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032.面倒ごとだけはごめんだからな

 生徒会長と副会長による即興コントがダダ滑りして沈黙してしまった教室に、バンッと力強くドアが開く音が響く。その音の大きさに体がびくっとなってしまった生徒が何人かいた。僕? そ、そんな、な、なるわけないじゃないですか。なんか左隣の伊月からの視線が痛いです。


 そして、力強く放たれた音の中心に視線を向けて、また体がびくっと跳ねてしまう。ちょうど同じころ伊月の視線もそちらを捉え直している様子だったが、このやろうと思えば完璧な社長令嬢を演じることができる伊月ですらそのドアのところに立つ姿を見て顔が青ざめてしまっていた。


「松葉先生……だと……」

「あ、あの人いったい誰なのよ。あんな悪そうな人がうちの高校にいていいのかしら。というか、保健室の先生としてはあるまじき風体ね」


 小さくつぶやいた僕の独り言に、ささやき声で伊月がかぶせてくる。


「先生は生活指導の先生だったはずで、保険の先生じゃないはずだが……謹慎喰らった時、あの先生から指導を受けた」

「……あなたも大変な目にあったわね。いくら瀬野くんが悪いとはいえ同情するわ」


 松葉先生は大股で生徒会の面々の隣の、保険室長の紙が下がった席にまで進み、腰掛けた。


「保健の村田先生が体調を崩されて休職されたため、急きょ体育祭実行委員顧問になった松葉だ。軽く自己紹介する。担当教科は生物。生活指導の担当でもある。今回職員会議で顧問に推薦された。よろしく頼む」


 例のどすの利いた低音の語りが、実行委員の生徒たちを一人一人差していく。それを追いかけるようにして、薄暗いサングラスの向こうの鷹のように鋭い視線が順々に生徒を捉える。


「瀬野か。久しぶりだな」

「あ、はい。お久しぶりです!」


 柳井と謹慎を喰らった日のトラウマが、僕に元気な挨拶をさせてしまう。それを聞いた伊月が噴き出してしまうほど、僕は元気に元気に挨拶を返した。たまに元気なところを見せただけで笑われる僕って……。


「まあ今回は部活みたいなもんだ、そう固くならんでいい。あとは……伊月謙だったか? ……の妹ってのはお前か、瀬野と同じクラスの女」

「……はい。謙の妹の凛です。もしかして兄が御世話になりましたか」

「ああ。お前の兄貴は歴代でも屈指の応援団長だったぞ。負けないように頑張れよ」


 そう言えば伊月には兄がいるって話を聞いたことがあったな。あのルナーズとその個室はその兄さんが星洋高校に通うことになったから作ったんだったか。で、兄さんは応援団長として名を上げていた、と。


 何かが心に引っかかる。伊月が体育祭の成功にこだわる理由の一端を感じた気がしたのだ。伊月はプライドが高いと思う。だから、口では困ったら僕たちに相談するとこそ言っているが、あの野外活動の時、それから今の体育祭でここまで成功にこだわることについても何も話してくれない。とりわけ、自分の家庭のことについては本当に話してくれないのだ。


 気持ちは分かる。何も自分の家庭のことを他人にべらべらと話す筋合いもない。だが、前に誠が信頼を口にする割に話しをしてくれないのは傷つく、と言っていた気持ちが今ならなんとなく分かる。


 あくまで例えばの話だが、兄さんがかつて応援団長として成功して、それに負けたくないから体育祭を成功させたい。そう思っているのならばそう僕たちに話してくれればいいのに。その思いが心にどうしても引っかかってしまうのだ。


「よし。大体のメンバーは把握した。野村、委員会開会の挨拶をしろ」

「野村先輩の挨拶はもう済みました」


 サングラスの奥の眼光が野村先輩を捉えるよりも早く、板書のため黒板右側へ立ち位置を変えていた斎藤が松葉先生に言葉を返す。そのナルシストっぽい口調はたとえ松葉先生が相手でも変わることはない。誰が相手でも上から言葉を投げ下すのが斎藤のスタイルらしい。


 てかあのできが悪いコントみたいなやつであいさつ終わらせたことにしていいのか。あ、でも野村先輩が挨拶できないほうが面倒なことになりそうだからこのままでいいか。松葉先生が暴れだすリスクは削除して置いたままのほうがいい。


「そうか。遅れて悪かったな。俺と野村の挨拶が済んだのなら、今度は実行委員長決めだな。基本この後は生徒会長と実行委員長の連携でやり取りしてもらうことになる。あとは委員会のかじ取りが主な仕事だ。だれかやりたい者はいないか」


 また鋭く差すような視線が教室中を舐め回す。その視線に僕を含めた十一人の生徒はたじろいでしまっていたが、唯一毅然とした態度で挙手をした生徒が、僕の隣に座っていた。


「おう伊月。頼めるか」

「はい。もちろんほかに自薦、他薦がなければですが」


 やはり今回の体育祭に対する伊月のこだわりはどこか変だ。いや、もともと伊月は体育祭にこういった形で積極参加したい希望を持っていたのかもしれない。しかし、僕の知っている伊月凛は、こういうイベントなどで悪目立ちすることを嫌うと思う。


 なぜなら、やっぱり伊月さんはすごい、さすが育ちのいいお嬢様は違う、と皆からチヤホヤされて、結局はみんなのおもちゃとしての立場に戻ってしまうことになる可能性が高い。通常であるなら、伊月の性格的にもこういう危険性は排除するのではないだろうか。


「よし。ほかに立候補、推薦もないようだから実行委員長は伊月で決まりだ」


 教室内を包むまばらな拍手。いまだ半数以上の生徒が松葉先生の姿かたちに圧倒されている様子だ。拍手が鳴りやむと、再度松葉先生の重低音ボイスが教室内を刺すように響き渡る。


「伊月、最初の仕事は明日の全校集会でしゃべってもらうことだ。野村も全校生徒の前であいさつしてもらうから何か考えておくように」

「分かりました」


 すぐに言葉を返した伊月とは対照的に、野村先輩は何か言いたさげに机から乗り出し、松葉先生に言葉を返した。


「ええ、明日ですか……めんどくさいなあ。まあでも大丈夫です、何か考えてきます」

「お前本当に大丈夫か野村よ」

「めんどくさいだけなので大丈夫です」


 野村先輩は男子百人に聞いたら百人全員が美人と答えるであろう美貌を備えている。そして華奢ながら出るところはしっかり出ている体格で、どこか男性陣の庇護よくすら掻き立てるような見た目をしていて、何も知らなければ一目ぼれする男子が後を絶たないだろう。しかし、よく見てみれば髪の毛は羽織先生ほどではないにしてもぼさっとしているし、瞳に覇気もない。


 そして、誰が相手であろうと二言目にはめんどくさいと言う。それが意味するのは、また僕の周辺にぶっ壊れた女性が増えてしまった、ということだ。できることならばこれ以上野村先輩とは関わりたくない。関わらせないで。お願いだからさ。


「では今日のところはここまでだ。明日以降競技採用や応援団規模、予算など本格的に会議に入る。以上解散」


 生徒会、実行委員会の生徒たちは松葉の号令に合わせて第二自習室から撤退していった。



  ◇   ◇   ◇



「お前、らしくねえんじゃねえのか」


 校門からまっすぐ星洋町駅まで伸びる大通りを、伊月と一緒に歩く。伊月の棲むマンションは星洋町駅のすぐ向こう側に立っていて、帰り道が被るため実行委員長に立候補してまで体育祭にこだわる理由を問い詰めようとしていた。伊月の場合、こうやって話を聞いておかないとまた野外活動の時のように面倒なことになりかねない。ほんと、いつから僕はこんな他人に優しい存在に成り下がってしまったのだろうね。嫌になっちゃう。


「別に。ただほかの人に任せるより自分でやったほうがいいものにできそうな気がしただけよ」

「お前のそれは僕からしたら全く信用できねえ。僕と柳井が喧嘩した時のこと、僕は忘れてないからな。何が人として止めに入っただよ。結局僕たちのこと気にかけてただけだったじゃねえか」


 羽織先生と放課後に話をして柳井と二人で帰った時とは違い、僕と伊月は並んで歩いている。校門を出た時なんとなく僕が車道側を歩いてあげないといけない気がして、そのまま平行移動してきた感じだ。


「……そう言われると弱いのだけど」

「なんかあるんだったらすぐ言えって誠も柳井も言ってるだろ。あれか、お前の兄さんの話が関係あるのか」

「瀬野くん、あなた意外と鋭いことを言うわね。正直に言うなら関係ないこともないし、そうね……時期が来たら話すようにするわ。ただ、今は大丈夫よ。今は純粋に体育祭を何とかしたいって思いのほうが大きいから」

「本当かよ。まあいいけど、面倒ごとだけはごめんだからな」


 どちらも歩くペースも乱さず、ジェスチャーで表現することもせず、会話の抑揚も少なく。淡々と並んで歩きながら会話だけが一緒に歩きながら進んでいく。外から見たら仲が悪そうに見えるかもしれない。伊月個人とそんなに仲がいいと思っているわけでもないけどね。


 ひとまずは伊月に釘をさしておくことはできた。伊月も馬鹿じゃないので本当に困れば僕らに何かを打ち明けてくるだろう。なので、ひとまずは様子を見ようと思う。


 体育祭は五週間後。僕たちの新しい戦いは、まだ始まったばかりなのだから。


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