chapter 5 交情②
鼻につくカビの匂い。あの後からきっと時間が止まってるんだろう。いや、動いていたらそれはそれで問題だけど。やっぱり俺以外にあそこにぶち込まれることなんてありえないだろって思う。
電球だけのか細い光のみの薄暗い四角く切り取られた空間。コンクリート打ちっ放しみたいなシャレたもんじゃなく、ただの土壁。最初は穴を開けようとか頑張ってたっけ。ちょっといびつになった壁を見て思いだした。でも、途中で俺はここにいるべきだって思うようになっていって……。俺なんかがいたら妹を汚すことになるって、俺はこの世界にだけ生きるべきなんだって、そう思いこまされていったんだな、きっと。
「迷羽!!」
思いに耽っていて他に誰かが来てたなんて気づかなかった。物音があればすぐにわかりそうな音が反響する場所なのに。しかも、この原点であいつに会うなんてな。内心の俺はのたうちまわり相当焦っているけど、そんな気持ちを表には一切出さないつもりで冷ややかな顔を作り振り返る。
「何? こんな場所でどうしたわけ? 叶里奈」
「あなた、起きた時に誰かがいなくなってるのに気づかなかったの?」
起きた時ってまさか……。
「しぐれに何かしたのか!」
「眠ってもらってるだけよ、どこかでね」
しぐれをどこへやった? 叶里奈の体格では運べるはずがない、一体どこへどうやって。
「よくも兄妹でキスなんかしたわね」
「思い出したのか、ってこの格好見りゃ忘れてても思い出すよな。あの当時の俺を再現しましたって感じだもんね~。いつ思い出したんだ?」
「お前なんかに教えないわよ! なんでキスなんか……」
「まぁ兄妹なんだしいいんじゃない?」
「何がいいのよ! 意味わかんない! それにお前なんかとは似てないし、家族なんかじゃ!」
「そら、俺様の方がカッコイイからな」
「は? 兄貴? なんでここに」
兄貴までがここに来るなんてできすぎてないか? にしても集中力がかなり欠けているらしい。叶里奈に続き兄貴が来てることにさえ気づけないでいるんだから。
「家に帰って悪いか。懐かしい場所が解放されてんだから覗かないわけにはいかないだろ」
最後はおどけた調子で兄貴は俺にそういった。
「黙っててごめん。兄貴、その話はまたあとで。……叶里奈、決着をつけよう」
「決着ってなによ!? あんたはやっぱりまともじゃない! 人間でもない、あんたは獣だ!」
「獣じゃない。人間だ」
「っ! うそだ……! うそだっ! いつもは自分は獣だって言ってた!」
泣いてるのか怒ってるのか……子供のように叶里奈は叫ぶ。確かに俺はずっと叶里奈には俺は獣だと言い続けていた。大事な妹を俺から遠ざけるために。大事な妹が俺と同じ存在だと思わせないために。
「あんたが獣だから私はまともでいられた! このタブーを犯した血が私達には流れていたとしても!」
「お、お前、知ってたのか」
力なく叶里奈は頷いた。どこでそれを……。
「あたしは、いや、俺は、今生まれて初めて生きたいと思ってる。でも、俺がいなくなることで叶里奈がまともでいられるなら殺されてもいい」
「キレイゴト言ってんじゃないわよ。殺すとかなに? 時代錯誤もハナハだしい。あんたもあの親と一緒なの? 何世紀を生きてるのよ。あんたまであの両親みたいなこと言い出さないでよ! ただ、さみしかった。お兄ちゃんがいなくなってから夜が重く感じた。どんどん越せなくなっていった。叶里奈のことはもう必要じゃないの……?」
「ごめん、叶里奈を置いて逃げ出したりして。もう逃げないから。叶里奈。また一緒に暮らそう」
「で、でも」
「あいつらが決めたところにいることなんてない。お前ぐらい守るよ」
「うん」
そうだ、と話題を変えるように照れた様子を隠すように叶里奈は言う。
「そういえばあんたの下の名前って”カヨ“っていうのね? さっき知ったんだけど」
「あ、ああ、あれは『叶夜』って書いて本当は『キョウヤ』って読むんだ。みんな勝手にカヨだって思ってくれてたから楽だったけど」
「ふーん。えっとあなたは?」
今まで空気に徹していた兄貴の存在にようやく気づいたようだ。恐らく叶里奈と兄貴の接点はなかったはずだ。兄貴は早々に家を出ていたし、俺だって屋敷を出てからまともに接点を持ったんだから。
「俺のことは空夜お兄様、なんて呼んでくれればいいよ」
「バカ兄貴のことはほっといて、そうだ! しぐれは?」
「上の部屋で眠ってるだけ。何もしてないわよ、ほんとよ?」