雲が流れる
小説家の苦悩と、消えていくキャラクター。
【雲が流れる】
***
雲が流れた時、人の魂も流れると言ったのは誰だったか。
僕は火葬場から上昇していく、魂を乗せた煙を見ながらそんな事を思う。
灼熱に焼かれた親友の遺体。
残されるはただ空っぽになった白い骨。
何もかもが非日常で、僕は涙も流せずに目を閉じた。
***
「うーん……駄目だぁ」
キーを叩く指を止め、デスクトップパソコンの前で、がくりと肩を落とした相原 悠は唸った。
最近彼はスランプなのかもしれない。
そう思う程文字が浮かばない。
『華実』。
このタイトルで、小説家として鮮烈なデビューを飾ったのは約二年前のことだ。
田舎町で、孤独な少女と孤独な老婆が唯一無二の親友になり、老婆を看取るラストは、多くの人に綺麗な涙を流させた。
当時は、返信出来ない程のファンレターを貰い、熱烈なインタビューを受け、世界が自分の味方と思い、成功と幸福しか見えていなかった。
全てが順風満帆で、未来を疑いもしなかった頃だ。
しかし、二作目となった本格ミステリーの『潮』は、盛大にコケた。
曰く、ミステリーを愚弄する作品。
曰く、一作目で力を使い果たした。
曰く、作品内で毎回意味なく人が死んでいる。
曰く、期待していたのに、がっかりした……。
「くそっ。がっかりしたのはこっちだっつうーの」
つい、反応をエゴサーチしてしまった時の事を思い出し、相原は唇を尖らせる。
はぁっと大きな溜息を吐くと、インスタントコーヒーを淹れる為にキッチンに立った。
溜まった汚れた食器を片付けたいが、気力が起きない。
そんな理由で放置していたら、サルノコシカケでも生えてくればネタにもなるだろうに。
いっそ立派に育てて、洒落た食器置きにしてしまえばいい。
「いやいや。何バカ考えてるんだ俺」
彼は頭を横に振って、煙草に火を点けた。
深く肺まで吸い込むと、少しだけ噎せる。
少しだけ昔の気持ちを思い出した。
……ただただ小説を書きたい。
物語を創ることが楽しくて堪らない。
自分で紡ぐ世界が一番好きだった。
今やどうだろうか。
創作者として成功したい。
売れたい。
印税が欲しい。
そういえば、いつからだろうか。
物語を創る事が辛くなってしまったのは……。
「初心に帰る――か」
ぽつりと宙に投げた相原は、ふと目を伏せた。
言葉に出したら認めてしまうようで、彼は言えなかった。
自分は小説家に向いていないのではないか……。
最近耳鳴りが酷い。
フィルターぎりぎりまで煙草を吸い終えると、水を入れたアルミの灰皿へと放った。
「う……?」
どく、と心臓が締め付けられる。
「……はっ……」
息が苦しい。
このまま死ぬのか、と彼は思う。
まだ……まだ。
死ぬには、心残りが――――
そう思いながら、相原の意識は混濁していった。
はっと気づくと、相原は立っていた。
ここはどこだ。
そう思って見回すと、そこは見知らぬ葬儀場だった。
もうもうと白く高い煙突からは、絶え間ない煙。
――……火葬場?
見知らぬ場所なのに、知っている。
既視感ではない、もっと身近で、最近の……。
そこで相原はハッとした。
ここはまるで……先程まで書いていた小説の舞台ではないか。
自分の脳内にでも入ったのだろうか。
すると背後から、カラカラと音が聞こえ、ぱっと振り向く。
「あぁ、また雲が流れたねぇ。そろそろ私の番かねぇ」
「おばあちゃん……」
「あぁ、そんな泣きそうな顔するんじゃないよ。これは順番なんだよ……」
――……『華実』の二人だ。
思い描いていた通りの外見の二人だった。
老婆は最期の間際、車椅子で自らの葬儀場を少女と見学に来る……。
「あんたたちは愛されていたからいいさ」
「そうだよ。俺達は、大した理由もなく、物語を盛り上げるためだけに殺された」
これは、相原のキャラクター達が『順番』を待っているようだった。
そうだ。
確かに理由もなく、殺した。
相原は思う。
――僕は、自分のキャラクター達に、こんな風に思われて。いや、思わせてきたのか。
そう考えた瞬間、涙がぼろぼろと落ちていった。
「あぁ、ほら。私の番だ」
葬儀場から黒い人影が出てきて、老婆の車椅子を引いていく。
さよなら、と何処か他人事のような言葉を、少女に置いて。
少女は顔を伏せて、声も無く泣きじゃくっている。
――僕は、そんなつもりじゃなかったのに。
ただ面白くて人を惹きつける話が書きたくて。
「いいのさ。私たちはあの子に愛されて、生まれた存在だよ。最期だって泣いてくれたじゃあないか」
相原は、確かに自分のキャラクター達が死んだとき、必ず泣いていた。
それは彼らへの贖罪となっているのだろうか。
彼は、彼ら……自分の分身であるキャラクターを、愛していたのだ。
人によっては気持ち悪い事かもしれないが、それが相原なりのキャラクターへの接し方だった。
ぴたりと止まった車椅子の老婆の顔が、ふっとこちらに向いて笑う。
「あんたが今まで生んできたものが、この世界には沢山あるよ。大切な人、大切なもの、大切な想い……」
――僕は。
周囲を見回せば、今まで書いた風景や人々、シーンがぶわっと広がった。
目を大きく開いて、瞳に焼き付いたその光景は、確かに相原が生み落としたものだ。
――もっともっとここで……!
暗く歪んでいく視界の奥で、ありがとうよ、と聞こえた気がした。
「はっ……げほっ」
「悠!」
気付くと、白い天井が見えた。
病院のようだ。
酷く苦しい。
今初めて呼吸をしたような感覚だった。
「悠、あんた心臓止まってたのよ……ったく、心配かけないでよ」
「美冬姉さん……そっか」
「息してないのにぼろぼろ泣くし。ほんと意味分かんない」
手早くナースコールを押して、意識を取り戻した旨を伝えると、ばたばたと医師や看護師が入ってくる。
「ちょっと走馬灯見てた」
「はぁ?」
相原は美冬に伝えたが、美冬は首を傾げてしまった。
――僕はもう一度やり直せる。今度こそ、きちんと創作者として。
窓の外を見やると、大きな雲がそびえていた。
まるで、相原の命が戻ったのを喜ぶ、老婆たちのようだった。
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