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051.人間のクズ

 無機質な封筒に、ドラマに出てきそうな新聞を切り貼りした脅迫状。あのひと時であらゆる人間関係を丸裸にした柳井の頭脳。結果、警戒すべき人物として浮上した佐伯先輩。そして、転倒する前に確実に僕を捉えていた、突き刺さるように冷たい佐伯先輩の視線。この事件の伏線となりうるすべてが僕の脳内にフラッシュバックし、次いで腸の底から熱を持った感情が湧き出るのを感じていた。


 繰り返すが、僕は羽織先生からリスクヘッジの鬼とまで言われた男だ。感情に任せたまま行動をとるなんてことは、かつての僕が一番忌み嫌った行為だ。論理的に考え、いつだってリスクを最小限に抑える行動をとる。この行動原理こそが僕の全てを構成していた要素だった。


 だが、今回ばかりはそうはいかない。腹の底で煮えくり返る怒りが、伊月に危害を加えた佐伯先輩に対する激怒が、伊月の実行委員長としての悩み、苦痛を知る人間としての激情が。僕の脳内の論理演算を狂わせていた。


「……犯人はあんたすか」


 気が付いた時には、土埃を払いながら立ち上がった佐伯先輩に、喧嘩腰で声をかけてしまっていた。まだ倒れている伊月や中根先輩のほうには人の山ができているが、僕はその山から少し外れたところで佐伯先輩に喧嘩を売っていた。


「……君さ、伊月さんと付き合ってるんだろう? 倒れてる彼女の面倒を見なくていいのかい?」


 柳井が言っていた、脅迫状の送り主の行動原理。その一つは伊月に対する異様な執着であり、また一つは僕を伊月とかなり親密な人物だと認定しているということだった。佐伯先輩の第一声は、まさしくそれを裏付けする発言だった。


「見たんだよ? 君たちが放課後、教室でいちゃついてるの。ほんと見せつけてくれるよね」


 しかし、そんな柳井の推理に感心する間もなく押し寄せてくる怒り。その沸点に到達しそうな温度が、僕の声を威圧的に染め上げる。感覚的には、松葉先生のそれと同じくらいの威圧感と重低音で、僕は佐伯先輩に言葉を返す。


「だったら何なんすか。てか先輩がここまで伊月に執着するの、気持ち悪いっすけど」

「ほう、気持ち悪い、ね。この僕が」


 この空気の重さの中、あくまで爽やかに佐伯先輩はくすっと笑う。そしてさらに僕の怒りを誘導するように言葉を紡いでいった。


「君は何か勘違いをしているようだけどさ、伊月さんは君みたいな一般人には相応しくないよ。この完璧を絵にかいたような僕の隣にいるべきなんだよ、彼女はね。だから、彼女とお近づきにならないといけないから、僕は白軍の応援団長を志願したんだよ。こんなの、柄じゃないんだけどね」


 ふと、野村先輩の言葉が脳裏をよぎる。彼女は体育祭にかかわる重要人物は全て『相応しい』者であるべきだと説いていた。


 僕が伊月と付き合うなんて考えたこともないし、そんなことは天と地がひっくり返っても起こりえない。だから、別に伊月の彼氏として相応しくなくても何とも思わない。


 だけど、そんな野村先輩や伊月、あるいは白軍応援団全体の期待を裏切るような佐伯先輩の行為は、全くもって応援団長として『相応しい』とは言えないものだ。


 そして何より、伊月が成功させようとした体育祭。野村先輩と口論になっても、中根先輩の殴り込みにあっても、たとえ柳井からですら伊月凛の体育祭が期待されていなくても。それでも成功を願った伊月を近くで見てきた僕は、その実現をほぼ一人で潰えさせた佐伯先輩に、かつてないほどの怒りを覚えていた。


「ふざけるのもいい加減にしてくださいよ。それでなんでこんなことしてるんすか。あんた一人のせいで応援団活動全体が自粛になったり、つまらん体育祭になったのは伊月の責任だなんて言われてるんすよ。その上伊月に怪我させて……ほんとふざけんなよクソが」


 熱くなっているのが自分でも分かる。考えるより先に言葉が出てくる。自分で何を言っているのかもわからないし、しっかり論理建てできているのかも分からない。ひょっとしたらわけわからないことをただひたすら吐き捨てているだけかもしれない。だけど、最後の一言だけは、敬語すらも忘れて心の底から佐伯先輩に吐き捨ててやった、本心からの一言だった。


「言わせておけば心外だね。そもそも君だってどうだい? 生徒会室で応援団を消滅させたとき、君は最後まで伊月さんと一緒になって応援団の継続の話をしなかっただろう? 君だって世間知らずのお嬢様のわがままには辟易として面倒だから彼女を守ったりしなかっただけでしょ。その積み重ねが今回の体育祭の完成度の低さだよ」


 佐伯先輩の声色もかなり威圧感があったけど、もうそんなのは気にならなかった。目の前のクソ元応援団長に対する怒りだけが、ふつふつと僕のお腹の中で煮えたぎっていたからだ。


「……打算だけで体育祭に参加してた人に何が分かるんすか。いろんな人が、いろんな思いで必死になってできているのが体育祭なんすよ。応援団活動にすら本気を出せないあんたには何も分からんでしょうが」


「あーはいはい。もういいよ、そう言う根性論みたいなの。面倒だからね」


 感情に任せて発言していたせいだろうか。伊月の苦労や野村先輩の信念、中根先輩の無念。羽織先生の期待や松葉先生の計らい。そして今回の件に関する柳井の協力。みんながみんな、体育祭の成功を願って行動をしてきた。その思いすら感情に乗せて爆発させていたのに、それを佐伯先輩は面倒だと言い放つのだ。


「それで? 君はお嬢様とはもうしたの? まさかまだだなんて言わないよね? 僕が一番知りたいのはそこなんだよ」

 


――クズだ。この男は人間のクズだ。



 その思いが大爆発して、身体の制御すらできなかった。気が付いた時には、僕は右の拳を振りかぶって、佐伯先輩の左の頬めがけて振り下ろすところだった。他人なんて殴ったことがない。ふと右腕に力を入れた瞬間、殴った側も相当痛いんじゃないかと思って躊躇ったけど、すぐに怒りが僕の右腕に再度力をねじ込んだ。


 この間僅かコンマ何秒だと思う。すぐに振り下ろされた右の拳が、佐伯先輩の顔面に振り下ろされそうになる、その瞬間だった。


「おい瀬野! やめんか!」


 普段の気だるそうな声ではなく、空気を切り裂くような音量に僕の右こぶしはぴたりと止まる。声の方向に振り返ると、羽織先生が立っていた。


「瀬野くんよ……そうだな。君は……伊月を保健室に連れていけ」

「……分かりました」


 言われて伊月と中根先輩のほうに視線を移すと、中根先輩は立ち上がっていたが、伊月はかがんだまま立ち上がれないような状態で、特に右の足首を痛そうにしていた。


 羽織先生が介入したのを確認して、佐伯先輩はふっと小さく笑い、クズな本心を隠し中根先輩に謝りに行っていた。変わり身の速さすら、虫唾が走るほど気持ち悪く感じる。


「瀬野よ……これは……あれだ。独り言なんだが……殴る意味のない時だって……時にはあるもんだ。いつだって冷静になれ、少年よ」

「……すみませんでした」


 やっぱり羽織先生には頭が上がらない。確かに佐伯先輩は殴る価値もないクズだ。それを殴ってまた謹慎になったら、それこそ伊月や実行委員の迷惑になる。ましてや生活指導は松葉先生だ。そっち方面にも多大な迷惑をかけてしまうのは明白だった。


 すれ違いざまにつぶやいた羽織先生の独り言をかみしめながら、僕は伊月に手を貸して、保健室へ向かっていた。



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