043.頭に血が昇っちまってよ
それからの僕たちはというと、本当に何もなかったかのように過ごしていた。通称、伊月が僕の背中を借りてきた事件とでもいうべき僕史上いまだかつてないほど混乱をさせられたあの一件以降は、特に伊月との距離感が近くなったりとか遠くなったりとかもなく、何ら変わらず誠と柳井を含めた四人で特に何も変わらない学校生活を送れていた。
野村先輩と伊月が火の粉を散らしていた裏で松葉先生は首尾よく体育祭の予選会の日程を決めていたらしく、体育祭二週間前の金曜日、つまり今週の金曜に決行されることも決まった。それから二週間ほど時間が経ったが、体育祭実行委員の活動も落ち着いて、誠が部活で忙しい以外は全くもって日常に戻ったような状態だ。てかあの忙しさが続いてたら僕も伊月も、もしかしたら松葉先生でさえぶっ倒れていたかもしれない。いや先生はないか。
そして問題の応援団活動。これについては応援団側から明確な筋の通った反対意見が出てこなかったようで、活動の規模はかなり縮小されていて、強制的な団員の勧誘も禁止となった。通常、この時期ならば我が物顔で校庭を独占し稽古をしていた紅白両応援団だが、今年は校庭の片隅で小さく固まって練習している。
そんな落ち着いた時間が二週間くらい流れていたが、一応僕たち三人から成る体育祭実行委員は精力的に活動している。ただ、やる気はあれど仕事がない。最近では残りの生徒たちはそもそも自習室に来なくなっているし、松葉先生もそれをとがめるようなこともしなくなっていたため、なんとなく僕たち三人が集まって、やることがないことを確認して帰るような変な儀式みたいになっていた。
「おい伊月、瀬野。今日は野村の奴がこっちに来るそうだ」
そんな時間が過ぎていたから、今日も何もないと思って集合していたもので。松葉先生が鋭く言い放った言葉にも、歴戦を経て鍛えられたリスクヘッジのセンサーが反応しなくなっていた。ただでさえ最近センサー弱ってるもんね。仕方ないね。
結論から言うと、松葉先生が低く放ったその言葉が、僕と伊月の体育祭実行委員活動、その忙しさ第二ラウンドの幕開けだったのだ。
もうレイアウトすら元通りに戻った第二自習室、その教卓にどかっと腰掛けた松葉先生に、教卓そばの先生から見て左側の席に陣取った伊月が言葉を返す。
「あら、松葉先生。ずいぶん急じゃないですか。何か生徒会側から指導でも入るのかしら? そんな角が立つようなこと、私たちしてませんよね?」
「お前な……心にもないことをぬけぬけと」
どうにも生徒会に対する伊月の風当たりは、野村先輩と言い合いをしてからかなりきついものになっていて、松葉先生ですらこうやって呆れてしまうほどになっている。
「……おおかた予算とか出店とかスポンサーとかそういう話じゃねえの」
「一理あるわね、瀬野くん。そろそろ金銭面の話をまとめておかないといけないものね」
伊月は教卓そばのもう一つの席、先生から見て右側に座った僕に、珍しく肯定の意見を投げかける。
「ん? 出店ってのはいの一番で決まったかき氷以外には何も決まってねえのか」
「ええ、そのはずです。そもそもこういうお金が絡む部分については生徒会の範疇で……そろそろそう言った共有が欲しいと思いません?」
「まあもう三週間前だからな」
「瀬野くん、今のは皮肉かしら?」
「……本音だよ」
「おめえらは仲いいのか悪いのかどっちだよ」
『良くはないです』
ここまでは本当にいつも通り。他愛のない会話をして、特に仕事がないことを確認して帰る、そうなるはずの流れだった。だから、自習室前方の扉をノックする音の後にバンっと大きな音を立てて開かれるまで、僕たちは完全に油断しきっていた。
「ちょ……中根くん! やめるんだ! 中根! おい!」
開かれた扉から大股で伊月の前に歩を進める大男。その右手を引っ張るように頑張りながらも引っ張られている野村先輩。その殺気立った雰囲気を察してか、間髪入れずに松葉先生が男子生徒と伊月の間に入った。ただならぬ気配を察して僕も伊月も立ち上がってしまう。
「おい中根。てめえ何キレてやがる」
いやいやいや怖すぎでしょ松葉先生。さすがにもう二週間も過ごすと危険なことが好き以外は常識人であることも分かってきていたから忘れていたけど、どう見てもこの人その筋の人以外ありえないほどの貫録を発揮することがあるんだよなあ。いやー怖い怖い。
中根、と言われた男子生徒はさすがに松葉先生より身長は低いようだが、あまり差があるようにも思えない。日に焼けたアスリートのような精悍な顔立ちから放たれる鋭い眼光が、松葉先生のサングラスを捉える。一気に険悪な空気になったのを察してか、ここで野村先輩が言葉を挟む。
「伊月さん、瀬野くん、いきなりごめんね。中根修人くん、紅軍の応援団長だよ」
松葉先生から威圧され、右手を引っ張る野村先輩が叫び、ようやく状況を把握したのか、中根先輩はふう、と大きく息を吐き言葉を続けた。
「紅軍応援団長の中根修人だ。どうぞよろしくな、伊月さんよ」
黒の短髪に日焼けで地黒の精悍な青年。目つきだけが少し怖い中根先輩が、思いっきり伊月を睨み付けて言った。
「中根先輩。私がそんな威圧的な態度に縮こまるとでも思っているのかしら? 笑止千万ね。どうぞよろしくお願いしますわ」
まさに余裕の二文字。全力で振りかざされた拳を華麗に躱すように、伊月は簡単に中根先輩の威圧的な態度を受け流して見せた。
「……わりいな。頭に血が昇っちまってよ。周りが見えなくなるときがあるんだ。すまない」
「最初から素直にそう言って下さればよかったのに」
伊月の余裕綽々な態度を見てさらに冷静に立ち返ったのか、中根先輩はひとまず伊月に謝罪。伊月もそれを聞いてしっかりとフォローに回り、ひとまず空気は険悪なムードから脱する。
「どこから話せばいいか……伊月さんよ、あんたが生徒会に応援団活動縮小を求めたってのは本当か?」
「そうですね。間違いないわ」
言いながら伊月は中根先輩の右脇に佇む野村先輩を睨み付ける。
「伊月さん、何か言いたさげだけど私はあくまで中立だからね。聞かれたことには答えるし、言われた望みは可能な限り叶える。これはキミだけじゃなくて中根くんにとっても同じさ」
「だからって中根にそれを言えばこうなることぐらい想像つくだろうよ……」
松葉先生が呆れたようにつぶやく。どうやら中根先輩は短気で有名なのだろうか。自分の短気を戒めるようなこと言ってるし。
「それでも中立である以上は言わなければいけないんです。分かりますよね? 松葉先生」
野村先輩も野村先輩で生徒会長モードに入っていて、松葉先生すらもそのオーラで黙らせてしまっている。なんか星洋高校のキレたら怖い人たち集めて戦わせてみました、みたいな状況が目の前に広がってるんだけど僕帰っていいかな?
「そ、そうだな……瀬野からは何かないのか?」
いやいやこの状況で僕に話し振りますか松葉先生。
「いや僕は特に……」
「先生と瀬野くんは黙ってなさい」
「うん僕黙っとく」
ほら怒られた。伊月さんの右眉がぴくぴくしてるんだって。怒られるの目に見えてたでしょ? だから黙っておくことにします。
「それで? 中根先輩、私が応援団活動の規模縮小を主導したのを知って何をしたいのかしら?」
「……いや。いいんだ。アンタが今の状況を招いてる。それだけ確認できればよかった。それじゃあな」
えっと、中根先輩。あなた伊月に報復とか仕掛けようとしてないですか。この場のほかのみんなの目を欺けても、リスクヘッジに特化して頭を回転させる僕の目はごまかせないですよ。こういう自分たちの不利益をもたらす根源を特定した時の人間って言うのは、大体そう言う復讐とか報復に走るもんだと思うんですけどね。何かあった時は松葉先生か羽織先生に相談しますね。
冗談はさておき、本当にそんなことを考えているのなら非常にマズイ。割と本気で早めに羽織先生にでも相談しておこうか。松葉先生は……正直まだ相談相手として話ができる先生じゃない。
中根先輩と野村先輩が教室から出て行く背中を見ながら、僕はこの後職員室へ出向くことを考え始めていた。




