chapter 1 よく思考する獣はさみしがり①
唐突に物語は始まる。
それは夢。
あたしは、夢の中を彷徨い続けていた。
色々な思考の海を泳がされているような、自分でもよくわからない曖昧な世界。
特に最近はその世界にいることが多い気がする。
あまり良い微睡みとは言えない。
そもそも夢じゃないのかもしれない。
これは想像? これは妄想?
ある時のあたしは、飼い主に可愛がられることもなく、ただ餌だけを与えられる犬として存在する。餌は何日かに一度しかありつけず飢える犬。
あたしはその犬と同化していて、腹が減って仕方がないのがわかる。昨日も一昨日も雨水しか飲んでいない。
「ご主人様は、ぼくのごはんを忘れちゃったのかな……」犬はそう考えている。
日に日に餌の量が減っていき、とうとう貰えなくなってしまっていることをあたしは何故か知っていた。
痩せ細り始めた体には首輪が重い。隙間が前よりも空いたから苦しくはないけれど、繋がった鎖がいつもより余計に重くのしかかった。杭に繋がる鎖を見て悲しくなる。
「もうぼくは走れないの? ご主人様になでてもらえないの?」犬の気持ちはわかるままだけど、犬でありながらあたしはあたしを思い出した。
あたしは今は犬だけど、犬じゃない。
だからこれをとって、あたしを解放して。
気づくとあたしは、死刑をただ待つばかりの囚人になっていた。何の罪かは知らない。だけど、とても大事なことを忘れている感じがして、自分の犯したことの重大さだけが、今のあたしが知る真実。罪の重さに耐えられず、今すぐにと叫ぶ。
「あたしを殺して! 今すぐ殺して! もう死にたい……」
でも、執行の日まではまだまだ時間があるのはわかっている。でも叫ばずにはいられなかった。まだ猶予があるが為に、有能な弁護士の手腕で無罪になるのかもしれないんだから。
そんなのはありえない。そんなのはあっちゃいけない。だってあたしは、あたしは……!
病院の屋上で佇む男性。今度はそれがあたし。あれ、そもそもあたしだっけ? オレだっけ? 男? 女?
確か、入院中だったような記憶が朧気にある。そうだ、えっと、なんだったっけ。ああ、そうだ。とにかく、考える必要に何てもうないんだった。一瞬呆けてしまったけど、やるべきことは思い出せた。
思ったよりも強い風が吹き続けている。風の気持ち良さを味わうつもりもなくオレは、屋上の柵に手をかけた。次に脚をかけ、登る。昇りきったら最期。オレは、どこまででもイける。
――これは、思い出。昔々の夢。
誰かが体験したことなのかもしれないし、あたしの記憶が混ざり合って出来た物語なのかもしれないし、まったく新しい別のものなのかもしれない。
夢はあたしに過去を忘れさせまいとしているように思う。現にあたしは思い出していた。
高校に入る前のことを。
友達は両手じゃ全然足りないぐらいいて、その中でも一番だと思っているヤツがいた。だけど、あたしの毒に負けたんだ。あたしは存在だけで猛毒だから、お口に合わなきゃ即死。汚れて壊れて、純粋さをどこかに置いてきちゃった、そんなありがちな毒。
その友達のあたしにはない素直さとクリスタルみたいな曇りのない心に惹かれていたんだけど、いつのまにかすっかり濁って染まっちゃってた。
あたしのはどす黒く鈍光りなクリスタル。友達のクリスタルは、いつのまにかあたしのと同じになってたのに気づいた。あたしにある友達にいるはずもないものが友達にも棲み始めた。あたしにないものは、もうそいつにもない。
自分に似てるヤツは全部嫌いだ。似てるじゃなく一緒なら無条件で好き。同じなら仲間として迎えられる。だけど、似て非なるモノならどう接したら良いのかわからない。あたしに近いのに遠い存在。
あたし自身は周りを拒絶するくせに、誰かに愛されたい、そんなことを考えていた時期もあった。昔はそれなりに気にしていた。周りに合わせること、気を遣うこと、我慢すること、愛されるための条件を。年頃の多感な時期ならではの悩みなのかもしれなかった。時間が解決する系の。
今は違う。今は自分があたしを愛してくれればいい。そうならあたしは何も悩むことなんてない。今日のあたしは悟ってるね。
あたし以外にも自分を感じられないヤツっていっぱいいるんだろうな。自分を庇うのに自分を愛さない、愛せないヤツが。非難されるのは嫌なのに自分を大事に出来ない矛盾。反射的に迎撃しているだけの自分。「自分」ってなんだろう? 答えは出ない。
少し前のあたしは、手に入るモノは全て手に入れられると思って、貪っていた。モノも友達も愛情も。でも一つだけ手に入らないものもあった……二つ、かな。「友達からの優しさ」と「自分に対する優しさ」。それだけは手中に出来なかった。
今度は友達に裏切られたくない。なら以前よりもっと優しくしなきゃ? なら以前より相手に絶対従わなきゃ? その前に本当にあなたは裏切られたの? いつの時も新しい友達からもたらされる幸せと疑いへの恐怖。疑いたくない。良き友達であってほしい。あたしを裏切らないで?
そんなあたしは、幸福という温かく優しい液体の中、不幸に流されている。でも、今の友達は大丈夫だと信じている。何の根拠もないけどそんな感じがする。
次々と替わる思考にあたしは戸惑うことなく答えを模索していく。あたし自身、自然な流れで考えているつもりだから実感はないけど、人によると思考が飛んでいるということになるらしい。そうかな? そう思う?
それはそうと、罪悪感と恋心は似ていると思う。心を突き破るような痛みの心地、罪悪感を抱いても恋心を抱いても激痛を伴う。恋っていうのはきっと罪なんだよ。人を殺めるよりは軽いかもしれない罪。自らのコントロールを喪失させ、相手を我がモノにせんとコントロールせんとする犯罪行為。自分を殺して相手に合わせて、相手を殺させて自分の好みに変えて。気に入らなければ放棄。
時間を大切に、なんてうるさく言うのなら学校にいるのも、あたしには時間の無駄遣い。自分のためでも将来のためでもない、受験という名の戦争に生き残るための授業なんてあたしにとって勉強には値しない。
それなら好きな音楽を一日中聴いていたい。その方がずっと良い影響が良い学びがある。
中毒的に音楽を愛するあたしには、とっても利口な時間の過ごし方。でも、そんな風に過ごせるのは家か授業をさぼった時にだけ。せめて授業中に好きな音楽を流してくれたり聞かせてくれたらもっと集中して授業を受けるかもね。きっとあたしが好む音楽は先生たち大人にとっては害あるものでしかないんだろうけど。
板書をノートにとるフリをしてもう一人のあたしを紙に表していく。それがあたしの書く詩。あれはもう一人の自分なんだと思う。あんなに甘ったるいヤツは好みじゃないけど、それも自分。なら許すよ。ナルシストなあたしだから。そうだ。今言われているナルシストってただの自己中心的な人物を指しているだけじゃない? そう感じるのはあたしだけなのかな?
曲解がキライ。金のガメツイ話もキライ。何がキライ。あれがキライ。
また最近、人を観察する癖が再発してきている。みんな可愛くて素敵で大好きでお気に入りだから。そのきっかけは彼女と出会ったことなんだと思う。気づいたら目で追っている。主に特定の相手に対して出てきてる癖だけど。
あたしには“しぐれ”という敬愛している人がいます。こういう人って好きだなぁと心底思う。憧れる。もうもう、すごく運命的な出会いでした。共通点なんてないのにね。出会えるもんなんだね。その出会いについては語らないけど。
彼女、しぐれは絵を描くんだけど、美しくて綺麗で残酷で可愛いの。うーん、あたしの足りない頭から吐かれる言葉じゃ言い表せれない。一度見てもらえれば理解してもらえると思うけど、見せたくない。あたしだけが見ていたい。あのリアルな雰囲気。ああ、もう体の形が崩れちゃいそう。ぼろぼろと、さらさらと。
もう何も考えたくない。十分だけで良いからアタシを止めて。死んでいたい。全ての思考や生命の営みを止めていたい。そして十分後元に戻る。なかなか良い計画じゃない。(×××××ってどうやって犯し合うんだろ)
「迷羽さん、聞いていますか? 迷羽――」
「んー? あたしに何か用ですか?」
何かあるごとに絡んでくる女教師の授業だったか。確か古文。単位落とさないために今日は受けることにしてたんだっけ。
「先生に向かってなんて言葉遣いですか!」
「生徒はお客様ですよー?」
「あなたの担任の先生に言いますよ」
「センセー、言うじゃなくておっしゃるですよ?」
「知っています! ……六十三ページ目の三行目からの文章を読みなさい」
「えーと、『ああ、そう、いいよ。裏の辺りをもっと……そう、上手だったらご褒美あげないとね。舐めてるだけで濡らすなんてイケナイな』」
「何を読んでいるんですか!!」
「もしかしてセンセ興味あります? なら俺と……」
「な、何ですか……」
いいタイミングでハープか何かで奏でられたこの学校特有のチャイムが鳴る。
「あ、チャイム。じゃあ購買に昼飯買いに行くか」
「迷羽さん!」
「ぐっばーい。先生、俺に惚れんなよ」
それまでの低音イケボとは打って変わって脳天気なトーンに戻して、先生にひらひらと手を振り、鞄の中から財布を取り出し購買へ行く準備をする。先生は怒りながらも深く追求はせず、さっさと出ていった。きっと職員室へ担任に告げ口する為に早足で向かったんだろうなぁ。
あたしを良く思わない女子のボス格が先生が居なくなったのを確認するとすぐさま攻撃を開始した。
「なにあれ。迷羽ってうっざーい。あれでイケボだとか笑わせる」
ちゃんとイケボって伝わってることに満足しながら、多分、わざわざ独り言をあたしに聞かせてくれてるんだろうから、ちゃんと返事を返してやる。
「いいじゃん、いいじゃん。授業削れたっしょ?」
「聞こえてるわよ、このバカエンコー女!」
そりゃまぁ、聞こえるように話してる訳だし、あんたと違って姑息なことしないってーの。とは思ったものの、ボス女の取り巻きその一、二が何か言いそうだったから聞く為に黙っておくことにした。
「ちょっとあんた後でオクジョウに来なさいよ」
「屋上って漢字教えようか? ま、後で行ってあげてもよろしくてよ」
「なら――」
「あ、時間は四時でよろしく! 購買、購買っと」
後ろで何か喚いてるのを聞き流しながらその場を後にする。意外に約束を守ることをあたしは知っている。