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चंद्र讚歌 -La L'inno per il Candra-

調香師

作者: 関ひだり

 私の恋人は調香師(プロフミエラ)だ。彼女の名前はナタリナといった。私が彼女と初めて出会ったのは数ヶ月前のことだった。彼女はまちの香水屋で働いていた。その店は大通りに面していたが、あまり繁盛している風ではなかった。私はというと、単なるビジネスマンとして働いていた。大勢の中のひとりの会社員として、漫然と日々生活していた。その日、私は朝から上司の機嫌を損ねて理不尽に叱責され、休憩時間に外に出て、暗い気持ちでまちをぶらぶらしていた。そのとき偶然この香水屋を発見した。店先の看板には次のような文言が記されていた。

 『あなたにぴったりの香り あります』


挿絵(By みてみん)


 正直に言うと、私は香水にはほとんど興味がなかった。しかし、この看板の文には何故か惹かれた。心なしか好い香りが漂ってくる気がした。

 『あなたにぴったりの香り――』

 次に気が付いたとき、私は店の中にいた。室内はこぢんまりとしていて、壁一面に棚が設けられており、それぞれに形の異なる色とりどりの小瓶が隙間なくびっしり並べられていた。ホールの天井からは、不釣り合いに大きなシャンデリアが吊り下げられ、瓶一つひとつに淡い光を投げかけていた。

 「ごきげんよう」

 不意に声がして、私は思わず一歩後退りした。入り口と反対側の棚の一つがゆっくりスライドして、奥の間から一人の美しい女性が現れた。暗いボルドーの細身のセーターの上に、白衣をゆったりと羽織っている。長い黒髪を右側でまとめて三つ編みにしている。

 「何かお探しですか?」

 「あー……」

 私はもともと香水を買い求めに来たわけではなかったが、そう答えるのはあまりにも失礼だと考えた。

 「表にあった、『ぴったりの香り』というのは……」

 「あなたの今の姿に最適な香水を選んで差し上げる。そのままの意味です」

 微笑みながら、女性は棚に沿って移動し、ちょっと考えてから青の小瓶を手に取った。

 「例えば、」

 すっと私に近付いてきて、私の手首を取った。それから、瓶の口を開け、液を一滴、手首に落とした。途端に辺りに素敵な香気が漂った。南の海の底のような、真っ青な香りだった。母なる海の中で、たった一度の理不尽さに憤る己の矮小さに気付き、悪い気分が内側から溶け出していくようだった。

 「いかがでしょう」

 白衣の女性は瓶の口を閉めながら私に問いかけた。私は晴れやかな笑みを浮かべ、

 「素晴らしいよ。本当に今の私にぴったりだった」

 「そうでしょう。それがこの店の売りですから」

 「是非買い取らせておくれ。いくらだい?」

 「お代は結構ですわ」

 「何だって。しかし……」

 「その代わり、」

 女性は指を一本立てた。

 「あなたの思い出を聞かせてほしいのです。明日またここにいらして、お話ししてくだされば」

 「それは、」

 私は、この意外な提案に驚きつつ、

 「お安い御用だ」

 あっさりそう答えた。

 白衣の女性は青の小瓶を包み、私に手渡した。

 「ごきげんよう」

 彼女の声に送られ、私は店を後にした。



  ***



 次の日、私は約束通り再び香水屋を訪れた。女性は棚の前にいて、入店した私を振り返って微笑んだ。

 「ごきげんよう」

 お待ちしていましたわ、と彼女はお辞儀をしてみせた。

 「昨日の香水代の代わりに、私の思い出を話せば良いのだったね」

 「そのとおりでございます。わたくしは、ひとの思い出を聞くのが好きなのです。」

 折角ですので座って寛ぎながらお話しませんこと、ナタリナは奥の棚をスライドさせ、私を手招きした。私はそれに従って奥の間へ這入っていった。

 そこはちょっとした応接間のようだった。それにしては若干豪華すぎるとも思った。部屋の中央に控えるテーブルは大理石で出来ているようだったし、両脇のチンツ張りのソファは見るからに座り心地が良さそうだった。足元には毛足の長い絨毯が敷かれ、天井からは店のものより一回り大きく豪奢なシャンデリアが下げられていた。テーブルの上には白い瓶が一つ置いてあった。壁際には表の店のように棚が取り付けられていたが、店と異なって瓶の数は少なく、むしろ空白の方が多かった。

 「どうぞおかけくださいまし」

 促されるままにソファに腰掛けた。ナタリナは私と向かい合って座った。

 「さて、あなたはどのような思い出話を聞かせてくださるのかしら」

 彼女は楽しみで仕方がないといった風に顔を輝かせていた。私は昨晩から用意していた思い出を語り始めた。

 「私が今よりも若く、学生だった頃のことだが、休暇に外の国へ旅行に行ったときに――」



  ***



 私は語り終えた。ナタリナは聞き上手で、ここぞという時に最適な相槌を打ったり、身を乗り出したり、口に手を当て息を呑んだりと、話していて大変に気分が良かった。

 「……以上が、私の思い出の一つだよ。どうだっただろうか」

 「素晴らしかったですわ。まるで当時の情景が目の前に浮かんでくるみたいで」

 ナタリナは夢見るように言った。

 「このままずっと聴いていたいくらい……」

 「え?」

 ソファから立ち上がろうとしていた私は動きを止めた。彼女はしばらく思案するように虚空を見つめていたが、やがて私の顔を見て言った。

 「もし、もし迷惑でなければ、明日またここに来てわたくしにお話をしてくださいませんこと?」

 私は少なからず狼狽えた。今日彼女に話したのはあくまで昨日の香水の代金として、だった。明日もここで話す義理は無かった。しかし、美しい女性を前にして思い出を語るうちに、私の心の中で何かが芽生えたような気もして、それを理由に明日もここに来て良いかなと思い始めた。

 「いいでしょう。また明日ここに来て、別のお話をして差し上げよう」

 すると彼女は嬉しそうに、

 「ありがとうございます。この上ない幸せですわ」

 煌めくような笑顔を見せ、私は心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚えた。

 棚の扉から出る時、私が振り返ると、ナタリナは手を振ってくれた。何故か、彼女のもう片方の手には黄色の瓶が握られていた。



  ***



 私の恋人は調香師(プロフミエラ)だ。彼女の名前はナタリナといった。しかし、もうそれ以上のことは思い出せない。あの翌日、私はまたあの店を訪れた。確か何か思い出を語った気がするのだが、内容が全く思い出せない。さらに、ナタリナが恋人になった経緯もさっぱり覚えていない。一緒に出掛けたこともあるが、どこでどんなデートをしたのか、それも綺麗に忘れている。唯一わかるのは、私と会うたびに、応接室の棚に色とりどりの瓶が増えていくことだった。

 それでも今日も私は彼女に会いに行く。香水屋のドアを開けるとナタリナが幸せそうに私に問いかけてくる。

 「今日はどんなお話を聞かせてくださるのかしら」



…La Profumiera


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