031.まともな人間はいないんだろうか
学級委員の女子生徒の号令に合わせて、放課後がやってくる。授業が終わって遊びに行こうと浮かれる生徒、部活に向かおうと気を引き締める生徒など様々の様子だが、そんな中にあって僕が伊月凛に話しかけに行く日が来るとは、一か月ほど前の自分には想像できなかった。
「じゃ、行くか」
「そうね。第二自習室だったかしら」
伊月の席まで行って、まだ座っていた彼女にぶっきらぼうな声をかける。伊月は机の中から今日の教科書などを学生鞄にしまい、そっけなしに答えてくれた。
二年三組の教室は校舎の端っこだ。教室から左に出てまっすぐ行くと突き当りに階段があるのだが、そこがちょうど丁字路のように二手に分かれている。この会談前の丁字路を右に曲がると、第一から第三まで自習室が並んでいる。僕は伊月の後を追うようにして、その真ん中に位置する第二自習室まで歩いた。
「瀬野くん、一つ言っておきたいことがあるのだけど」
自習室を目の前にして、くるりとこちらに向き直り改めて伊月が僕に話しかける。
「……なんだよ、改まって」
「私はね、この体育祭を今までで一番盛り上がるものにしたいのよ」
僕が積極参加しようとしていた実行委員だが、僕より意識の高い生徒がこんな近くにいたらしい。てかいきなりどうしたの? なんか悪いものでも食べた? 昼飯は自作の弁当だったと思うけど、同じ物突いてた柳井も大丈夫?
「ずいぶんいきなりだな」
伊月の発言に脳内総ツッコミを入れながら、あまりにも真剣に言ってくるもので無難な言葉を返すにとどまる。
「さっきも言ったでしょう? 私にも事情があるのよ。だからせめて私の邪魔はしないでちょうだい?」
伊月にどんな事情があるのか知らないが、僕だって羽織先生に積極的に体育祭に参加すると言った以上、それなりの意地がある。だから意固地になって答えてしまった。
「伊月、お前こそ入れ込みすぎて体育祭台無しにするなよ。どんな事情があるのか知らんが」
「分かっているわ。心配は無用よ」
伊月がいつものように自信満々にドヤッてくるので、逆に少し不安になる。だけど、阿呆のようで阿呆でないような部分もあるので、きっと何かしら成功させる自身とか秘訣みたいなものがあるのだろう。一応伊月も学年で三位以内に入る頭は持っているのだ。
伊月は言葉を返すとそのまま第二自習室の扉をノックして、入室した。それに続くようにして僕も教室に入る。すると自習室の机は黒板を囲むようにコの字型に設置されていて、ほかの一年生や二年生の教室から来た、真面目そうな生徒たちが座っていた。どの学年も三組だけが二人、委員を送り出していて、僕たちに年三組の委員ははちょうど黒板に向かい合う位置の、黒板から見て右側後方の座席を指定されていた。
コの字型の空白の辺には長机が置かれていて、生徒会、保険室長の張り紙が垂れ下がっている。その机には三つのパイプ椅子も設置されていた。
「生徒会が二人と保健の先生が参加するのか」
「そうみたいね。今日は何をするのか、気になるところなのだけど」
真面目そうな生徒しかいない分、教室が嫌な沈黙に包まれていて、僕はついついどうでもいいことを伊月に話しかけてしまう。
「それよりあなたが沈黙に負けて話しかけてくるなんて、ずいぶん人間らしくなったものじゃない?」
「うるせえ」
言いながらふふふ、と笑う伊月。どうして僕はいじられる側のキャラになってしまったのだろうか。いつどこで何を間違えた。いつだって後悔は先には立たない。大げさに考えすぎか。
そうしている間にあらかたの生徒が集合し、コの字型の机のほうにはほぼ全員の生徒が着席していた。ちょうど生徒がそろうのを見計らっていたかのように、教室前方の扉が、バンッと勢いよく開かれた。
「おお、みんな集まってるぜ。奈央ちゃんよ、あたしたちはだいぶ遅れちまったみたいだな」
「……めんどくさい」
勢いよく扉を開いたのが、確か副会長の戸叶美咲さんだ。野村先輩の片腕としてその有能ぶりを発揮している、ともっぱらの噂で、強気そうな瞳とポニーテールにまとめた柳井よりも明るい茶髪、そして平均より少しだけ高い身長が、どこか姉御肌の雰囲気を漂わせている。そしてでかい。羽織先生とか伊月とか川村さんに足りなかった分が、きっと戸叶先輩のところに行っているのだろう。
そのあとに教室に入ってきたのが生徒会長の野村奈央先輩だ。野村先輩はもう触ったら折れてしまいそうなほど華奢ではあるが、身長は柳井より少し低いくらいで標準的だと思う。そして華奢ではあるものの出るところはしっかり出ている。伊月ほどの長さはないが、背中まで伸ばした黒髪は、羽織先生ほどではないものの少しだけぼさっとしている。
そして何より、羽織先生のように瞳が死んでいる。いや、羽織先生のアレが死んだ魚の目だとすれば、野村先輩の目はまな板の鯉が刺身になった鯉を眺めるような、悟りきった瞳だ。単刀直入に言うと、野村先輩の目には輝きが足りないのだ。
先輩二人は生徒会の紙が下がったところのパイプ椅子に腰掛ける。
「……生徒会書記、二年二組の斎藤です。皆さんいきなり先輩たちがすみません」
その二人に連れ立って入ってきたのが、斎藤という男子生徒。先輩方の後ろに立ち、申し訳なさそうに頭を下げる。肌は男子とは思えないほど白く、野村先輩のように華奢な体つきをしている。ただ身長自体は柔道部エースの細川と同じくらい高く、目にかかるほど伸ばした眺めの黒髪の上には学生帽を被っている。
こんな姿をしているが、顔面の造形が非常によく、ほかの生徒がするとダサくなってしまうようなこの格好すらも似合ってしまうイケメンである。そして妙に気取った語り口をしていて、何というか一目でナルシストなのが分かってしまう。
「……この学校に誠以外のまともな人間はいないんだろうか」
「それをあなたが言うのね、瀬野くん」
「というのをお前が言うか、伊月よ」
まともな人間は本当に誠くらいなもので、伊月や柳井はもちろん、教師陣である羽織先生や松葉先生さえもぶっ壊れた人間性をしていると思う。そして僕は誠よりの人間だと自負している。自負くらいはさせてくれ。
つい一言漏らした独り言に伊月がツッコミを入れてきたので、ツッコミ返してやった。お前が一番ぶっ壊れている座を柳井と争っているんだよ。
「あなた、また失礼なことを考えていないかしら。失礼よ」
「……いや、なんでもねえけど」
なんだろう。僕が変なことを考えるときってそんな分かりやすく顔に出も出てしまっているんだろうか。てか失礼なことを考えるだけで失礼ですかそうですか。そりゃそうか。失礼しちゃうわ。
「二年三組の委員。私語はやめないか」
斎藤が気取った言い方で言ってきたので、何か普通に始動されるよりもカチンと生きてしまう。いやー狙って言ってるのならすごいよね。いや、素で言ってるほうがある意味凄いか。斎藤よ、お前は人を怒らせる天才かもしれんぞ。
とりあえず指摘されたら黙るしかないので、伊月との会話を終わらせるが、伊月は伊月でむすっとした表情をしていて、彼女なりに怒っている様子だ。
「……先生は遅れて来られるそうなので、ひとまずは僕が司会進行をさせていただく。それでは生徒会長から、委員会開会の挨拶を」
僕たちへの指導に続けて、半ば強引に斎藤が委員会を開始させる。野村先輩たちの後ろに立ったまま、斎藤は野村先輩へ挨拶をするよう促した。
「……嫌だ。眠い。何よりめんどくさい」
「はぁ!? お前さっきまで私が挨拶するからあたしは何も考えなくていいって言ってたよな!?」
「いやね、急に眠くなってさ。めんどくさくなってきた」
「いやいや真面目にやってくれよ! 体育祭の実行委員さんたちの目の前なんだからさ!」
「無理だ。だって眠いもの」
「だからってあたし本当に何も台本とか用意してないぜ? どうしたらいいんだよ……はっ」
僕と伊月だけでない。各学年四名の実行委員、合計十二名の冷ややかな視線が野村先輩と戸叶先輩に浴びせられている。その視線に気づいて我に返った戸叶先輩が慌てた様子でとりあえず立ち上がった。ていうか冷静に立ち返った時にはって本当に言う人初めて見た。
「と、とりあえず……楽にいこう! みんなで楽しい体育祭にしようぜ!」
戸叶先輩の発言以降、保健の先生が現れるまでいやーな沈黙が自習室を支配したのは言うまでもないだろう。




