054.柳井に感謝しとけよ
今年の体育祭実行委員の活動において学んだことの一つに、時間の流れの速さと忙しさは比例する、というものがある。火曜日に生徒会と出店の予算の話し合いをしてから、まさしく嵐のように時間は過ぎていった。通常の学校の授業プラス下校時刻ギリギリまでの会場設営というある種の二重生活の所為で、気が付いた時にはその設営すらも完了し、もう体育祭前日の金曜日、それも下校時刻の三十分前まで迫っていた。
「よし。お疲れ様だった。これで体育祭の会場設営は完了したってわけだ」
伊月と松葉先生、そして僕を含めて十三名からなる体育祭実行委員が、トラック競技のスタートライン、ちょうど大会本部の目の前の場所に集合している。消極的参加者だったよそのクラスの委員たちも、それなりに充実したようで、仲間をたたえあったり、達成感に満ちた笑顔をしていた。君たちの業務の半分くらいは僕たちが肩代わりしたんだけどね。まあそんな水を差すようなことは発言すまい。
「それじゃ、委員長一言頼む」
「……松葉先生。まだ何も終わっていないのだけれど……まあいいでしょう。当日運営班の瀬野くんを始めとした四名以外は、明日は通常通り体育祭に参加すると思うので、私たちが中心となって盛り上げましょう。皆さん、ここまで本当にありがとうございました」
伊月の発言に送られる、これまでにないほどの音量の拍手が、実行委員会としての達成感を象徴しているように感じる。そして、そんな達成感もまばらに、実行委員の生徒たちは各々解散し、教室へ戻っていった。
「まあ、いろいろあったけどとりあえず明日だな」
特に意識せずとも隣り合って校庭を歩き始めたので、なんとなく伊月に声をかけてみる。
「……正直なことを言えば、よ。やっぱり今回の体育祭については不満ばかりが募るわね」
「応援団もなくなれば出店も普段より少ないしな」
「あとは誰かさんが誰かさんと喧嘩したって噂も立っているようね。噂ではなくて事実なのだけれど」
「……悪かったよ」
悪態をついた僕に、ふふっと小さく笑う伊月。いつの間にか、学校の正門を出て駅前につながる大通りへと出ていた。普段は縦に並んで会話も少なく歩くのに、今日は何故か隣り合ったまま歩いていた。
「それに、応援団復活へ向けての話し合いを受け持つ時間もなかったし、斎藤くんの言う通りやっぱり地域の方の盛り上がりに欠けていると思うのよね」
「それは仕方ないんじゃないか? やっぱ応援団がなくなるってのはな」
あろうことかこの僕が、校内一の美少女にして大企業の社長令嬢と、対等に会話をしながら肩を並べて歩いている。ふと、初めて伊月とすれ違ったあの日のことを思えば、だいぶ遠いところに来てしまった気がしてしまう。
羽織先生の言葉を借りるなら、これが成長だってことだろうか。だけど、僕自身は伊月個人とはそこまで関係を深くするつもりはないし、事実、柳井と喧嘩した後に電話で話したあの日、柳井との関係が深化する機会はあったが僕はそれを拒否した。僕は誠も含めた四人でいる時間は気に入っているけど、別にそれ以上のものを欲しようとは思っていない。そう言った意味では、成長したなんて偉そうなことは言えないと思う。あのころから変わったのはただ一点、リスクヘッジを逃げの言い訳に使うのをやめただけだ。
「……ねえ瀬野くん。聞いているのかしら」
「え、何?」
「私の話を無視するなんていい度胸じゃない?」
「無視はしてねえ。考え事をしてたんだよ」
「ある意味無視より酷い仕打ちね。まあいいわ」
あれ、もう少し罵詈雑言の嵐を受けるものだと思っていたけどそんなことなかったな。それにいつもよりちょっとだけ笑顔が多い気がする。もしかして伊月さん、意外と機嫌がいいですか?
「それで、何を考えていたの?」
「別に大したことじゃねえ」
「そうよね。夜道で私と二人きりなんて、普通の男の子ならやましいことを考えても仕方ないわよね」
「……仮にもこの僕がそんなこと考えると思う?」
「それもそうね」
伊月は言い終わるとまたふふっと笑う。
おいおいマジかよ。あの伊月が饒舌で冗談を言って笑ってるなんて信じられないぞ。こりゃ伊月さん、本当に機嫌がいいんじゃないの?
「そもそもなんでお前はそんなにご機嫌なんだ?」
「……べ、別にそんな機嫌よくなんかないわよ?」
はい、それなんてツンデレ。よくそんな風化したテンプレみたいなリアクション取れるな。
てか、いつから僕はこう、伊月の機嫌なんてものが分かるようになってしまったんだろうか。どうやら知らない間にかなり深みにはまっていたらしい。
だけど、考えてみれば当然だ。僕はこの一か月以上の実行委員の期間中、僕は伊月と苦楽を共にしてしまったのだ。
何が四人の時間以上のものは欲していないだ。僕はもう、伊月の感情を分かってしまうほどに関係を深めてしまっているではないか。
どうしてこうなった、と切に思う。そもそも僕が伊月と一緒に東奔西走する羽目になったのは、柳井にできるだけ伊月に協力するように言われたからだと記憶している。あの女、僕が気づかないうちに伊月との関係性を深めるように、すでにあのタイミングで仕向けていたようだ。つくづく、僕の脳みそが肩から下げる鞄よりも大きな携帯型電話でできているとしたら、あいつの脳は最新型高性能スマートフォンくらいか、それ以上の処理能力を有しているらしい。
「……柳井に感謝しとけよ」
だけど、あいつがそうしてなかったら、今回の体育祭はもしかしたら成立していなかったかもしれない。それだけ、僕と伊月、そして松葉先生の実質三人で回していた実行委員は、ギリギリのバランスで成り立っていたと思う。
「当然よ。あなた、本当に瀬野くんよね?」
「またド忘れかよ」
「ド忘れしたくもなるわよ。あなたが他人に気を遣うなんて」
言われるまでもない。僕が他人に気を遣うなんて。そして、この伊月と並んで歩くこの時間を、言いたいだけ愚痴をこぼして皮肉交じりに話すこの時間を、心地よく思い始めているなんて。本当に、最近の僕はどうかしていると思う。
「……いろいろあったけれど、やっぱり明日が楽しみなのよ」
「そうか」
少しの沈黙の後、伊月は先ほどの僕の問いかけに答えた。本番が楽しみで機嫌がよくなるなんて、意外と子供っぽいところあるじゃないか。
「……お父さんやお母さん、それに兄さんだけど、多分明日は見に来ないと思うわ」
「あ? なんでいきなりそんな話になるんだよ」
「あなたの辞書にデリカシーって単語はないのかしら」
「……はいはい、そういうことね」
たぶん伊月が言いたいのはこうだ。伊月のオヤジさんは伊月のことを何かの装飾品だとしか思っていないと言っていた。だから、伊月が何をしようと伊月自身に星洋高校卒業、名門大学進学という肩書が得られればそれでいいのであって、体育祭実行委員をしようと、史上最高の大成功を収めようと、そんなことはどうだっていいのだろう。
そして、今僕がこのタイミングにそれを気付いたということは素手に柳井だってそれを見抜いていて、結局僕はこの体育祭実行委員の活動中ずっと柳井の手の中で踊らされていただけってことになる。あいつはいつだって、僕が気づいた時にはすでに取り返しのつかないことになるようにことを仕向けるのだ。野外活動の時だって、結果的にそうだったじゃないか。
「分かったならいいわ。だから、私はこの体育祭を最高のものにして、見に来た人たちを最高に楽しませて、見に来なかったことを後悔させたかったのよ。いつかあなたに話した、純粋にいい体育祭にしたいって言う話はもちろん前提だけれど、百パーセント純粋っていうわけじゃなかったのは……そうね。謝るわ。まあ、今さらどうしようもない話よ」
考えてみれば当然だ。何が応援団を介した父親に対する復讐だよ。そんなみみっちくて意味のないこと、こいつがするわけないだろう。そんなの、伊月のプライドが許さないはずなのだ。そんなことするくらいなら、体育祭実行委員になんて立候補しないだろう。
だが伊月、お前は一つだけ間違ってる。お前のことは何度か励ましてやったから、最後にまた一つだけ言っておこう。
「お前な、明日の体育祭はまだ始まってないだろ。誰も伊月の体育祭を経験してないんだ。そんなことはやってみなきゃ分かんねえよ」
あー、やっぱりなんか背中がかゆいしほっぺが熱い。こういう話をするとき、決まって暗がりにいたりして伊月に表情を読まれないのには、本当に助けられてるなあ。
「……悪かったわね。あなたの言う通りよ。こんなんじゃ、いくら瀬野くんとはいえ失礼よね。松葉先生にも。あれだけやって、体育祭がうまくいかないなんてのも考えにくいわね」
そうそう。お前は何の根拠もない自信を持って鼻高々にしているくらいが丁度いい。
「ま、僕は明日何の競技にも出ないけどね」
「そうね。当日の仕事も積極参加でお願いするわ」
「おう任せろ」
他愛もない話をしながら伊月と下校する。二ヶ月前の僕が見たら生命の危機に瀕するほどショックを受ける光景だろう。
だけど、伊月と二人でいることに感じ始めた多少の心地よさが。
心のどこかで感じる、柳井に対する感謝の念が。
もしもこれが出来の悪い、それこそ使い古されたテンプレートのようなラブコメであるならば。
この二人のヒロインたちとの僕の関係性は、この体育祭で確実により深いものに変わっていた。




