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離れていてもそばにいる

作者: 森 彗子

 これは昭和六十一年の春、北海道の港町の片隅で起きた恐怖体験というより、不思議な体験です。当時、私は小学五年生に進級した夏休みの出来事です。


 その年の二月の終わり、両親が壮絶な喧嘩をしたのをきっかけに別居が決まり、私と兄妹、そして母方の祖母は徒歩ニ十分ほどの隣町の古いアパートに引越した。借りたその部屋は祖母の古い友達が所有する年季の入ったアパートの一階だった。


 自分の勉強道具をランドセルに詰め、祖母が引く手押し車に最低限に荷物を積み、四人で助け合いながら辿り着いた。


 この古いアパートを初めて見た時、私は暗澹あんたんたる気持ちになった。


 とにかく古いうえに灰色の壁がまっ黒く汚れていて、見るからに不吉な印象がした。所有者のおばちゃんには申し訳ないけれど、なぜこんな壁の色にしてしまったのかセンスを疑うぐらい鼠色だった。


 玄関は北を向いており、背面には高い塀があり、昼間でも暗い。ドアノブに白い糸でぶら下るガスの申込書が、空き部屋であることを物語っていた。


 アパートは八戸ある部屋のうち、半分は空室だったように記憶している。でも実際はもっと住んでいたかもしれない。とにかく古い記憶なので、そこらへんは定かではない。


 おばあちゃんが鍵を開けて玄関を開いたとき、埃っぽくてかび臭い空気が流れ出てきた。妹にそれを言うと「そぉ?」と不思議そうに首をかしげ、兄にいたっては年中鼻炎持ちなので「全然わからない」と言う。祖母は「窓を開けよう」と言った。


「とにかく今日からここに住むのだから、掃除をするよ」


 祖母の指揮のもと、私たちはそれぞれ雑巾をもって掃除にかかった。


 古い色あせた畳や、ベニヤ板のささくれがひどい押入れの中まで、丁寧にほこりを取り除かねばならないという。掃除機がないため、借りてきたほうきでまずはどの部屋も一通り掃いて、次に畳の目にそって固くしぼった雑巾で磨くのである。気が済むまで拭き掃除をすれば、部屋は次第に息を吹き返したように生き返っていった。


 それから、力持ちの祖母が手押し車に乗せて運んで来た布団袋を室内に持ち込んだ。えんじ色の布団袋をしばる白い縄をほどくと愛用布団が出てくる。ふたつある布団袋を荷解きし、新聞紙を敷き詰めた押し入れにそれらを仕舞う。次に祖母が持ち込んできた折り畳み式の小さなちゃぶ台を置けば、それなりに生活が出来る雰囲気に整ったようなった気がした。


 すでに取り付けてある照明は問題なく点灯するし、水道もトイレも風呂場もわりと綺麗だ。ガスコンロだけは買って来なければいけない、と祖母は言って隣の大家さんの自宅まで湯を沸かすためにヤカンを持って行った。カップ麺で昼食を取り、差し入れの麦茶で喉を潤し、日が差し込む南向きの窓際で日向ぼっこをしながらうたた寝した。


 こうして、私たちの質素な新生活は始まったのだった。


 部屋は玄関を上がると十畳の細長いフローリング。手前に風呂場、台所があって、南側へ行くほど広い。右手に六畳の和室がふたつ並んでいる。それぞれに大きな押入れがある。床はどこもかしこも歩くとギシギシときしむので、おそらく土台の木が相当に傷んでいたように思う。畳はたいらではなくて、足の裏で感じる凹凸はやわらかく、踏むとゆっくり沈んだ。腐った匂いはしないので、畳とはそういうものなのだろうと勝手に納得したのを覚えている。


 春休みの間に何度も往復をして、手押し車だけでの引っ越しを完了させたのが四月に入った頃だった。その間、ずっと気になっていたことがある。ここ数日、一度も母の姿を見ていないのである。


 祖母は「入院しているよ」とだけ言っていた。詳細な説明などはなくて、あっけらかんとした口振りだ。以前、交通事故の時や心臓発作で緊急入院したときはちゃんと説明してくれたので、その差に猛烈な違和感しかなかった。実のところどうなっているのかとても気にはなったが、気難しい祖母の眉間の皺がずっと深く刻まれ続けていたので、私は空気を飲むことにした。


 数日が経った、朝ご飯の時。唐突に「ふみちゃん、退院したんだわ。でも、岩見沢のおばちゃんの家で養生させて貰うことになったから」と、祖母が言った。


 この時を待ってましたと言わんばかりに、何度もなんどもしつこく確認するのは妹だ。


「退院って、どこに入院してたの? 市内に居たっていうこと? 私達がお見舞いさせて貰えないぐらい重症だったの?」


「そういうわけじゃないけど、ひとりにさせてやらなくちゃいけなかったんだよ。でも、だからってあんた達のことを忘れて面白楽しく暮らしてるわけじゃない。大人には子供ではわからない事情があるんだよ。わかってあげて」


「なんでそうやっていつもはぐらかすの?」


 祖母は鬱陶しそうに顔を引きつらせ、黙り込んでしまった。祖母と妹は以前からずっと犬猿の仲なので、喧嘩になる前にばあちゃん子の私が間に入って話題を終わらせた。


 食器を洗い、日課の散歩に出かけて行く祖母を見送ってから、残る兄妹三人で円卓を囲んだ。


 妹「おばあちゃん、嘘が下手だよね。お母さんが死んでたら、どうしよう」


 兄「死んでるわけない!」


 私「死んでたらさすがに隠せないんじゃない?」


 妹「いくらでも隠せるよ。大人なんて、こっちが子供だからってなんでも秘密にするじゃん」


 誰よりも成長が速かった妹は最悪の事態を想定していた。これはさすがに驚きというより呆れたというのが最も近い感想だった。人が死んだらさすがに葬式をしないわけにはいかないだろうと思ったのだ。でも当時引っ込み思案だった私は、「年端も行かない私たちに対する祖母の配慮を無碍にはできない。それをわかっていて揺さぶるのはどうかと思う」とは、言えなかった。


 私は喧嘩が嫌いで争いになる前に自分から身を引くタイプの人間なので、何事にも白黒つけたがる妹と喧嘩になるのが本当にいやだった。喧嘩のたびに、私の曖昧なものを曖昧なまま受容する性格を「優柔不断」と一蹴されるのは目に見えていたし、本当に勘弁して欲しいことだった。


 だが妹は三人兄妹のなかで一番の切れ者であり、心の強さは大人以上なのも自他ともに認めるところだった。彼女は生まれながらのリーダーと言える。ちなみに私と妹は双子で、しかし顔も背格好も似ていない。同じ日に生まれ、同じものを食べて育った姉妹の身長差は12センチも開いていた。性格も全く違う。


 妹は背が高く、目つきが鋭く、凛々しい顔立ちをしているため、当時小学校高学年で大学生に間違えられることも珍しくはなかった。(こんな風に言うと妹が怒るかもしれない、怖い)


 兄は愛くるしい顔と憎めないキャラクターで、大人から無条件に可愛がられるという才能を持っている。


 私はたれ目でいつでもどこでも心ここにあらずな表情をしている、不思議な子と良く言われていた。ちなみに私は「あら、いつからいたの?」と驚かれるぐらい、影の薄い子でもあった。


 本題に戻る。


 問題の「ドアを叩く音」が始まったのは、ボロアパートに引っ越してから一週間が経とうとしていた頃だったように思う。


 夕飯を食べていたときだ。時間は午後六時頃。


 小さなボタン式呼び鈴があるのにかかわらず、指の骨なんかでドアをコンコンと叩く音が響いた。


 すぐに祖母が出て行って玄関のドアを開けるけれど、誰の姿もない。


 私たちの部屋は、道路側から二軒目の一階。当時流行っていたピンポンダッシュをするには、ちょっと難しい距離がある。


「あれ? おかしいな。誰もいない」


 祖母がそう言ってドアを閉めた。そして、すぐにまた、コンコンコン。


 咄嗟にドアを開ける。誰も、いない。


 私たちは箸をおいて、玄関周りに集まった。


 コンコンコン


 ドアを開けるが、誰もいない。


「なんだこれ」


「どういうこと?」


 それからしばらくは、静かになった。


 風呂から出て午後九時になる前。再び誰かが玄関のドアをノックした。


 コンコンコン。


 『かあさ~ん! わたし! 帰ってきたから、開けて!』


四人「!?!?」


 兄がドアに駆け寄って鍵を開け、全開した。が、やはり誰もいない。


兄「今、確かにお母さんの声がしてたよな?」


私「聞こえた。お母さんの声だった」


妹「私もはっきりと聞こえた」


祖母「うん、私もはっきりと聞こえたよ。かあさん、開けてって言ってたよな?」


 見つめ合う四人。狭い玄関で、しばらく動けない。


兄「また、閉めてみる?」


妹「そうだね。また聞こえるかもしれないし」


私「お母さん、死んでないよね? 自殺したんじゃ……」


祖母「死んでなんかないよ! ちゃんと生きてるよ! 良くなるまではとにかく田舎でぼんやりさせておくのが一番の薬だって、お医者さんに言われてるんだから! 幼いあんたたちを置いて死ぬような子じゃないよ!」


私「だったら、今すぐ生きてるかどうか、確認したほうが良いんじゃない? 電話かけてよ!」


兄「お前、よくもそんなこと平然と言うよな? 死んでたら、向こうから電話かけてくるべや」


妹「そうだよ。真っ先におばあちゃんに電話がかかってくるよ」


祖母「とにかく心配いらないから。あの子の生霊だとしても、生きてるっている合図だよ」


 母は生きている。そう主張する祖母の剣幕と、不吉なことばっかり言うとぶっ飛ばすぞという威嚇の視線を送る兄と妹に気圧され、私は黙ることにした。


 しかし私の中では、あの壮絶な修羅場の時すでに一度、母は死んだことになっていた。


 急な発熱で早退した私は昼食を前にして、うまれて初めて食欲がないことにショックを受けていた。職場が近所にあった父は自宅で祖母が用意した昼食を食べており、私はダイニングテーブルで祖母とふたり座っていた。そこへ母がどこからか帰宅するやいなや、バーン! 激しい物音を立てて、リビングのドアを開けた。いきなりかけていた眼鏡をダイニングテーブル越しの壁に向かってたたきつけるように投げ、バッグから出刃包丁を取り出して、父に向かって行った。包丁を持つ両手を掴み、抵抗する父はあっという間に凶器を取り上げたかと思うと、母の首を絞めて薪ストーブが設置されているレンガ造りの暖炉に、母の後頭部を打ち付けようと押し倒した。数センチずれていたら、本当に大惨事になっていたに違いない。祖母が「ひとごろしぃぃ」と叫んで二人の間に割って入り、私は高熱ながら寝巻き姿と裸足で隣家の親戚宅へ助けを求めて家を飛び出した。


 あの壮絶な修羅場に立ち会っていない兄妹には想像もつかないことだろう。母はその直後、自分の手首を切りつけて出血した。私達を置いて、あの世へ行こうとしたのだ。その時の母の顔はいまでもはっきりと覚えている。


 手首に包帯を巻いた母がほんのりと血の匂いを漂わせ、青白い顔をして、掠れた泣き声で私にうったえた。


「らくになりたいよ」


 隙あらば自殺しようとする母の心の病は、私達が生まれるずっと前から始まっていることを知るのは、それからずっと後のこと。


 その夜、母が私たちの毛布を掛けに来て、ほっぺたにキスをしてまわっているという夢を見た。明け方、トイレに起きた兄が「真夜中に母さんが枕元に立ってた」と言った。


 兄はそれ以前からよく真夜中に視線を感じて目を開けると、母が頭上に正座して真上から顔を覗き込んでいると言って怯えていたのだけど、怖いときと怖くないときがあるらしい。その日は怖くなかったそうで、良かった。


 しばらくして、音信不通だった母から電話が来た。およそ二か月振りに声を聴いて、ただ生きていてくれたことに猛烈に安堵した。そして、電話越しとはいえ声を聴いて私は確信した。


 玄関のドアの向こうで叫んでいた母の声は、やはり紛れもなく母の声だったのだ。


 自分が辛いときでも子供たちが心配だったんだろう、と、のちに祖母は語る。私もそう思いたくて、母の自殺願望はこの際気にしないように努めた。


 あの日。母は生霊になって、自分自身が辛く苦しいときであっても子供たちが心配で会いに来てくれたのかもしれない。しばらく後で母に聞いたら「へぇ」と他人事のように返事をして、へらりと笑っただけだった。


 終わり


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