっぱいでした。でも……、変わりたいと思っていた私にくれた迷羽さんからのチャンスなんだから、私も出来るだけ頑張りたいと思いとどまりました。だけど、これ以上は思い出せそうにない上に恥ずかしいので、次にしたことを書きます。(でもこの間迷羽さんたちは別の部屋でお茶していたらしいです、ちょっと恨みそうになりました)。
嘘みたいだと自分でも思ったのですが、エステで得た効果で数キロ体重が減りました。それに自分の肌とは思えないほど乾燥肌じゃなくなりきめ細やかになりました。気になっていたおでこのニキビもあまり目立たなくなってテカりもありません。
次にお手伝いさん(というよりはメイクアップアーティスト? っていう職種の人かもしれません)にお化粧を教えて貰いました。迷羽さんが言うには「体型に関係なくこれさえ覚えれば可愛くなれるし、人前に出るのも怖くなくなるし、自信も少しでも持てるようになる」だそうです。お化粧を今まで一度もしたことがない私は基礎から教わりました。幼い頃に黙ってお母さんの口紅を塗ったとき以来です。
でもその前にヘアスタイルを何とかしようという話になり髪も切ってもらうことになりました。下に多く散らばった自分の髪を見たからかもしれませんが頭が軽くなった気がします。それに気分も軽くなった気がしています。前髪が短くなったのは少し怖い感じがしています。やっぱり顔を見られるのは苦手です。
準備が整い、お手伝いさんに教えてもらいながらお化粧をすることになりました。洗顔の仕方や化粧水や乳液の正しい使い方など。マスカラなんていう刃のない鋏のようなものを使って、まつげを上向きにカールさせる技があるなんて知りませんでした。可愛い人はみんなそういうまつげを生まれ持っているのだと思っていました。そして化粧を終えた自分を鏡で見て、口が綻んじゃいました。他の子と変わらないぐらい明るく見えますし、いつもよりはずっと鏡を見ていたくなる感じが少しします。
それから屋敷を後にして次の場所へ向かうということになりました。そこで新塚さんとは別れることになり、私は迷羽さんと二人になりました。迷羽さんは「ちょっと待ってて」と言うとどこかへと行ってしまいました。屋敷の前で私は佇みます。
次は何をされるんだろうと怖い想像をしてしまいそうなのを打ち消そうとして消せなかったりして、そうしているうちに迷羽さんは戻ってきました。大きなバイクと一緒に。
「乗って」
「え、え? ど、どうやって乗ればいいんですか……?」
「あたしの後ろにまたがって腰にでも抱きついててくれればいいから。大丈夫、そんなにスピード出すほど遠くないから」
さらりと恐ろしいことを言う迷羽さんに乗せられて生まれて初めてバイクに乗りました。私はバイクの免許をとることはないなと思いました。運転が荒いとかそういうことではないと思うのですが、遊園地の絶叫系のアトラクションと私には変わりなかったのです。
迷羽さんのバイクは小ぎれいなよくあるタイプのアパートの前で止まりました。バイクを止め直すと迷羽さんはさっさと二階へ上がる階段を上っていってしまいました。慌ててヘルメットも被ったまま後を追いかけます。部屋に案内されるのかな、誰がいるのかなと、そんな風に思っていたのですが、迷羽さんが鍵をポケットから出して開けても、中には誰も居なくて、少し殺風景だけどモノトーンで統一された生活感のある普通の部屋が広がっているだけでした。
どういうことなんだろうと思っていたら、ここが迷羽さんの住んでいる家だと言うのです。恐る恐るあの屋敷のことを聞いたら、あそこにはほとんど帰っていなくてここで一人暮らしを何年もしていると話してくれました。それ以上は聞かない方がいい気がして黙っていたら、怒られました。
「京姫? 言いたいことがあるなら言ってみなさいよ。これから残りの数日は悪口でもなんでも言いたいことは言うこと。相手はあたしなんだし大丈夫よ」
「で、でも」
言いよどむ私を迷羽さんはじっと見ています。目をそらそうと下を向こうとしても頭が動いてくれなくて、仕方なく目だけを背けようとしても、それすら出来なくて、迷羽さんの目を見てるしか出来なくて。他のクラスメイトが向ける目とは違って、諦めとか失望とか嘲りとかは一切なくて、むしろ期待してくれている目で。私は応えなきゃ! と思いました。
「わ、わかりました、そうしてみます」
「うん。京姫は大丈夫」
「ひゃ」
急に頭を撫でられて変な声が出て、一緒に涙も出て、ずっと私はいてもいなくてもいい存在だと思っていたから、私の存在を認めてくれたことが嬉しくて。それまでが悲しくて。
どうして私にこんなにしてくれるのかわからなくて少しでも迷羽さんのことを知りたいと思いました。だから、さっきの迷羽さんの提案もやるってところを見せるためにもどうして屋敷には帰らないのか思い切って聞いてみることにしました。
「め、迷羽さんはどうして一人暮らしをしているんですか?」
「ん、んー……」
押し入れから色んな器具を出しながらも迷羽さんは少しずつ話してくれました。
「別に大した理由じゃないんだけど、ただ一人暮らしをしたかった…………、ん。京姫に言いたいこと言えって言ったんだからあたしも嘘はだめだね」
迷羽さんは笑ってそう言いました。どうしてこんなに素敵な人が学校では不良と言われているんだろう? 逆に良い人ってどんな人のことをいうんだろう? 学校も両親も友達も教えてはくれない。
「両親とちょっと仲が悪くてさ、いや違うね。うちの両親にとって子供っていうのは都合の良い時に都合の良いように動いてさえいてくれれば良いものでさ。とにかくうちの場合はだけど。この辺りは理解しづらいとこあるかもね。ま、あたしも同じような考えだから良いんだけど。とにかくあの屋敷にはあたしの居場所がないわけなのよ。だから一人暮らしをしようと思ったわけ」
納得がいかない部分もあったし、わからないところもあったけれど、嘘はついていない気がしました。
「あとは、兄貴に憧れたっていうのもあるのかな」
「お兄さんがいるんですか?」
「そう。それよりもこれこれ。使い方はこうでね」
話を終わらせるようにさっきからずっと押し入れから引っ張り出していたテレビの通販で見たことがあるような運動器具の使い方を私に説明し始めました。取っ手のついた円盤をうつ伏せになって転がすあの器具です。
お化粧を練習することに次いで続けてやることは運動の習慣をつけることらしいです。週に一度の運動じゃ逆に食欲が増して体重増加に繋がるから最低週三日は運動した方が良いといわれました。
あとは食べ方を教わりました。良く噛んで食べる、そして途中で休憩を挟む、それでお腹がいっぱいになったらもったいなくても残す、これを続けてやるようにと言われました。
箇条書きになってしまいましたが、迷羽さんの話したプランはこんな感じでした。(これらは今でも続けています)。一番驚いたのはやっぱり、迷羽さんと一週間でも一緒に暮らすことになったことだと思います。