第51話 ~荒馬を手懐けろ~
「うっひゃー!
コイツたまらんわーーーみゃははははは!」
速い、とにかく速い。
加速しろと命じてもいないのに全力疾走、しばしば頭を振り抜いてまで全速カーブ、尻を跳ね上げ体を激しく上下させているのはずっと。
鞍上のアメリを振り落とそうと、激走あるいは暴走、正確には暴れ狂う荒馬の上で、アメリはさぞかし楽しそうな高笑いだ。
「うわぁ……あいつアレでよく落ちないな……」
心配で、自分の乗る牝馬を駆けさせて、アメリを視野に入れる位置まで来たリーフだが、発した言葉以外に的確な感想は無い。
意地でも鐙にがっちり靴裏を押し付け、がくんがくんと上体を上下左右に大きく揺らされ、たわむ手綱をぐっと握りしめたまま、アメリは平衡感覚を頼りに鞍上に居座り続けている。
さしもの彼女も腰を低くし、しばしば鞍にお尻を叩き上げられながらの騎乗だが、今にも落ちそうな姿勢にまで体を傾けさせられたって、最後は引き絞った手綱を頼りに耐えきる。
少なくともリーフには、あんなに振り回されて落ちずにいられる自信は無いし、すげぇと言うしかない心地。
「おぅらどうした、そんなモンか!
逆ろうてみいや!」
暴れ馬の背の上でいいように振り回され続けつつ、耐えきって正姿勢まで体を起こしたアメリは、思いっきり手綱を引っ張って重心を後方に傾ける。
手綱は馬の口の端に繋がっている。後ろに引けば、馬の頭部を後方へ引っ張って、走るために首を前後させたい馬の頭に、抑止力を加えることになる。
乱暴な力で頭を引っ張られた馬は走行を妨げられるが、気の荒いこの荒馬の気持ちが折れることなどなく、ぐわんぐわんと頭を上向きにしながらも走り続けようとする。
走るに際して首を前後させようとする動きは、馬にとっては必然だ。
力強く前進する馬の首の動きは、手綱を介してアメリの腕を前に引っ張るし、それはアメリの細腕がびきびきと痛むほどの怪力である。
「や、やっば……!
こいつマジで一級癖馬じゃわ……!」
「アメリ、大丈夫か!?」
「おー、リーフっ……!
大丈夫やけど、なかなかしんどいっ……!」
案じるリーフはアメリの荒馬にやや近付き、横並びにならない程度に離れて、走行方向も並行にならないよう自分の牝馬を走らせる。
馬は並べて走らせると、併せ馬になると、本能的に意地が出て加速してしまうらしい。
それを知っているリーフは、アメリの荒馬を刺激しない位置取りと走行で、自分の牝馬を操っている。
「まあ心配せんでええど……!
妾とこいつの根比べじゃ、執念勝負なら妾はぜえったいに負けんからのう……!」
「それより落ちたりなんか……」
「せーへんせーへん!
こんなモン慣れっこ……みょああっ!?」
アメリに頭を後ろに引っ張られつつ、がふがふ頭を振り上げながら走っていた荒馬馬が、ぐいんと頭を横に振って走行軌道を曲げていく。
手綱が引っ張られる方向が変わったアメリも大声を上げ、大きく体を傾けさせられながら、固く握りしめた手と腕に力を込めて踏ん張っている。
リーフも手綱を握る立場じゃなかったら、目を覆ってしまいたいほど落ちそうに見えた。
それでもアメリを振り落とせない荒馬は、リーフの牝馬から離れる方向へ向かい、広い牧場を自由極まりなく、縦横無尽に駆け抜ける。
「だーもうしぶといなぁ!
ええ加減に観念せんかいや!」
いくら振り落とそうとしたって無駄、諦めて止まって負けを認めろとばかりに、アメリは力ずくで馬を止めさせる勢いで手綱を引き絞る。
対する暴れ馬も、余りあるスタミナを武器に駆け、跳ね、その身を無茶に振り回し、さっさと落ちて死ねとばかりにアメリを振り落とそうとする。
きっと本物の殺意がある。もしも本当にアメリを振り落とせたら、すかさず踏み潰しに来るだろう。
「あんな馬絶対に手懐けられないだろ……
軍用馬にしたって廃用レベルなんじゃないの……」
対するリーフの跨る牝馬の、なんと賢くて手綱に忠実なことか。
リーフが手綱を操って命じることにはすべて従うし、アメリの乗る荒馬を追う動きも自分で最短距離を選ぶし、つかず離れずの位置取りに達したら勝手に徐行する。
自分のスタミナを過剰にロスすることなく、アメリの荒馬に近付き過ぎて刺激することもなく、鞍上のリーフが追う対象を視界内に入れられている位置をきっちりキープしているのだ。
いい脚、命じられたことに背かない性格の良さ、加えて鞍上の意図を汲んだ自己判断が出来る知性まで
持ち合わせたこの牝馬は、リーフも実感しているが間違いなく名馬である。
走りもスマートで揺れが少なく、リーフも乗りやすくって仕方ないし、何十もの馬に跨ってきたリーフをして、乗用馬としては過去最高の一頭だと手応えを感じている。
身体的な疲労もストレスも無く、心配という精神的な負担だけを負いながらアメリを見守るリーフに対し、身体的には汗だくで息も上がりながら鞍上で振り回されるアメリ。
ずっと挑戦的な笑みで荒馬のたてがみを見据えているあたり、精神的にはさぞかし楽しんでいそうだが。
気に入らない奴は片っ端から振り落としてきたこの荒馬は、なかなか落ちずに力強く自分をコントロールしようとするアメリに怒りすら覚え、まだまだ尽きない体力を武器に暴れ走り回る。
挑発的な言葉を発するアメリと、黙れ死ねの勢いで暴れる荒馬の格闘は、この後も実に長く続いた。
体力を尽かし始めた荒馬の動きが鈍るにつれ、表情が悪くなるほどぜぇぜぇとした息遣いになっていくアメリも、より危なっかしく体を振り回されて。
激しい消耗戦を最後まで見守り続ける中、リーフはずっと気が気でなかったものである。
「アメリ、大丈夫……?」
「し、しんどいわぁ……勝ったと思とるけど……」
驚くべきことに数十分にも渡った暴れ馬とのアメリの戦いだが、最後は馬の方がとうとう音を上げたか、かこんかこんと歩くような足音とともに止まった。
牧場主のオラーシュのそばへと帰ってきた荒馬の鞍上、ぐったりと肩を落とすアメリの姿を見て、リオン達もお疲れという他に感想が無い。
最後まで体を起こし、堂々と鞍上に留まり続けていたアメリだったが、荒馬が止まる頃には体力も限界を迎えていたようだ。
半目になるほど疲れ果てた顔色で、かひゅーかひゅーとかすれた呼吸を繰り返すアメリの姿は、なかなか見られるものではあるまい。
戦場を最後まで駆け抜けられるほどのスタミナを持っている彼女が、傷も負っていないし魔法を使ってもいないのに、ここまで疲れるほど体力を削がれたとは相当だ。
「も、無理……死ぬかも……」
「こんなとこで死んでどうすんだよ……」
アメリは今、馬上のリーフの後ろに座り、両手をリーフの肩に乗せて、ぐったり体重を前に預けている。
全身つやてか光るほど汗だくである。近付いて見上げるギナークも、お疲れなのがよくわかる姿であり、同時に肌が艶めいて色気が増してるなぁなんて考えたりもする。
鐙はリーフが使っているため、アメリは両足をぶらんとしているが、精も根も尽き果てた姿の一端としてはわかりやすいものである。
「リーフ絶対に馬走らさんといてな……
今やられたらマジで落ちるかも……」
「しねーよ、お前みたいに意地悪じゃないから」
「やりよったらぬしにしがみついて首しめるからな……」
「だからそんなことしないって。
なに、お前こういう時に俺に仕返しされそうな自覚とかあったりすんの?」
本音を言えば、地面に寝っ転がってでも休みたいアメリだが、その辺で寝てたりしようものなら、さっきまで自分が乗っていた荒馬に踏まれそうだから出来ないのだ。
荒馬を降りた後、逃げ場として選べる安全圏が、リーフの跨っている牝馬の上しか無かったというわけで。
肩を持つ両手から伝わってくるほど、胸と全身を上下させてはぁはぁ息を荒げるアメリに対し、疲れてるなら変な心配せずに黙ってろよとリーフも呆れる。
空気を読んで、ぴしっと直立姿勢のまま動かずにいてくれる、リーフの牝馬の賢さが半端ない。
「おねーさんっ」
「はう゛っ……!?」
「うわ!?」
しばらくアメリお姉さんに放置されていたフリージアが、後ろからぴょいんとアメリの背中に飛びついた。
地面から、馬上のアメリの背中へとひとっ跳びでだ。ジャンプ力もあるし勢いもある。
疲れ果てていて心構えも出来ていないアメリには完全なる奇襲攻撃で、どすんとフリージアの全体重をかけた体当たりで背中にしがみつかれたアメリは、甚大なダメージとともにリーフにもたれかかる。
リーフにもまあまあな重みが通ったが、それよりリーフがびっくりしたのは、背中にむにゅんと贅沢な弾力を持つ二つ玉がぶつかってきたことである。
絶対に、積極的に手で触りになんていけないやつだ。背中越しでもかなりインパクトのある感触である。
「大丈夫ですか~?」
「や、やめてフリジ……
ホンマ、死んでまう……」
「ちょ、や、アメリ、離れろって……!
お前っ、ちょっと、そのっ……!」
呼吸もままならない中で背中に強い衝撃を受けた時は、本当に死ぬかと思うほど息が出来なくなる。
うつろな目でその頭をリーフの肩口に後ろから預け、開いた口からは透明なものさえ流れそうなアメリはもう、リーフに全身を預けたまま全く動けない。
背中の感触、耳元で囁かれるようなぞくぞくする感覚、そして密着した汗だくのアメリが放つ女の芳香。
なんかすげぇムズムズするから離れろ、とはとても言葉に出来ず、リーフは理由を説明できないまま、アメリに離れてくれと訴えるのみ。
今のアメリに、従うことの出来る余力は無いが。
「っ、痛っ!?」
それだけ、もう何も出来ないほど脱力していたアメリが、目が覚めたように頭を振り上げて悲鳴を発した。
耳元で叫ばれたリーフは耳がきぃんとしたが、横を見ればその理由にも納得できる。
さっきまでアメリを振り回していた荒馬が、わざわざアメリに近づいてきて、その左足にがぶりと噛みついてきたのである。
思わず足を引っ込めたアメリ、そして噛まれた場所がブーツだったからよかったが、脛を噛まれたら骨を砕かれていたかもしれない。何気に相当に危なかった場面である。
疲れているこの荒馬が、頭を上げるのも億劫で、アメリの一番低い位置を噛みにきたこと。
そして疲労ゆえ、噛む力にも全力が込められていなかったのは幸いだ。
だからこそ助かったものの、それでも今、アメリの左足は、ブーツの下で血色を悪くしているだろう。
びっくりした顔で荒馬を見下ろすアメリに対し、ぶふんと鼻息を荒馬は、憎らしい人間のしてやられた顔に得意げな表情すら見せている。
「コイツ性格悪いな……」
「っ、触んな、こら……!
そういう喧嘩売ってきよんか、お前……!」
体力は失っているが、流石に頭にきたのかアメリは目に火を宿し、荒っぽい言葉を返している。
何気ないが、相手を"ぬし"と呼ぶのが常のアメリが、荒馬を"お前"と呼んでいる。
これはかなり怒っている時にしか発さない言葉遣いだ。
「ちょ、ちょっと離れようか……」
「なんやコイツ舐めよって……!
前歯へし折ったろか……!」
リーフに全身を預けたままだが、なおも自分の足に歯を立てようと口を開いて迫らせる荒馬を、アメリはげしげし蹴って応戦する。
リーフが手綱を操って、自分達の乗る馬を前に歩かせて距離を取ろうとするも、荒馬もてこてこついてきて、憎々しげな目で見下ろすアメリを見上げている。
おぉどうした、そんなもんか、と涼しい顔で、蹴ってくるアメリを逆に挑発するかのよう。
「……フリジ、行け。
ひっつき虫じゃ」
「お馬さんにですか?」
「おぉ、行け……!」
「あいっ」
自分で反撃する余力の無いアメリは、フリージアを発射する命令を発した。
まあ、怒り任せに魔法を発動させて、本当に暴力的な手段で打ちのめしにかからない程度には理性的だろう。
だが、これはこれで馬に対し、かなり効力のある嫌がらせだとアメリは知っている。
アメリの背中から離れたフリージアは、ぴょいんと荒馬の方へと飛びついた。
頭の上に、いきなり小さな子供が飛びついてきたことに、荒馬は驚いて首を振る。
しかし、お腹と両手両足をぴたりと荒馬の頭部にひっつけたフリージアは、いくら振られても振り落とされない。
さらには、地を這う虫のようにかさかさと動き、荒馬のたてがみの中をもさもさとかきわけて進む。
これは気持ち悪い。
フリージアが、まるでゴキブリさんのように、荒馬の全身を這い回り始めた。
初めて経験する不快な感覚に、荒馬はどたばた体を振り回し、フリージアを振り落とそうとする。
背中に乗られたら走りだして跳び、尻を這われたら後ろ蹴りする勢いで尻を跳ね上げ、顎の下まで這って戻られたら頭を上下させて暴れる。
虫とは違って大きなフリージアだから、これに離れずがさがさと全身を這われると、くすぐったさを超越して気持ち悪過ぎる。
馬とフリージアの体の大きさの差を鑑みて例えるなら、人間の肌を巨大な蜘蛛が這い回っているのと似たようなものである。
「あはははー、落ちないぞー」
「どうなってんの、アレ」
「出来ると思たら何でも出来る、それがフリジの魔法じゃろ……」
「うん、いいからちょっと……ちょっとだけ離れて……
言いたくないけど、あたってるから……」
蝉は木にだって張り付く、より小さな虫は壁や天井だって這う。
それらを見て育ってきたフリージアの幼い知能は、"虫より力の強い自分が頑張れば同じことが出来る"と解釈する。
虫はその体に特殊な構造や特徴があって出来ているのだが、そんなことは説明されたって理解できないフリージアは、その理屈を超過して可能不可能を決めてしまうのだ。
結果として残るのは、自分にも出来ることだと信じたフリージアが、その"精神力で生み出す魔力と魔法"で、本来できようはずもないことが叶えられるという事象のみ。
無垢な精神力と、空腹でないなら無尽蔵とも言えるフリージアの魔力が今、アメリに命じられたまま荒馬に"ひっつき虫"して、かさかさ全身を這い回る責め苦を与えている。
さんざんアメリを振り落とすために体力を使った後の荒馬は、不快感に抗って暴れるも動きは小さくなっている。
フリージアからすれば、落ちずにしがみつくのは楽勝だ。
荒い息を吐いて動きが鈍くなる荒馬の全身を、立体的な構造物を這い回る楽しみのまま、かさかさしゃかしゃか動き回り続ける。
流石に踏まれたり蹴られたりしたら危ないことだけはわかっているのか、脚の付け根より下には行かないのが、余計に荒馬にじれったく思わせるファクターだ。
「……うゆ?」
そうして荒馬の全身を這い回っていたフリージアだが、ふと、今までに見たことのないものが目の前に現れた。
今フリージアは、荒馬の腹にひっついている。背中を地面に向ける形でも落ちないらしい。
そして彼女は今目前に、荒馬の後ろ足の間の位置から、少し前に位置した場所にぶら下がっているものを見据えている。
人間でも、これを直接、間近に見た者はあまりいないのではないだろうか。
荒馬はそろそろ疲労が溜まってきたか、自分の腹の下で止まっているフリージアに我慢しつつ、一度動かず息を整えている。
今まさに、雄馬である自分の大事なものが、ただならぬ危機に晒されているとは知らずに。
荒馬にとって不運すぎることに、フリージアは初めて見た何かに対し、彼女なりの特別な触れ方をすることが多いのだ。
「!?!?!?
ぶぅルああアアァぁっ!?」
かぷっといかれた。
一息入れていた荒馬が飛び跳ねるほどの、あまりに壮絶で凄まじい痛み。
前足を振り上げて立ち上がるんじゃないかというその姿勢、この時リーフはフリージアがどこにいるのかはっきりと見え、それが何の付近なのかわかって硬直する。
「うげ……」
「んむ~……?
かひゃい……」
「ガフウッ、バフウッ!?
バルルル、ブファアアッ!?!」
どんなに暴れられても振り落とされないフリージアは、荒馬の究極的弱点を甘噛みしつつ、ぐにんぐにんと引っ張って、その歯応えと食感を確めている。
子供は初めて見たものを、平気で手で触ってその正体を確めようとすることがある。
フリージアは、時々噛む。今は荒馬の腹にへばりつくために、両手が塞がっているから尚更だったのだ。
信じられないことをしてきやがるフリージアに、絶叫して苦痛を表現する荒馬の姿には、リーフは股がきゅんとする想いとともに心底同情する。
「妾は女じゃからわからんけど、あれはそんなにやばいんか」
「……言葉じゃ言い表せないぐらいきつい」
リーフから面白い回答が聞けそうな確信があったアメリは、息切れした声ながら尋ねてきた。
どうやらそうらしい、という話は、酒場や賭場で下品な話をするのが好きな傭兵と話すことも多かったアメリも、何度か聞き及んだことがあるのである。
悶絶して暴れる荒馬を、生唾を呑むような心地のまま、リーフは最大限その深刻さを伝える言葉を選んでいた。
「はん、ザマァ見さらせ」
噛みつかれた恨みを込め、さぞ留飲の降りた声を発するアメリの気持ちはわかるが、それでもリーフはアメリに一言付け加えたかった。
きっと永遠にわかって貰えないかもしれないけど、お前が思ってるほど生易しいものじゃないんだぞ、と。
空気を読んで今は言わなかったが、いつかきっかけがあれば伝えてあげたい、男の本音というやつである。
「あれを卸せたって言っていいのかわかんねえけどなぁ」
「なーに、もうすっかり仲良しじゃ。
少なくとも妾は、こいつの暴れっぷりにも負けんわい」
しばし落ち着いてから、アメリは例の荒馬の横っ腹をぽんぽんと叩きながら、オラーシュを相手に約束を取り付けようとしていた。
リーフにはあの牝馬を、そして自分にはこの荒馬を。
乗れてたんだからええじゃろ、と自信満々な顔をするアメリだが、やはりオラーシュは複雑な表情だ。
「これぐらい気ぃ強い方が頼もしいて。
向こうっ気の強い奴じゃないと、予想される苦難には立ち向かえんじゃろ」
「そういう見方もあるけどなぁ」
首を下げて自分を睨みつけてくる荒馬に対し、アメリはやや戦友を見るような目線を送っている。
揉めに揉めはしたものの、アメリは心底この馬のポテンシャルと精神力を買っているようだ。
敵意の無い目を向けているのは確かだが、それで気難しいこの馬がはいはいと受け入れてくれるわけではなく、じとーっとした目でアメリを睨みつける態度はやや攻撃的。
今おとなしくしてアメリに体を触らせているのだって、疲れているからというのがまず一因。
そしてアメリの背中におんぶされるようにしがみつく、フリージアを警戒しているからだ。
気の強いこの荒馬だが、アメリよりもこのちんちくりんの方が怖い。容赦なく何ちゃらを噛んでくるような奴は、男だったら人も馬も変わりなく、永遠に警戒せざるを得ない対象だ。
そんなフリージアを手懐けているアメリにやんちゃし過ぎると、またこのやばい奴を差し向けられる危険性があるから、先程までのように好き放題には攻撃できないのである。
「こいつはこう言ってますが、リオン様としてはお認めになれますかい?
正直、責任は持てませんよ?
俺は強く引き留めた、っていう実績を強調したいぐらいなんですが」
「うーん、まあいいんじゃない?
アメリ君がいいんだったら」
「不意に暴れてご迷惑をかけることが不安なんですけどね、対象がアメリに限らず」
「その時はその時だよ。
想定したくはないけれど、したくないことをすることもあるしさ」
「……まあ、そう仰るなら。
その際の対処は、そちらに一存する方針ですしね」
さすがにリオンも指揮官経験者。
言葉は柔らかいが、いよいよとなれば、ぐらいの判断は出来る。
何かあってからでは遅いんじゃないか、とオラーシュは思わずにいられないが、お偉い様にこう言われては、平民にこれ以上踏み込める余地は無い。
「それに、さっきの見る限り、もうこの馬も下手なことは出来ないでしょ。
アメリ君とフリージア君に逆らうとどうなるかわかっただろうし」
「馬は危機感に敏感な生き物だからな。
鞭よりきついあんな経験した後じゃ、しっかり学んでるだろうよ」
リオンもギナークも冗談めかして笑うが、痛みを想像すると二人とて笑みに苦みが入る。
計らずも、女性のアメリにさえ、あぁアレは相当やばい噛みつきだったんだろうなと伝わった。
オラーシュも乾いた笑いを浮かべているし、男連中があの荒馬の今後を憂いる程度には、フリージアの行為は破壊的だったということだ。
「ま、よろしくな。
ぬしとは長い付き合いになるわ」
「ブルルル……」
言語の通じない相手に言葉で挨拶するアメリだが、伝わっていながらも不満気と見えそうな息遣いで返すこの荒馬、果たして良い仲間になってくれるのやら。
良くも悪くも、多少はアメリかフリージアの言うことを聞くようになったように思われるが、ちゃんとした意味で手懐けたと言える形ではないので、多少は不安も残るところである。
「アメリ、こっち来いよ。
足が痛むだろ、治癒魔法かけてやるから」
「おー、すまんな。
世話んなるわ」
なんだかんだで荒馬に惚れ込み気味、ともすればもう少し触れ合いたがっているようにも見えるほどだったアメリだが、リーフに呼ばれると嬉しそうに歩み寄っていく。
噛みつかれた足を、ちょっと引きずり気味にだ。やはり相当痛かったらしい。
歩けている時点で骨まで痛めているわけではなさそうだが、例えるなら捻挫した程度には痛んでいるのだろう。
「オラーシュどの、水場あります?」
「あっちにあるが」
「そんなの気にするなよ、その足のまま歩く距離増やしたら悪くなるだけだぞ」
「汗だくの足を治癒してくれる相手に突き出せるかいや。
クサいて言いがかりつけられてもかなわんし」
「おねーさんの足はいい匂いですよー?」
「いらんこと言わんでええっちゅうねん」
アメリはひょこひょこ歩いて、オラーシュに指し示された水場へと、リーフと共に進んでいく。
長くブーツを履いていた素足を、洗いもせずにリーフに差し出したくないらしい。
がさつを自称すらするアメリだが、やはり女の子には女の子である。
「きっかけは何だか知らないけど、フリージアに足を嗅がせるシチュエーションを作ったことのあるアメリにちょっと引く」
「山道で足ひねった時、心配してフリジがぺろぺろしてくれよっただけじゃ。
間違ってもツレに進んで足嗅がすような気色悪い性癖ないわ」
「おねーさんの足は、なんだか甘い匂いがしたのですよー」
「フリジ黙れ、ホンマ黙ってくれ。
自分の体臭の話されるなんて気分悪過ぎるわ」
「うゅ……」
本気で嫌だったのかアメリの声が強く、さすがにフリージアもまずいと思ったのか黙り込んだ。
ただ、そんな話をされるとリーフも複雑なもので、あまり思い出したくないものを思い出してしまう。
さっきアメリに馬上でひっつかれた時の、くらっとするほど鼻をついてきたアメリの香を思い返すリーフは、普段あんなに彼女を女として意識しないようになっていたのに、妙な意識を蘇らせてしまう。
フリージアが背中から降りたアメリが、少しくしゃついた髪を後ろ手でふぁさっとかき上げるが、それによって踊った髪が、今もリーフの鼻にアメリの香りを届けてくる。
本当に、黙っていれば顔も肢体も仕草一つも、香気さえも含めて色気と可愛げの塊の奴なのだが。
世の中には、そこにいるだけで男を魅了する淫魔族の霊魔族というものもいるそうだが、アメリはその血でも引いてるんじゃないかって、リーフは冗談半分で思ってしまう。
何と言うか、普段の関わり合いの末、ここまで異性として見なくなっていたというのに、ちょっとしたきっかけで女だっていうことを思い出させてくるのだから。
その後水場に辿り着いたリーフは、ちゃぷちゃぷ足を洗ったアメリにそれを差し出され、目を閉じて治癒魔法を施していた。
小さくて揃った足の指、細い足首、美しい脚を、リーフは噛まれた場所を確認する際に一度だけ見た。
治癒魔法を施す際、目を閉じる癖を持つリーフはそれにかこつけて、あまりアメリの素足を目に入れないように努めていたものである。
相手を性的な意識で認識している時、その美しい肌と肢体を目の前にしていたら、なんだか落ち着いていられなくなってしまうからだ。
それに最近のリーフの私情で言えば、変にアメリのことを意識してぎくしゃくし、それをからかわれたら負けだという気分でもあるから、それを表には出したくない。
「ひぅ~……
リーフの治癒魔法は、優しくて気持ちいいなぁ……」
「…………」
リーフの治癒魔法は非常に練度が高い。
治癒に伴い鎮痛の効果を添え、僅かに残り得る痛みを紛らわすため、優しく柔らかい手で包み込むような温かい包容感を伴わせる。
さっきまで、歩くに際してじんじん痛んでいた足が、滋湯に浸かって癒されるような心地に包まれるアメリは、ほうとする息遣いを発するが、リーフはあまりその声を聞かないようにしたい。
少し手を前に出せば、細くて美しい女の足にも触れられそうなこの状況、女の声で喘ぐのはやめて欲しい。
治癒魔法の行使に意図的に集中するリーフは、本来するよりも長い時間、アメリの足を癒していた。
おかげでアメリの足がより快方に向かう中、リーフはその何倍も疲れた心地だった。
まあ、これはアメリが悪いわけではないので責められない。