断章α -キシュロ-
魔王軍の本国は、現在バレンタイン王国である。
総本山であるバレンタイン王都と、魔王おわす神殿を擁するキュエギ霊山は、バレンタイン王国領のかなり西部に位置している。
西に行けば行くほど魔王に近付き、そこに居座る魔王軍の者達の力も強く、支配力も強い。
相対的に、東に行けば行くほどに、魔王軍における上層階級の者が居座る数も減り、支配力は一枚ずつ落ちていくというのもまた事実である。
それでもバレンタイン王国内においては、支配される者達が反乱を起こせるような地など、どこにも無い程度には魔王軍も構えているが。
しかし、バレンタイン王国を離れればどうだろう。
バレンタイン王国よりも東部には、ハーナッツ地方、ミュウメ王国、ケウン帝国という三つの国家があり、それらも既に侵略された後で、今は魔王軍の支配下に置かれている。
ハーナッツ地方というのも、明確に王めいた者がいなかっただけで、そう呼ばれる地域全体の人々が手を取り合って自由に生きてきた、自由国家みたいなものである。
国とも呼べそうなほど広い領土を持つハーナッツ地方を含め、三つの国を傘下に置いた魔王軍は、その支配を継続させるための兵力も、そちらに駐在させている。
魔王軍は、元より魔王に従ってきた軍勢に加え、支配した国家からも自軍に献身する者を増産しているが、いわば最も信頼できる"生え抜き"にはやはり数に限りがある。
バレンタイン王国という本国にその多くを割く以上、そちらに回る駐在構成員の質はまあ落ちる。
それでも、支配される側が反乱を起こしたとして、どうこう出来るレベルまで落としはしないが。
実情はそうだから、ここキゲッシュ地方も同じようなものなのだ。
早い話が、本国に置いておいても頼りないような奴ら、しかし贄にはされたくないから魔王軍には従います、といった、権力にすがりつく犬どもを遣わしているのである。
もっと言えば、利用価値の無さそうな連中の左遷先には持ってこいとも言える。
そんな連中に、魔王軍の重鎮の一人が生成する、デッドケルベロスのような"大駒"を授けるなどして、武力の増強を伴わせて遣わす。
本国から離れた植民地の支配は、そうして継続されているのである。
たとえばキシュロが暮らしている、サノラガンの村の話。
実際のところを言ってしまうと、この村の者達とて、自分達を支配したつもりでいい気になっている、あの魔王軍の末端構成員に逆らい、叩き潰すこと自体は出来るのだ。
村人達とて、山から下りてくる野生の魔物達を、自分達の手で撃退する武力ぐらいはあるのだから。
しかし、それをさせぬためのデッドケルベロスがいたりもするし、あるいは仮にそれを含めて撃破したとしても、明確に村が反抗したとなれば、魔王軍の本隊が粛清のために動いてくる。
そうなると勝てない。村ごとすべて滅ぼされ、残らず村人は贄送りだろう。
我が物顔で支配者ぶる、魔王軍の雑魚どもへの復讐そのものは簡単、だけどその後の事を思ったら実行には移せない、というところ。
魔王に支配されるバレンタイン王国外の植民地は、概ねこんな実情にある。
脆そうに見えて堅固で、不動に見えて揺らぎ得る。
魔王軍にとって、本国の外の支配は、本国と比較して重要ではないのだ。
決起されて現地の者達がやられても、本当の意味でいなくなられては困る人材は少なく、取られてもまた取り返せる領土に過ぎないのだから。
一度侵略して牙を抜ききった植民地など、何かの間違いで奪還されても、本国が動けばすぐ手元に戻せるという話である。
さて、それを踏まえてサノラガンの村だ。
キゲッシュ地方とて、地方内外を含めて往来する商人が無数にいて、彼らは情報に敏感だから、そうした世相や国情をよく知っている。
田舎村だからと言って侮るなかれ。村長などを含む、この村の要人に至っては、お抱えの商人らから受け取る情報も握っており、いざと言う時に知恵も利く。
リーフがデッドケルベロスを討ち取った事実は、村長を筆頭とした村の要人らの集う会議で共有され、そこから彼らは今後の方針を素早く定めている。
「兄貴、どうします……?
あの化け物がやられちまった以上、この村の連中を脅して支配することも……」
「最悪、あいつらいい気になって、俺達を殺しに来やしませんかね……?」
「はっ、あいつらにそんな度胸があるかよ。
俺達の後ろには魔王軍が控えてんだぞ。それがわからねえほど、田舎者どもも馬鹿じゃねえさ」
この村一番の屋敷には、魔王軍の末端構成員である悪漢どもが住んでいる。
もともと、村長の家だったものだ。支配下に置く際、奪い取ったものである。
この村においては贅沢なこの屋敷で、手下どもが今後を不安がる中、デッドケルベロスへの命令権を預かっていた男は、リーダー格として毅然と構えている。
彼らは、さんざんこの村で好き放題してきたのだ。
屋敷の地下には、女を連れ込む専用の部屋だってある。
連れ込まれた女達が、自ら望んでのものでなかったことは言うまでもあるまい。
そうしたことを繰り返してきた連中は、いざ復讐されることを想像すると臆病にならざるを得ない。
「明日にはキゲッシュ地方を支配する親分様に通達を出して、新しい化け物を貸して貰えるよう計らうさ。
せっかくのデッドケルベロスを駄目にしちまったことに言い訳は利かねえが……まあ、正直に言うしかねえだろうな」
「うわぁ、マジっすか……俺行きたくねえんですけど……」
「俺もだよ!
あったりするからね叱られるで済みゃいいが、ただごとで片付くとも限らねえだろ!」
普段から恨みを買うようなことをやり続けていると、ふとした途端に一気に困るもの。
リーフにデッドケルベロスを討伐されたことに関しては、まだ後からでも始末がつく話だ。
キゲッシュ地方の支配において最も有力な、魔王軍の幹部様にでも、代わりを下さいと後で頼めばいい。
お上の方も、村の支配に武力が必要であることは理解してくれるだろうから、その話自体は通るだろう。
問題は、そのお上もたいがいな悪人ということだ。
貴重な大駒を駄目にしたことを説明した時、よくわからない強すぎるガキにやられましたと報告した時点で、話も聞かずに激怒されたっておかしくない。
だいたいそもそも、この村の支配を預かっていた悪漢連中自体が、話のわからぬ粗暴者どもなのだ。理不尽で横暴な魔王軍上層部に、文句を言える立場じゃない。
小悪党が一番怖いのはいつだって、自分達を穿とうとする正義の使者より、自分達よりも力の強い悪党に他ならない。
だから今夜は、デッドケルベロスを討たれたという気まずい報告を、誰がお上に報告しに行くのか、それを決めるのが彼らにとって一番重要な命題となる。
最悪、お偉い様の気分次第では、報告に赴いた者が殺される可能性もあるのだから、手を挙げる者などいない。
押し付け合って、なんとか公正に命懸けの任務を担う者を決めねばならないのだ。
「しょうがねぇ、花札ででも決めることにするか。
……三回勝負ぐらいにはしようか。懸かってるものがでかすぎるからな」
「兄貴も参加するんすよね?」
「馬鹿、俺は……」
「いやいや、ここは上下関係とか無しっすよ!?
命が懸かってんですからね! ここは俺らも譲れねえっすよ!」
デッドケルベロスの代わりとなる大駒を頂くまで、しばらくこの村で大きな顔もしづらくなる。
自分達に手を出せば、どうせ大駒が来てからいくらでもなぶり殺しにしてやれるのだし、まさか馬鹿な真似をする奴はいないだろうと読めるが、それでも用心するに越したことはない。
恨みを買うだけのことをしてきたのだ。ある程度の辛抱は必要だろう。
それよりともかく、今はその代わりの大駒を頂くため、危険な報告者を決めることが先決だ。
長らくこの村の支配者として君臨していた年長者も、この期に及んでは部下にも特別扱いされず、自分達と公平な立場になれと言われてしまう。
四人でやるより五人でやった方が、各人の勝率は上がるのだ。
命懸けの任務を押し付けられるリスクは、1パーセントでも下げたいのが当然である。
「お前らなぁ……!」
「何と言われても聞けねえっすよ! ここは……」
「ぎゃあああああっ!」
もう、彼らに未来などなかったのに。
明日のことを決めるために、血眼になって重責の擦り付け合いをしていた悪漢どもの耳に、屋敷の下階から響く悲鳴が届いた。
それを耳にした時、男達の背筋が凍ったのは言うまでもない。
「な、なんだ!?
今の、あいつの声だよな!?」
「お前、見てこいよ……!」
「なっ、なんで俺が! お前が見てこいよ!」
この村に住まう、魔王軍の末端構成員は全部で九人。
そのうち五人がこの屋敷に住まい、残りの四人は他の大きな民家を奪い取って過ごしていた。
その四人のうち二人が、リーフに叩きのめされた二人であり、あとの二人は今は酒場か自宅にでもいるだろう。
この家にいる五人以外の四人、もうこの世にはいないわけだが。
また、この屋敷にいた五人のうち一人も、屋敷の入り口すぐの所で、血まみれになって倒れている。
状況が把握できない悪漢達の部屋に、やがて勢いよく扉を開いて現れた人物がいた。
犬頭の獣魔族、そしてその手には既に血に濡れた刀。
山に下りてきた魔物に立ち向かうための武器の一振りを手にしたキシュロが、憎しみに満ちた赤い目で、四人の魔王軍末端構成員を睨みつける。
「お、お前……!?
っ、俺達に手を出そうってのか!? 魔王軍の本隊が黙っちゃいね……」
キシュロは聞く耳を持たなかった。
あまりに突然の展開に、立ち上がりこそすれ身動きも取れていなかった者に、無感情めいた足取りで歩み寄ると、一切の躊躇なくその刀を振り薙いだ。
首元をぱっくりと切り裂かれた悪漢は、飛沫のように舞う血の雨の中、倒れてひくひくと動くのみになる。
絶句する悪漢達の前、キシュロは次の男に歩み寄る。
大柄な獣魔族、力も頑丈さも人間より上だ。丸腰の悪漢達には、逃げ道も抵抗するすべもない。
「お前ら、うちの女房のツラも覚えちゃいねえんだろうな」
冷たく言い捨てたキシュロはそれ以降何も言わず、憎しみに燃える瞳に映した復讐対象を、次に次にと斬り捨てていった。
この村の村人ではないとは言ったって、リーフが魔王軍に明確に反抗した事実は、サノラガンの村にとって少々まずい展開に違いなかった。
決して村人が反抗したわけではないのだし、余所者が勝手にやったことですと、魔王軍に弁明すること自体は簡単だ。
だが、話が通じるかどうかもわからないし、仮に例えば、雇って差し向けたのだろうと勝手に疑われたりしたら、そうではないと証明する手立てもない。
デッドケルベロスを失った連中が、新たな大駒を上層部からまた借りてきて、大きな顔をするようになったら、どのようにいちゃもんをつけて絡まれるかもわからない。
まあまあまずい状況に陥ったのではないか? と、村の要人らによる会議も、最初は暗い気分から始まったものである。
しかし、後のことはさておいて、魔王軍連中を守るための最大の札、デッドケルベロスがいなくなったことは、村にとって最大の決め札になった。
今ならデッドケルベロスを恐れることなく、この村で好き勝手してきた連中を、好きに出来る好機が訪れたのも事実だったのだ。
村の若い娘を屋敷に連れ込み、尊厳を奪い尽くし、自殺者をも数名生み出してきたあいつらを。
酒に酔って気に入らないことがあれば、落ち度無い者の頭を酒瓶で殴ってきたあいつらを。
そして何よりも、隣人のように親しんできた村の一員を、定期的に魔王への贄に指定してきたあいつらを。
流れ者の獣魔族であった自分を、人間でありながら見初めてくれた愛する妻を、魔王への贄に指定して村から連れ去り、愛娘や自分の目の前から永遠に消してしまったあいつらをだ。
それに思い至った村人達は、そこからはもう迷わなかった。
酒場で何も知らず、酒に酔っていた魔王軍の若者の首を斬り。
いつもの調子で嫌がる女性を引き回していた男を、数人がかりで押さえつけて背中をナイフで引き裂いて。
リーフに打ち据えられて失神していた二人を、目も覚めるほどの苦痛の後、命を失うよう滅多切りにして。
そしてこの村で最も力がある男の一人、キシュロが悪の巣窟であった屋敷に乗り込み、残る五人を皆殺しにして。
約束事は、斬った傷によって復讐を完遂させることのみ。
村人の総意は、"魔王軍を恨む赤茶色の髪の少年が、この村にいた魔王軍の構成員を皆殺しにした"と、口裏を揃えることを選んだ。
赤髪黒刃の少年。かの噂は、魔王軍だけの耳に届いているものではない。情報通の商人が、この村に出入りしていることは先述のとおり、あるいは普通のこと。
村人による犯行ではないという、いつかこの村に別の魔王軍の構成員が訪れた時の言い訳が用意された上で、かねてから憎くてたまらなかった者達への復讐は実行に移されたのである。
魔王軍の連中の皆殺し。リーフがやろうが村人達がやろうが、村人達がやったという決定的な反抗事実が闇に葬られる以上、どうせ魔王軍のこちらに対する対応は何も変わらない。
だったら自分達の手で復讐した方が、はっきり気が晴れるというものである。
むしろ、あることないこと余計なことを、魔王軍上層部に報告しかねない、底意地の悪い小悪党どもの口封じをしてしまった方が、どちらかと言えばましですらある。
やったのは村人ではありません、の一点張りで弁明し、それで駄目ならそれまでだ。村人達にとって都合の悪い証言をし得る悪党どもが、一人もいない状況はプラスとさえ。
自分達の手で復讐の刃を振り下ろしたことによって、特別生じる不利だとか、そんなものは別にないのである。
デッドケルベロスという最大の障害物を排除してくれたリーフに、すべての責を押し付けるのは、村人達にとっても少々心苦しかったのも事実だ。
復讐を完遂させた後なら尚更に。彼のおかげで、自分達の悲願は叶ったわけで。
リーフを村から追放するかのような形を取ったのは、彼が村を離れていれば、後から魔王軍が事情を聞いても、当の犯人が不在という状況に陥るから。
村人達とて、村を恐怖に陥れていた怪物を仕留めてくれたあの少年を、よもや魔王軍に差し出すようなことは、したがるはずもないということだ。
100パーセントではないけれど、村の参謀格は上手くいくだろうと確信していた。
赤茶髪の少年という噂には、魔王軍の方が敏感なはずだ。相手方の事情を思えば、これに勝って信憑性のある"村人にあらざる殺害者"は無い。
やがては再び、魔王軍からこの村を支配するための人材が、武力で支配力を強める大駒を連れて訪れるだろう。
時が経てば、あの悪漢どもがこの村を支配していた頃と同じく、また嫌な日々が始まることに違いはない。
だが、憎き旧支配者に復讐を果たした村人達は、晴れた想いで今しばしの平穏を過ごすことが出来る。
ずっとやりたくても出来なかったことを果たし、やがてまた悪い状況に陥るにしたって、それが"元の鞘"に過ぎないのであれば、はっきり言って勝ちである。
得たものがある上で、状況が以前より悪化するわけではないのだから。
デッドケルベロスという、村人にはどうしようもなかったものを、リーフという思わぬ来訪者による刃が滅してくれたことは、村人達にとって僥倖ではあっただろう。
しかし、条件さえ揃ったとなれば、自分達の知恵を総動員し、悪辣な者達に誅罰を下したのは村人達。
歴史に名を残すような者など、きっと一人もいないであろうのがこの村だ。
サノラガンの村とは、本当にどこでもあるようなありふれた田舎村であり、この村に暮らす人々も、言葉は悪いが凡夫の集まりと言い表して問題ないはずである。
しかし、誰もがこの世知辛い世の中を、必死でもがきながら生きているのもまた事実。
復讐されし悪人どもは、決して名の騙り継がれぬであろう平凡な人々とて、決して侮ってはならなかったのである。
「お父さん、どうしたの?」
「……いや、何でもない」
悪漢どもを斬り捨てた刀と、返り血を浴びた服を、村の鍛冶師の溶鉱炉に捨てたキシュロは、血に濡れた全身を清めた夜、愛する娘を抱きしめて夜を過ごしていた。
復讐を果たしても、この子の母親は帰ってこない。
そしてキシュロは、魔王に支配されたこの村で、いつか愛する娘までもが贄に指定されることを恐れ、先日旅の行商人に、娘を預ける決断をしたばかりだった。
この子はやがて、二人の親を、共にそばから失うのだ。
婚姻を結ぶ際、幸せな家族を作りたいなと妻と語らったことも、悲しい意味でしか懐かしくない。
娘が生まれた時、この子が嫁に行くとき自分はどんな気分になるんだろうと早過ぎる妄想をして、柄じゃないなと自嘲してしまったこともある。
夢に描いた三人の家族の絵も喪われ、遠き地に旅立つ娘の花嫁姿を見ることも、きっともう叶うことはあるまい。
人生は、上手くいかないことだらけだ。
魔王なんて奴がいなければ、奪われた未来と希望は、まだ手元にあったのだろうか。
決して自分達のせいで、あったはずの幸せを取りこぼしてしまったわけじゃないはず。
キシュロは時々思ってしまう。俺達が、こんな仕打ちに遭うようなことを何かしたのかよ、と。
「痛いよぅ、お父さん……ほんとに、どうしたの?」
妻を自分達から奪った連中に、復讐を果たした男は、娘をぎゅっと抱きしめて身を震わせていた。
いつからか、ずっと我慢していたものだ。とめどなく溢れる。
愛娘を後ろから抱きしめる父は、決してその声を漏らすことは無かった。
家族を守ることが出来なかった、自分で自分を恨みたいぐらい、弱くて無力な父親だ。
それでも幼い我が子の前では、少しでも、少しでも強がっていたかった。
男親とはそういうものである。