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058.はじまりの鐘

「あの……あれだよ。私には虎の血が流れている。そして……あれだな。私には猛る虎の魂が宿っている」

「何の話すか?」


 羽織先生は例によって遅れて出てくる日本語で教卓の前の席の松尾に語り掛けながら朝のホームルームを進めるが、今日の先生は冒頭から意味不明なことを言いだした。


「そうか……あれだな。若者の野球離れはそこまで深刻なのか」

「野球の話すか? 誰も分かんないすよ」


 先生は松尾の返答を聞くと、大きなため息をついて話しを続ける。


「ああ……あれだ。野球の話題において猛る虎の魂と聞いて連想されるのは甲子園だろう」


 僕もプロ野球についてはあまり詳しいクチではないのだが、確かに関西の虎がシンボルの某球団の本拠地は甲子園だったと思う。しかし、朝のホームルームで話さないといけないほど重要な話なのだろうか。


「もう……とても……あれだよ……残念だ。昨日で十連敗、もう今年のペナントは終了したと言ってもいい」


 プロ野球って確か十月くらいまでやってたよな。なのにもうあきらめるとか、どれだけ弱いんだよ羽織先生の好きな球団。要はこれまで負け続けたチームに耐えてきたけれど、ついに堪忍袋の緒が切れてホームルームの冒頭で僕らに愚痴っているだけなのだろうか。なんかプロ野球本気で応援してる人ってチームの勝敗によって次の日のテンション決まるらしいし。誠も一年生の頃は、関東が本拠地で新聞社傘下の大人気球団の勝敗でその日のテンションが決まってたしな。


「先生すみません、本題に入ってください」


 なぜか誠いきなりが先生に進行を促し、羽織先生もはっとした様子で我に返る。


「いや……違うな……そうだな。プロ野球の話はどうでもいい。甲子園の話だ」

「それ話変わってなくないすか?」


 相変わらずの傍若無人な態度で語り掛けられる松尾が返す。


「ああ……あれだ……あれだよ。高校野球の話だ。君たちも知っている通り、私は野球部の顧問で監督なんだがな」


 そういえばそうだったな。羽織先生は物理教師で野球部監督でヘビースモーカーという、肩書だけ見ればほぼ男性教諭としか思えないのだが、その実はいつも死にそうな顔をしている華奢で小柄で、胸部装甲まで貧相な女性教諭なのだ。ほんとどうやってノックとか打ってるんだろう。今度柳井の推測でも聞いてみるか。いや誠に直接聞けばいいか。


「それで……あれだ。今週の木曜日、我らが星洋高校野球部は夏の大会初戦を迎える。そのため……あいつだ……そうだ。その日私と上村は公欠だ」

「ああ、今年もそんな時期すね。今年は何対ゼロで負けるんすか?」

「松尾くんそれ言い過ぎ、つまんなーい」

「あなた、ほんとに少しも空気読めないのね」

「え? なんで柳井と凛ちゃんに怒られなきゃなの?」


 まあ今のは僕もちょっと怒りたくなった。いくら松尾が天然で馬鹿で、いくら星洋野球部が弱かろうとも、一応誠が所属してる部なのだ。それをそんな風に言われれば、二人がいきなりキレた理由も分かるさ。まあ去年は確か初戦、しかも十六対ゼロのコールド負けで誠がバカみたいにへこんでたけどな。


「まあまあ、俺らが弱かったのは事実だし言われても仕方ねえよ」


 すかさずフォローを入れる誠。今のはほぼほぼ松尾が悪いんじゃないかって思うけど、それでもしっかりフォローを忘れないあたりクラスで一番の信頼を集める男としての器の大きさがうかがえるな。まあ、そうでもできる奴でないとゴリゴリにリスクヘッジで尖ってた頃の僕の信頼なんて、勝ち取れるわけないだろうさ。


「ああ……そうだな。上村の言う通りだ、批判の類は受け入れよう。だが……しかし……あれだ。こんな星洋野球部も四十二年前に一度だけ甲子園に出たことがあるんだぞ」

「それって星洋七不思議のヤツじゃないすか」

「いや……違う……あれだよ。生徒手帳の年表を見てみろ。事実だ」


 一応誠に関わることでもあるし、何より羽織先生が自信満々に事実だなんて言うので、その他大勢の生徒同様に胸ポケットから生徒手帳を取り出し、結構いい成績を残したんじゃないかと期待を胸に年表をチェックする。するとご丁寧にこう記載されていた。


『一九××年 八月 野球部、夏の甲子園大会に初出場。一回戦、帝東高校に〇対二六で敗れる』


我が野球部は弱小らしく、逆に期待通りの初戦大差負けを決めてしまっていたようだ。まあ、たぶん世の中の高校で甲子園に出たことのある高校のほうが少ないのだろうから、弱小野球部にとってはそれでも勲章みたいなものなんだろう。てか帝東高校って僕でも知ってるスポーツの超名門校じゃん。よくテレビの特番でナントカ魂って叫んでるところだったと思う。そりゃ負けるわ。大差で。


「おい……お前ら……あれだ。静かにしろ」


 おそらくほかの生徒たちも色々と思うところがあったのか、教室中がざわざわしだしたので、羽織先生が注意する。二年三組はやっぱりいい子が多いようで、すぐに教室が静まり返った。


「話が……あれだ……そうだ。脱線したが……そう言うことだから木曜日は私が不在でもしっかり勉強すること。それと……あれだよ。木曜日の私の授業だが、代わりに松葉先生が担当される。失礼のないように」


 うわあ、あの人この教室に来るのか。伊月と柳井以外の生徒の反応が見ものだな。バカ松尾とかいつも居眠りしてるけどどうするんだろうね。ほんと他人とかどうでもいいけど、こればっかりは気になるな。てか柳井なんてすでに顔面蒼白して不自然な笑顔で固まってる。ほんとに苦手なんだろうな、松葉先生のこと。


 さて。ホームルームが本題に戻ったところで、僕もこの日のことを振り返ることで本題に戻ろうと思う。


 この時の僕は、朝の四人での写真のやり取り、そしてホームルームでの唐突な野球の話題が壮大な前振りになっていたことに、全く気付いていなかった。僕に柳井並の思考能力があれば気が付くこともできただろうが、残念ながら僕にはあの悪魔じみた計算能力は備わっていないのだ。


 いや、今回ばかりは柳井にすらこの展開は読めていなかったのではないだろうか。何故なら、今回の物語は星洋高校野球部史上、甲子園に出場した四十二年前の夏以来二番目の快進撃があってこそのものだったからだ。


 二年三組の教室中が松葉先生の風貌に戦慄したその日、野球部は十九年ぶりの初戦突破を決めた。木金土日月と曜日は巡り、迎えた火曜日の二回戦も突破、さらにその次の月曜日、三回戦突破。さらにさらに、その次の木曜日には何と四回戦も突破し、なんと野球部はその甲子園に出た年以来、四十二年ぶりの県ベストエイト入りを決めたのだった。


 その間、ことごとく物理の授業が野球部の試合と被ったため、『代打・松葉先生』に怯える、柳井を含めた大半の二年三組生徒は野球部の負けを本気で願いだしていたが、快進撃の渦中にいる羽織先生と誠がそんなこと知る由もなかった。


 まあ、そんなことはどうだっていい。この時にはすでにまた出来の悪いラブコメみたいな学校生活が、着々と僕周りの関係性を包囲し始めていたらしいことのほうが大切だ。いや、今回ばかりはこれを出来の悪いラブコメなんて言ってしまったら失礼に値するだろう。


 ここまで言ってしまったわけだし、今回もいつだかのように結論から言ってしまおう。これから僕の目の前で展開された日常は、たぶんあいつの甘酸っぱい青春で、あの人のほろ苦い決断で、僕とあいつらの関係性にさえ変化をもたらす最初のきっかけになった出来事で、その全てのはじまりの鐘を鳴らしたのが野球部の快進撃だったわけだ。


 それからの日々、つまり各々が人生の岐路に立ったその一挙手一投足を、風化した化石のようなラブコメディだなんて言う奴を、僕は絶対に許すことができない。そう思っている以上、これから始まった僕たちの日常は、質の悪いマンネリ化したラブコメディと比肩されてはならないのだ。

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