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062.失踪

「上村くんが……失踪?」

「……らしくねえなあ」

「いやいやー、あたし先生が何言ってるか理解できねえですぜ」


 翌日、誠が学校を休んだ。あの空気を読めないほど真面目で、たとえインフルエンザにかかってしまったとしても盲目的に登校してきそうな誠が、である。


「うーん……あれだな。お前ら、ずいぶんと仲良くなったものだな。結構なことだ」


 しとしとと梅雨の雨が降る昼休み。誠を除いた三人で昼食をとっていると、突然僕たちは全校放送で職員室に呼ばれた。羽織先生が言うには、どうやら誠の家からは欠席の連絡が来ておらず、その上学校にも来ていないということらしい。それについて羽織先生に聞かれた伊月のわざとらしいリアクションに対して、僕と柳井が冗談めかしく言い返したところだった。


「それは……そうだな……あれだ。私は担任として真面目に聞いているんだがな。まあ……そうだな。柳井の言う通り、上村がサボりなんて私にも理解できんが」

「上村くんも意外とおばかさんなところあるんだねえ」

「そうね。さすがにこれは愚かとしか言えないわね。友達としてなら、なおさらよ」

「お前ら手厳しすぎな」


 まあ、確かに二人の言う通りこれは意外すぎる誠の愚かな面だ。確かに、昨日の試合は誠のエラーで負けたかもしれない。だけど、あの名門の黒工相手にあそこまでの試合をした。それでなくても、四十二年ぶりの野球部の快進撃だったのだ。だから、自分のエラーなんて気にせず、しっかりと胸を張って帰ってくればよかった。


 それなのに、あいつは何を思ったか学校をサボりやがった。僕たちだって、無責任に胸を張って帰って来いなんて思っていない。しっかりと各々の感謝を伝えて、言いたいことを言って、励ましてやるつもりだったのに。伊月の言う通り、友達として言うならなおさら誠のことは愚かだとしか思えない。


「つまり……あの……あれか。キミたちも上村については何も聞いていないと、そういうことか」

「ええ、何も知りません。私たちにも青天の霹靂です」

「おお、凛ちゃん難しい言葉知ってるねえ」

「普通にいきなりありえん、ビビったって言えよな」


 本人に言ったら怒るだろうけど、伊月ってお嬢様の仮面を拭い去ってもそれでもなお育ちの良さを感じさせるときがあるんだよなあ。星洋のあのクソダサ体操服着ても拭い去れない高貴さを持ってるほどの方だし、致し方ないですけどね。


 羽織先生は僕たちの返答を聞くと、一つ大きなため息をついてその残念な膨らみを強調している胸ポケットから赤白のパッケージのタバコを取り出し、年季の入ったジッポで火を付けた。羽織先生のその日のストレスが一目で分かる灰皿バロメーターは、今日は中盛り程度だが、それでも最近の中ではかなり多いほうだった。


「先生。もう私たちの前で吸うなとは言いませんけれど、本当に体に障りますよ?」

「タバコは百害あって一利なしですぜ、せんせー」


 ものすごくタイムリーなことに、昼休み前の四時限目に座学となった保健体育でタバコの弊害の話を聞いていたため、二人はいつも以上に羽織先生を心配しているようだ。ちなみに僕は先生のタバコについてはもうあきらめている。


「そうか……そうだな。四時限目は保健の授業だったな。まあ……あれだ。上村の奴が普通に来てれば、タバコが増えることもないさ」

「ねえねえ、ところでせんせー聞いていいですか?」


 柳井は相変わらずの冗談っぽい口調で問う。


「上村くんって、今回の大会で甲子園に出たいとか、何か甲子園にこだわってたことってあるんですか?」


 これは経験上の話だが、柳井が誰かに質問するときは百パーセント何かの核心に基づいている。野外活動の時に伊月が元のお嬢様状態に戻った理由を探る時も、体育祭で佐伯先輩が脅迫状の犯人じゃないかと推測していた時もそうだった。おそらく今回も、これまでの冗談っぽいやり取りや経緯の中で、柳井の中にはすでにこの問題の答えにたどり着きつつあるのだろう。


「あー……そうだな……いや。確かに最近、甲子園を目指そうと三年生に働きかけるようなことはあったかもしれん」

「ほうほう、なるほどなるほど」

「……柳井、もしかしてもう何か分かったことがあるのか?」


 もう何度も経験しているとはいえ、解答を出すまでの音速っぷりにさすがの僕も呆れた口調になってしまう。


「そうだねえ。上村くんが一番嫌うのは、自分が約束を守れないことだからねえ」

「そうか……なるほど。あいつはキミたちに甲子園に出るようなことを言っていたのか」

「いえ……そんな話をした覚えはないですけれど」

「せんせー、そうじゃないですよう。あたしたちとそんな約束してないから聞いたんですがな」


 羽織先生は柳井の返答を聞くと、普段から不機嫌そうなぬぼっとした瞳をさらに曇らせ、いぶかし気に何かを考える様子で、すぱすぱと吸っていたタバコの火を消した。


「あの……すみません。羽織先生に御用があって……」


 その一瞬の間を縫うように、不意に僕らの背後から声が飛んでくる。振り返ると、綺麗な黒髪をおさげにして、なんだかほんわかとした雰囲気の、とても可愛らしい小柄な女生徒が立っていた。


「ああ……誰だ……そうだ。三浦、いきなりどうした」

「あ、あの……誠くんのことですけど……後にしたほうがいいでしょうか?」

「ああ……そうだな……構わん。三人は私のクラスの、上村の良い友人だ」

「三浦さーん! お久しぶりですねえ」

「あ、麗美ちゃん。昨日は見に来てくれて、ありがとう」

「いやーあたしこそリンクでしか連絡できなくて、ごめんなさいですよう」


 三浦先輩はひとしきり柳井と会話を交わしてから、僕と伊月を交互に見て、ぺこりと小さく頭を下げてから続けた。


「野球部マネージャー、三年一組の三浦則子(みうらのりこ)です。いつも誠くんの相手をしてくれてありがとう。あ、マネージャーって言っても、もう『元マネ』なんだけど……」

「あ、はい。どうも瀬野です」

「伊月凛です。昨日はとてもいい試合でした。とても楽しかったですよ」


 でた、伊月のお嬢様スマイル。伊月ってよそ行きのお面をかぶるとほんとに非の打ち所のないお嬢様なんだよなあ。何か野球部が負けた系の話題になって一瞬空気が重くなったのを、とっさの気遣いですぐに掻き消しちゃったし。まあ、ひとたび気を許すととんでもない女に変貌するんだけどね。


「あ、ひょっとしていつも誠くんとお昼ご飯を食べてるみんなかな?」

「そうなんですよう先輩。あたしたちも誠くん(・・・)のことが心配で心配で」


 うわ、今なんでか知らないけど柳井が誠のこと誠くんって言った。しかも強調して。別にどうでもいいけどなんか気持ち悪いなあ。てか、なんかすでに嫌な予感がするなあ。やっぱり柳井って怖いなあ。伊月もちょっと引いてるよ柳井さん。


「それでちょうど先輩に聞きたかったんですけど……先輩って、誠くん(・・・)と甲子園に行こう! みたいな約束ってしました?」


 なんで甲子園に行こう! のところで誠の物まねしたんだ柳井。微妙に似てるところが何か腹立つわー。


「うーん……そんな覚えはないかなあ」


 三浦さんの返答を聞いて、柳井はにひっと気味の悪い笑い声を上げた。あー、これ完全に何かのスイッチが入った。その表情はほんとに、仮にも可愛らしい高校二年生であるあなたがしていいものではありませんことよ。マジで怖い。


「本当ですか? 誠くんがこうなるなんて、それ以外ありえないんです」


 相変わらずの低音ボイスはやっぱり気味が悪かったけど、柳井の言いたいことがなんとなく分かった。いや、柳井はいつも僕の想像の百段くらい上を行くから、まだ全部は分かってないのかもしれないが、今この場で柳井が言いたいことくらいは分かる。


 そもそも、誠が約束を守れずに登校できないほど恥ずかしく思う相手なんて、数が限られているのだ。普通であれば、誠は素直に約束を守れなかったことを謝るくらいの誠意は持ち合わせている。それほどの男が学校に来れないほどになるなんて、もともと僕ら三人に対する約束か、あるいはその想い人である三浦先輩との約束以外にありえないのだ。いや、逆に誠なら、むしろその当日に僕らの家を飛び回って謝りに行くまである。


 だから柳井は、三浦先輩と誠がそういう約束をしているんじゃないかと踏んで、例の薄気味悪いスイッチが入ってしまっているのだろう。だけどさ。


「ひっ……ごめ、ごめんなさい柳井さん! わ、わたし何か悪いこと言った!?」


 そりゃそうだ。羽織先生は感情が薄いし、伊月は気が強い。野村先輩は誰もが認めるカリスマだ。この三人が変なだけであって、普通の女が柳井にこの表情とこの声を向けられたら、びっくりして取り乱してしまうに決まっているだろう。なんか僕の周りにはぶっ壊れた女しかいないせいで、三浦先輩のことが三倍増しくらい可愛く見えちゃうじゃんか。


「やめんか柳井。お前のその悪い癖は何とかならんのか」


 ほら、羽織先生が日本語をすっと出すくらいの一大事になってるじゃん。もう見る人が見たら、確かに意地悪してる様にしか見えないもんね。


「あ、あの……」


 三浦先輩は、涙目になりながら恐る恐る柳井に言葉を返す。


「誠くん、おばあちゃんと約束してたんじゃないかなあ……三人は、誠くんの家のこと知ってるの?」


 一瞬前までどす黒い表情に染まっていた柳井の顔が、今度はあっけにとられた様子に変わっている。そんな柳井が僕たち二人に視線を向けたので、僕たちは首を横に振った。


「三浦、それまでだ。この話は勝手にしちゃいかんはずだ。やめておけ」


 羽織先生はまた、悩む様子もなくすぐに言葉を紡ぐ。それだけ誠の家庭の話に、大事な何かが隠されているのだろうか。


 中途半端な沈黙が訪れたところで、五時限目の始業五分前のチャイムが鳴ったため、僕たちはムズムズした気分のままに年三組の教室に戻っていったのだった。その途中、また柳井がにひっと笑う声がしたような気がしたが、きっと気のせいだったと思いたい。

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