第1話 ~リーフ~
魔王"ハギン"がバレンタイン王国を支配するようになってから、もう二十年以上が過ぎようとしている。
魔王ハギンは支配領土から、一日に一つの命を"贄"として捧げることを強要することで有名だ。
選別基準は人々の知るところではなく、ある日、突然に、魔王の使いが現れ、誰かを指名して連れていく。
指を差されればその者の命は、その時点で短い天寿を定められてしまうのだ。
魔王おわすと言われて長い、キュエギ霊山の魔王殿に連れていかれ、幽閉され、魔王に食される時を待つだけの人生となってしまう。
いつ、突然に、自分が"贄"とやらに指名され、理不尽に人生を終わらせられてしまうのかわからないこの風潮は、魔王に支配下に置かれる人々の心をも、今やすっかり荒廃させてしまった。
いつまで生きられるかわからない若者が、未来に希望を持って努力を重ねられるだろうか。
ある日親しかった隣人が、贄に指名されていなくなってしまったあの日以来、当たり前のように笑えたものも笑えなくなってしまう。
いつか立派な商人様になるのだと、師匠の下で毎日汗を流し、こつこつと小金を積み重ねていた二十歳にも満たぬ若商人が、唐突に贄に指定されて消えていった姿は、周りの人の目にどう映っただろう。
いかなる時にも常に"贄"に指定される可能性を孕んだ生活は、将来のために今の暮らしを慎ましく送ろうという文化的な精神を犯し、やがてその地は希望無き者達で溢れかえる。
魔王に支配される前の、二十年前の平和なバレンタイン王国と比較して、近年バレンタイン王国内で発生した犯罪数は十数倍に増えたと言われる。
魔王軍に服従した者は、贄に指定されることはなくなるという、都市伝説めいた噂話に踊らされ、魔王の軍門に下る庶民も後を絶たない。
でかい顔をして歩く魔王軍に嫌気が差し、ぽろっと魔王軍の悪口を言ってしまった者のことを、昨日までその者と仲良くしていた者が、魔王軍に取り入るために密告するという実例もあった。
果たして最も恐るべきは、そうした密告のうちのいくつが真実だったのか、もはやわからないことである。
ひどい時には、以前から気に入らなかった者を夜道で襲撃し、殴打し、倒し、身動きとれぬようにしてから魔王軍の使者に"贄"として勧め、魔王軍にへつらって従おうとする者だっていた。
魔王の支配下に置かれた領土は、荒れ果てた人々の心が民同士で傷つけ合う、暗黒社会となっていく。
彼らが憎み合い、攻撃し合う対象に、真の意味で自分達を傷つける、歯向かったところで手も足も出ない巨悪の姿は無い。
力無き者が絶大なる力を持つ者の掌の上に乗せられ、いつでも握り潰され得る中で、逃げ場無き人々が身近な同胞を痛めつけ、罵るという、不毛にして救いのないスパイラル。
悪しき支配者に掌握された地は地獄だ。
生き地獄という言葉は軽々しく使われがちだが、ここにはまさしくそれがあると言っていい。
誰もが心の奥底で、魔王ハギンを討ち果たしてくれる英雄が現れることを祈っている。
一方で、そんな偉人は現れることがないであろうという、絶望的な諦観が人々の心を締め付ける。
たった一夜にしてバレンタイン王都を壊滅させ、その国一つを支配の手中に置いてしまった魔王とその眷属達。
人々の心に根差した絶望という闇には、今なお一筋の光すら差さぬのが現状だ。
"キゲッシュ地方"は、広大なるその地域の大半が山地にて占められる。
山の中に拓かれた、商人や傭兵団が馬車と共に進める、舗装された山道が蜘蛛の巣のように広がっており、それが山中の町村を繋ぎ合わせている。
地図で見れば、まるで山の中に孤立した人里がいくつもあるように見えるキゲッシュ地方も、各町村の繋がりは非常に強く、隣村で火災が起きれば、すぐに駆け付ける絆の強さがある。
山の中の村と聞けば、小さくのどかで素朴な村を思い浮かべる人も多いが、長年山と親しんできたキゲッシュ地方の人々は、自然と共存したままに人里も広く開拓してきたものだ。
各町村は、言葉の響き以上の人口を抱える大きな人里も多く、連結した町村は一つの国家相当の連携力を持つという、静かな自然に包まれながらも賑やかな地方として名を馳せていた。
それが今や、各地の活気がすっかり失われてしまったのも、魔王軍に支配されるようになってからだ。
キゲッシュ地方はバレンタイン王国外かつ遠いため、贄を求められる頻度は本国よりもずっと少ないが、やはりいつ贄に指定されるかわからないという恐怖は、人々の心を100パーセント元気なものにはしない。
忘れた頃にやってくるとされる天災によって命を落とすより、贄の指定はずっと身近に感じ、人々が感じる理不尽さもずっと上だ。
加えてここを支配領土と魔王軍が定めて以降、魔王軍の末端構成員がキゲッシュ地方で大きな顔をするようになり、それも原住の人々を苛んでいる。
機嫌を損ねたら命すら取られかねない、そんな連中との共存を毎日のように強いられることが、いかに不愉快でストレスの溜まることかは想像に難くあるまい。
「……よし、いいだろう、通っていい。
くれぐれも、命が惜しくば魔王軍を名乗る方々の機嫌を損ねないように」
それは、とある少年が今訪れた、小さな村もそうだった。
関所をくぐることを許してくれた番人は、外来者である少年に、魔王軍の末端構成員がこの村にいることを入念に教えてくれた。
それが暗い声であったことも、来訪者に愛想を振りまく余裕すら、日々の心労で失っている証拠だろう。
事実、関所をくぐって村の中に入った少年の目の前に広がる光景は、今日の曇り空の暗さをそのまま地上へと落とし込んだかのように暗い。
人々の活気ある声も、笑い声も聞こえないこの風景、辛気臭いと形容して何ら問題あるまい。
村の入り口に立てられた"サノラガンの村"と書かれた看板も、薄汚れていて掃除が行き届いていないのは、まさしく村から活気が失われている証である。
自らが住まう村の不滅を祈願する想いを込め、多くの村では村の顔たる看板が、定期的に清掃されて常に綺麗に在るものだ。
この村に住まう人々は今、そんなことに構う程度の余裕すらないということである。
ボリュームのある赤茶色の髪を揺らして歩く少年は、顔立ち、背丈、体格ともに、十代前半と思しき風体だ。
使い古して黒ずんだ皮鎧で胸の周りを覆い、鎧の下に着こんでいるシャツは薄く、丈も短い。
細い腕とウエストを露出させ、膝上までのズボンの下では膝も出て、長旅向きのブーツも安物の革製。
鎧の上、右肩から左の腰へと斜めに走るベルトは、背負った革袋を背中に固定するためのものであり、彼が旅暮らしを営んでいることを象徴している。
魔物も潜む山を越えてきたこの少年が、身を守るための武器が何かあるのかといえば、せいぜい腰に下げられた鞘なしの黒塗り木刀ぐらいのもの。
はっきり言って傍目には、子供が冒険者の真似事をして歩いているようにしか見えない。
「きゃ、っ!?」
「うゎ……!?」
魔王の支配によって暗さをあらわにする村の景色を眺めながら、少年が辟易とした気分でいた時のことだ。
少年の見ていた左側とは逆、右側から何かがぶつかってきた。
少年も決して体が大きくないが、より小さな何かは衝突の反動ではじき返されたかのごとく、地面に尻もちをついてしまう。
「いたぃ……」
「わ、ごめん……大丈夫か……?」
尻もちをついた女の子は、涙目で足首に手を置いている。
もしかしたら、少年にぶつかって地面に倒れたその拍子、少しひねってしまったのかもしれない。
少年は片膝をついて、女の子を気遣うように近付くが、女の子の後方から小走りで駆けてくる大人の姿が少年の目を惹く。
「おいおい、だから勝手に走り出すなっつっただろ……!
すまねえな兄ちゃん、こいつがぶつかってきたんだろ、見てたよ」
小さな女の子の保護者と思しきこの人物は、人にあらざる姿形だ。
人間らしい体で服こそ来ているものの、薄茶の体毛が肌を覆い、頭は犬のそれという風貌である。
厳密な言葉では人犬族の"獣魔族"と呼ばれる者であり、彼は女の子を叱りながらも、彼女がぶつかった少年に対して詫びの言葉を述べる。
自分の娘が人様に迷惑をかけたか時の親のような態度、やはり保護者と見て間違いないだろう。
「俺は大丈夫ですけど……」
「ほら、お前もちゃんとごめんなさいしろ。
立って……」
「いたいっ、やめて……!」
女の子の手を握り、決して乱暴じゃない力で引いて立たせようとした獣魔族の男だが、手を引かれた女の子は泣きそうな声で抗議して座り込む。
引かれていない方の手は足首に添えられており、足が痛くて立ちたくないというのがわかる態度だ。
獣魔族の男が、足をひねったのかと気付くのと同時、やっぱりそうだったのかと少年も確信する。
「ったく、急に走り出すからだぞ?
立たなくてもいいから、まずはお兄さんにごめんなさい、ってな?」
「うぅ……」
「ごめんなさい、ちょっといいですか」
足が痛いなら立たなくてもいいけど、ちゃんと謝るだけでもしろと促す保護者だが、痛みがつらい女の子は涙目でうつむくだけだ。子供にとっての苦痛は見た目以上に重い。
しかし、獣魔族の男を見上げた少年は、すみませんに近い言葉とともに了承を求め、女の子が痛がっている足首に手を伸ばす。
痛い箇所に手を伸ばされて、いったい何するのと女の子が怯える中、そっと女の子の足首を両手で包んだ少年は、目を閉じてふぅと一息吐く。
それから二秒経った時、少年の手に包まれた女の子の足首を、ぽうと淡い光が覆った。
日差しが弱く、少しほの暗い曇天下、淡い光は晴れた日中以上にはっきりと見える。
女の子も、獣魔族の男もその光に驚く中、徐々にその光が消えていき、光が消える少し前に目を開けていた少年は、光が無くなると同時にその手を引く。
「……まだ痛い?」
「あ……痛くない……」
「兄ちゃん、治癒魔法の使い手か……?」
大人の言葉に返事することなく、痛みが無くなったことに驚く女の子の顔を見て、ほっとするように少年は微笑んだ。
あくまで少年、その表情を慈母のようだと形容するのは不適切ながら、幼げで無垢なその笑顔はきっと、そう言い表されるものに限りなく近い。
他者に治癒魔法を施せる者とは、他者の痛みを哀れみ、他者の安らぎを慈しめる者のみとよく言われるが、痛みから解放された女の子に微笑む少年の笑顔は、まさしくそれに該当する。
「よかったな。
今度から、気を付けるんだぞ」
「……うん!
ありがとう、お兄ちゃん!」
優しいお兄さんに座ったままお礼を言う女の子だが、痛みを解消してくれたお礼が先んじて、ぶつかってごめんなさいの言葉は頭に出てこなかったらしい。
ったく、とばかりに鼻息を吹く獣魔族の男は、がりがり頭をかいて少年を見下ろしている。
少年は女の子の手を引いて立たせてあげたのだが、それによって立ち上がった女の子の頭をぐっと手で押さえ、ちゃんと謝れと一言添える声も参り気味。
それによって女の子は、ぶつかってごめんなさいの一言を、少年に対して告げたのだった。
いいよ別に、と照れ臭そうに笑う少年の表情は、獣魔族の男にとっても気分のいい表情だった。
魔王の支配下に置かれ、人々の多くが笑顔を失った昨今、こんな無垢な笑顔を見るのも、随分と久しぶりな気がしたのだから。
「すいません、ご招待して貰うなんて」
「いいってことよ、どうせもう今日は予定もねぇ。
うちの娘が迷惑をかけたんだ、ちょっとは休んでいってくれや」
娘がぶつかった詫びに、怪我まで治してくれた礼に、と、獣魔族の男は少年を家に招いてくれた。
外に畑を構える、小さな二階建ての家だ。その居間にて獣魔族の男はお茶を入れてくれて、恐縮気味に肩を狭める少年に差し出してくれる。
どうやらあの女の子は、はっきりとこの獣魔族の男の実娘らしい。
今や魔族と人間が、恋人関係、夫婦関係になることも珍しくない時代だ。
あの女の子が人間であろうことを鑑みるに、彼の妻が人間なのだろうと推察される。
当の女の子は今、二階の寝室でご安静。少年いわく、自分の治癒魔法はそれほど完成度が高くなく、痛みを取り除く応急処置しか出来ていないかもしれず、今日はゆっくりしていて欲しいと訴えたから。
捻挫なんていうものは特に、当日よりも翌日からダメージが現れるのだ。
施した治癒魔法により、ひねったまま放置したよりはいい状態ではあろうけれど、今日は無茶をしない方が明日も不安なく走れるはずだ。
「兄ちゃんは……ああいや、いつまでもこんな呼び方じゃ何だな。
お前さんの名は?」
「えぇと……"リーフ"、って呼んで下さい」
「へえ、可愛いツラに似合った柔らかい名だな。
俺は"キシュロ"だ、呼び捨てでも構わねぇぞ?」
「あはは……」
少年もといリーフは苦笑い。ああ、やっぱり言われるんだなぁと。
十代前半に見られる顔、背丈、体格だとは自覚しているが、実はもうちょっといい年をしているのである。
可愛いツラなんて言われるこの風体、男らしいとはなかなか言って貰えず、彼にとってはちょっとコンプレックスなのだ。
「お前さんは旅暮らしなのか?
見たところ、武器も持ってて旅用の袋も背負ってるが」
「はい。
サイオーグ王国に向かってるところです」
「まさか、一人か」
「はい」
「……余計なお世話かもしれねぇが、魔物や山賊に襲われでもしたら大丈夫か?
見たところ、武器はその木刀だけのようだが。それとも、戦闘用の魔法でも使えるのか?」
「いや、魔法は治癒のものしか……でも大丈夫ですよ?
ここまでの山道でもワイルドボア二匹に襲われましたけど、ちゃんと撃退しましたし」
「……そうか、腕が立つんだな」
ワイルドボアというのは大きな猪のような魔物のことで、非常に凶暴だ。
旅人を襲撃し、痛めつけて動けなくしたら、その肉を食らう魔物である。
肉食ゆえに、人間を見つけた時の積極的な攻撃性は、動物の猪の比ではないのだ。非常に危険な魔物と断言できるだろう。
キシュロは正直、リーフの風貌を見て、訪れた危機を武力で退けられるイメージを持てない。
戦闘用の魔法を使うでもなく、木刀しか持たぬ彼が、肉食の猪を撃退できると主張してきて、その絵が想像できないキシュロの感性は正しい方である。
腕が立つんだなと納得した風な返事を返してはいるが、言うなら言うでこれ以上疑わねぇけど、という程度の返事であり、内心あまりリーフの大言めいたものを信用していない。
「まあなんだ、もう昼過ぎから随分時間も経つし、今日はもう東に山越えするつもりもねえだろ。
夜の山越えは昼以上に危ねぇしな」
「そうですね。
今日はどこかで宿を探して、泊めて貰うつもりでした」
日が沈むまでにはまだ時間があるが、今からこの村を出発して山越えを試みると、とっぷり日が沈んだ頃に山の中にいることになるだろう。
今は中途半端な時間である。東のサイオーグ王国への旅を続けるにあたり、この時間帯に村を出ることは賢明ではない。
「よかったら泊まっていかねぇか?
宿を借りるのにもカネがいるだろ」
「えっ……そ、そんなの悪いですよ……!
そんな、さっきちょっと縁があったからって、そこまでして貰うのはちょっと……」
頂いたお茶を口に含もうとしていたところ、思わぬ提案に驚いた少年は、カップに口をつけるのをやめて、それをテーブルの上に置いて慌てる。
カップが手を離れてからはぶんぶん手を振って、慌てっぷりがより顕著になる。
「別に迷惑かけた詫びってわけじゃねえんだよ。
なんつーかな、その……なんとなく、この村の状況はわかるだろ?
キゲッシュ地方が魔王軍の手に落ちて、まあ随分長いこと経つわけでさ」
「それは、まあ……」
「こんな空気だから、お前さんのように無垢な顔で笑える奴も少なくてさ。
せっかくの村への客人だ。たまには俺も、明るいツラした奴と一夜を過ごしてみてぇのよ。
男手一つで育ててる娘にも、そういう奴と一緒に過ごせる時間を作ってやりてぇ都合もある」
「…………」
男手一つで育てているということは、あの子にはもう母親がいないということだ。
どうしてそうなったのかはわからないところだが、もしかしたらこの村の人々が暗い顔をしている原因そのものが、大切な何かをこの家族から奪っていった可能性だってある。
そんなあんまりな話よりは、まだ夫婦仲が悪くて離婚でもしたのではないかと、不謹慎ながらその方がいいとさえリーフには思えるぐらいだ。
「宿代にあたるものをお前さんが気にするなら、うちの娘や俺と、晩飯でも食いながら喋ってくれるだけでいい。
旅の中で見てきたものを話してくれるだけでもいいよ。
辛気臭ぇツラした村のみんなと、魔王軍の顔色の伺い方を相談するような会話にはもう飽き飽きしてるんだ」
きっと、他意はない。頼み込み過ぎず、強気過ぎず。
要は、元気ある旅人と一夜を共にする程度のことが、閉塞した日々に新しく吹く風になりそうだと思うほど、悪しき支配者に首根っこを掴まれて過ごす毎日が相当につまらない、ということなのだ。
いつ贄に指定されるかわからない恐怖、でかい面して村を歩く横暴な魔王軍へのご機嫌取り、それが毎日。
想像しただけでうんざりだ。
「……キシュロさん、外に畑がありましたけど、農家の人ですか?」
「んん?
まあ、そうだが……」
「じゃあ、日が沈むまでちょっとだけでもお手伝いさせて下さい。
今日はもう予定はないって仰ってましたけど、やろうと思えばやれる仕事はありますよね?」
キシュロのリーフに対する要求とは、少し飛躍した言葉が返ってきたが、それはつまりキシュロの願いを聞き入れたものと取れる。
泊めて貰えるのは嬉しい、でもお話するだけでいいとされるのは安すぎる、だからもう少し何かさせて下さいと訴えるリーフの目は、それこそキシュロがリーフにする以上に"頼んで"いる。
「仕事はあるが、別にいいぞ?
今日はもう、急ぐような仕事は片付けたしな。だから娘と遊ぶ時間が出来てたわけでよ」
「俺、農村育ちだから知ってますよ。
明日に回してもいいけれど、今日やっておけば明日が楽になる仕事絶対にあるはずだって」
子供みたいな顔して押しの強いこと。泊めて貰えるとなれば、働かずにはいられないらしい。
こんな奴はまあまあ少ない方だよなぁと、キシュロも小さく笑ってしまった。
「わかった、じゃあちょっとだけ手伝って貰うとするか。
娘も今日は外で遊べねえし、俺ももうちょっと働くことにしますかね」
「キシュロさんはお休みしてくれててもいいですよ。
言われたこと何でもしますから」
「……かはは」
お手伝いが出来るとわかったら、リーフはいっそう明るい顔になって、気前のいいことを言う。
人の助けになれることがわかって上機嫌になるなんて、そんな奴との出会いは貴重だとさえ言っていい。
面白い奴だな、という感想によるものではなく、少し恭しい目すら浮かべながら、キシュロはもう少し大きな声で笑いたい声を、かすれ気味に発していた。
贄の恐怖になんて怯えなくてもいいあの頃には、キシュロの隣にはこんな人が確かにいたのだ。
自分と一緒に農作業を営めるだけで、愛するキシュロと共同作業をするだけで幸せだと、毎日のように笑顔を見せてくれた女性がだ。
思い出すだけでもつらくなるから、記憶の底に眠らせていたそれが、ある日こんな思わぬきっかけで目覚めることもあるのだから、出会いというものはわからない。
胸の奥がじんわりと痛むのを、キシュロは決して顔には出さなかった。
息苦しく、だけどどこか、ほんの少しだけ温かかった。
忘れた方が幸せなのかもしれないと思ったことはあったけど、やはり完全に捨ててしまうのも寂しくてつらい、そんな思い出に違いないものが彼にはあったのだから。
「キシュロさん、水汲んできましたよ!」
「……なあリーフ、お前は人間だよな?」
バケツいっぱいに水を汲んで、それを両手に持って井戸から元気に駆けてくるリーフを見て、キシュロは苦笑気味にそう言っていた。
別にそんな人間離れしたことをしているわけではないが、バケツに満ちた水を殆どこぼさず、それを両手に持った上で走ってくるこの姿、あの細腕からでは少し想像しづらい。
人間だよな、というのは、お前さんは人間めいた姿をしているが実は何かの魔族なんじゃないか? という意味の問いかけだ。
怪力的な特性を持つ魔族なら、細腕ながらも重いものを軽々持ち上げる、そんな腕力を持っていても不自然ない。
「えー、俺は普通に人間ですよ。
別の何かに見えます?」
「うーむ、そうか。
そんな体つきでそんなにパワフルなんで、気になってな」
「俺もう17ですよ。
水を汲んでくるぐらいの体なんか楽勝で出来ますって」
「あん?」
「うわ、出た、みんなそういう顔するんだもん」
農作業中も気さくに話しかけてくれるキシュロのおかげもあって、リーフも親になつくかのように気兼ねなく話が出来ており、定番の首かしげを見せられて拗ねた声だって放つ。
17歳である実年齢を口にしたら、初対面の人はみんなそんな顔をしてくれやがるのだ。
どう見ても12か13ぐらいだろ、背伸びするなと言われるのが、その次のお決まりパターンである。
リーフは地声がやや高く、声変わりしていない年頃だと無意識に推察されてしまいやすいのも、そう言われる展開に移りやすい一因だ。
「嘘だろ、どう見積もっても……」
「12歳か13歳でしょ、あーはいはいわかってます、もういいです」
「たはは、悪かった悪かった、気にしてるんだな」
バケツを乱暴に置く際に腰を曲げ、そのままの姿勢でじとーっとした目で見上げてくるリーフに、キシュロも苦笑いしながらそう応じる。
睨みつけられても全く覇気がない、そんな顔。
怖くはないが、こんな子供をからかいすぎるのも大人として良くないな、という感情が、自然にキシュロの内に湧き上がってきてしまうような顔である。
「すっごい子供に見えてるんでしょうけど、俺ぜったい本気出したらキシュロさんよりケンカ強いですからね?
あんまり馬鹿にしたら水ぶっかけますからねっ」
「わかった、わかったよ、おっかねえなぁ」
おっかながっている顔ではない。笑えてしょうがない。
ワイルドボア二匹を撃退する腕という自称が本当なら、確かに怒らせると怖いのかもしれないが、いちいち言うことも小物臭くて子供っぽい。
そのくせ脅し文句が、殴るぞとかぶっ飛ばすぞとかじゃなく、水ぶっかけますよではトゲもない。
真剣な顔して子供みたいなことを言うこの少年を、どう間違えたら怖がれるというのだろう。
「えーと、それじゃあ次は肥料を持ってきて貰おうか……と思ったけど、クセェのは嫌かね」
「全然大丈夫ですよ。
田舎で何度もそういうの運びましたから」
「そういや農村育ちっつってたな。
そんじゃあっちにしばらく行ったところに溜め場があるから、そこでバケツ……んん?」
具体的に言い過ぎると鼻が曲がりそうな話題を、農家経験者二人がオブラートに語らう中、キシュロがふと話の腰を折ってまで首を回す。
頭の上にある耳がひくひくと動いている。何らかの音を拾い、それを気にしている仕草だ。
「どうしたんですか?」
「いや……ふーむ、何だろうな。
どっかから楽団でも来たのかね。ちょっと聞き慣れねえ音がする」
言われてからリーフも耳をすませてみたが、確かにちょっと変わった音がする。
具体的には、何らかの弦楽器を鳴らすような音だ。加えて言えば、そこに綺麗な声が乗っているような気もする。
弦がはじかれて立つ音色の主張が強く、歌声らしきものは音源が遠いのかはっきり聞き取れないが、離れた場所で誰かが弾き語りをしていることが想像できる音だ。
「こういうの、珍しいんですか?」
「今のこの村はこういう雰囲気なんでなぁ。
こんなジャカジャカ音鳴らして歌うような奴はなかなかいねぇよ。
魔王軍の連中にうるさいって言われた時の面倒さも意識するわけだしな」
音楽すら気楽に楽しめない環境なんて最悪そのものだ。
だが、これが悪しき者に支配された地においては全く珍しいことではない。
つまりキシュロの言うとおり、遠くてもはっきり実在を知らしめるほどの音をかき鳴らす音楽家の存在は、逆にこの村において珍しい出来事と言える。
「ちょっと見に行ってみるか?」
「お仕事、どうしましょう?」
「どうせ今日は、元は何もしない予定だったからいいよ。
せっかくだし、見に行ってみようぜ」
興味が勝った二人は、一応の相談が答えの確認ぐらいにしかならず、音の出所に向かって歩き出すリーフとキシュロの姿がすぐ叶う。
ややどんよりしたこの村に、突如吹いたもう一つの活気ある風。
今日は面白そうな来訪者が多いなと、少し楽しみそうなキシュロの横顔が、リーフにとっては見ていてなんだか心地よかった。
リーフから見た初対面のキシュロは、やはり魔王軍の支配下に置かれた人々よろしく、普通の顔をしていてもどこか陰があった。
ちょっとした、普段と違う刺激や楽しみに、内心心躍らせて歩いているキシュロの顔からは、いくらかその陰が祓われている。
それが、リーフとの活気ある語らいという通過点あってのものだとは、まさか彼自身も思っていないのだが、ともかく少しずつ顔色を明るくしていく人の横顔は、リーフも見ていて気持ちがいい。
リーフは、今から向かう場所で、キシュロが楽しんでくれたらいいなと思っていた。
まさか今から向かう場所での出会いが、キシュロにとってではなく、自分にとって途方もなく大きなものになるなんて、今の時点でリーフは想像もしていなかった。