022.これが一番うまくいくよ
「あー……あれだよ。あれだ……お前はこのまま面談室送りだ。えー……そうだ。学校謹慎処分だよ」
翌日の水曜日。明後日は野外活動だ。登校すると校門の前で羽織先生が待ち構えていて、白衣をなびかせながら両腕を組んで凄んでいた。が、なにぶん先生はあらゆるところが小さいので、とても迫力に欠いている。ただ、分厚い銀縁眼鏡の奥のいつもよどんでいる目は獲物を狙うチーターのように鋭く、それに気づいた瞬間に緊張が走った。
「おい……何だ。お前……瀬野くんよ、また失礼なことを考えてないか」
「あ、いやなんでもないです」
「まあ……そうだな。荷物持ったままでいいからすぐに向かえよ」
しかし、自分が面談室送りになるような愚行を冒すとは、今でも信じられない。感情のままに喧嘩して無断早退、翌朝から謹慎を告げられるだなんて、始業式後の僕に話したら気を失ってしまうだろう。だけど、今は何か一つすっきりしたような気がしていて、こんな状況でさえ心地よさを覚えてしまうほどだ。
それは昨日、柳井とちゃんと話をできたことと、一瞬だとはいえ伊月が元に戻ってくれたおかげだろう。これからはちゃんと柳井と協力して伊月の問題に取り組むことができるし、彼女に僕たちの声が届かないことはないということも確認できたからだ。
ん? 何か僕、ぶっ壊れた二人との関係性という深みに、どんどんはまっていってないか?
さて、このまま僕は面談室に向かったわけだが、すでに柳井も登校していて、軽く挨拶だけ交わして荷物を部屋の隅に置き、柳井の隣に座った。黒皮のソファが快適に沈み込むが、反省するのにこんないい椅子を用意してもいいものかね?
さすがに反省するために呼ばれた部屋で柳井と話す気にはならないので、なんだか気まずい気分で待っていると、勢いよく面談室の扉が開く。バーン、と扉の緩衝材同士がぶつかり合う音が隣の職員室まで駆け抜けた。
「生活指導の松葉丈治だ」
どすの利いた声だけでなく、その姿自体もまさしく威圧そのものだった。羽織先生がどうあがいても出せない威圧感を、この人ならば歩くだけで醸し出せそうな風体。黒シャツに黒の皮パン、シルバーのバックルが目立つベルトに、羽織先生と同じく白衣を纏ったその姿は、ゆうに一八〇センチを超えているだろう。そして何より怖いのは、この生活指導教師の顔面だ。
誰が見ても校則違反であるのはあきらかなほど明るい金髪、痩せこけた頬。そして、その奥の瞳が見えるか見えないかくらいの暗さのサングラス。何より、左の額から左目を経由して左の頬下まで伸びる、何かで斬られたものを縫ったような傷。こんな人が生活指導をしていて大丈夫なのか、と今すぐにでもPTAから苦情が来そうな見た目をしているし、そもそも僕自身、今日までこの人を学校内で見たことがなかった。
ちらり、と柳井のほうへ視線を移すと、やっぱり顔面が引きつっていて、首から下は完全に固まってしまっている。彼女なりに恐怖の感情は湧いてきているようだ。魔女すらも圧倒する風貌から、また低音が発された。
「おまえら初めましてだな。昨日までバイク事故で一年以上入院していた」
うわー盲点だった。こんな人がいると分かっていれば、いくら何でも昨日早退まではしていなかっただろう。これは逃げではない。リスクヘッジだ。繰り返す、これは逃げではない。正真正銘のリスクヘッジである。こんないかつい教師から叱られるようなリスクは、誰だって削りたくなるだろう。
松葉先生はそのまま僕たちの目の前に腰掛けると、白衣から白い箱に黒い小さな星がいくつもあしらってあるタバコを取り出し火をつけた。羽織先生には生徒の目の前で吸うな、といちいちツッコむが、だれがこの人に文句を言えようか。てか星洋の先生たちの喫煙率高くね? そんな命縮めるリスク背負う意味ある?
「謹慎は二日間。これから一人ずつ羽織の奴と面談だ。その間もう片方の監視は俺がする。それが終わったら第一自習室に移動して反省文二千字だ。面談も反省文も時間はたくさん取るから安心しろ。ほかの生徒と接触がないよう休み時間もずらすし、早めに帰らせる。今日はここまでになるだろう。そして明日は俺が直接生活指導する。しっかり反省しろ」
松葉先生はタバコをふかしながら低い声でブツブツとつぶやく。そしてそれは、野外活動当日まで伊月の問題に触れることができないことを意味していた。
さすがにこれを聞いて横目で柳井と目があったが、どうしようもないことは僕も理解していたし、柳井ならばすでに何か策を考えていてもおかしくない。ここは柳井のずば抜けた処理能力に期待することにした。
◇ ◇ ◇
「ねえねえ瀬野くん、この二日間何もできなかったんだけど今どんな気持ち?」
「その言葉、そっくりそのままお前に返すわ」
謹慎期間中、ほかの生徒との接触は徹底して絶たれていた。こうなっては柳井の悪魔じみた頭の良さも役に立たない。まさしく小細工を力技で返されたような、そんな状況だった。
羽織先生との面談は、柳井との関係と日常生活に問題がないかの質疑をあらゆる方面からされているうちに終わっていた。そして、休憩時間やトイレに行く際も必ず松葉先生が同行した。おそらく、ほかの生徒から見れば二人が学校に来ていないように見えるようにした配慮なのだろうが、こういう噂が校内を走り回る速度は、おそらく赤兎馬とかスレイプニルとか、歴史や伝説に名を残すどの名馬たちよりも早いだろう。
で、僕たちは今僕の自宅の前で駄弁っている。松葉先生が、僕の家の前までご丁寧にも同行してくださったからだ。ここから道なりまっすぐに進むと柳井の家らしいので、松葉先生はここで時間の兼ね合いもあり学校へ戻っていった。
「まあ、ここまできたらなるようにしかならん」
「言えてーるよー」
柳井も諦めているのだろうか、テンションが読めない。変なアクセントで言葉を返してきた。
「こうなったら明日、ぶっつけ本番でどうにかするしかねえ」
「何で同じこと二回言うの? おばかさん?」
「うるせえ。そういえば、一昨日お前と電話し終わった後、伊月と話したことだが」
柳井は聞くと、柔らかな笑みを浮かべる。その表情は少しうれしそうで、そのまま小さく返してきた。
「どうだった?」
「どうって言うか……何か難しく考えすぎてさ。お前の真似事しなきゃみたいな、変な使命感もあって。でも、最後には一瞬だけ素を出してくれた」
それを聞いて、柳井はまたうれしそうな笑顔になる。今度は満開とは言わないまでも、八分咲きくらいの笑顔だった。そのまま柳井は、嬉々とした様子で続けた。
「うん。分かった。それならたぶん、あたしたちが明日やることは一つだよ。とにかく気にせず、前みたいに伊月さんと仲良くすること。それが一番の近道だよ。てか、これが一番うまくいくよ。間違いなーい!」
何度も言うが、僕の頭は柳井と同じ速度で回ってくれない。同じ速度で回せる人のほうが変だとも思える。だが、それだけキレる頭脳を持つ柳井が、以前のように伊月と接することでうまくいく、そう自信を持って言っている。そして、僕は何度も彼女の頭の良さに驚かされ、困らされ、そして、助けられてきた。
だから今回、僕は彼女を信じてみようと思う。柳井の言うことを信じてその通りに行動する。以前の僕であれば、何か仕掛けられていると怪しんで、そのリスクを考え絶対にわたらなかった橋だ。そんな彼女を信じるということに、彼女との関係性が、誠とのそれに近づいてきているのを感じる。
だけど、その橋を渡れなかったのは、柳井麗美に恐れをなしていた僕のせいでもあることに気付いてしまった。だから、今の僕だからこそ、彼女との関係をそれなりに深くしていく覚悟が持てる。
それは何よりも、四人で過ごすあの時間を、居心地のよかったあの時間を、取り戻したいから。明後日からは、誠と伊月、柳井、僕の四人で笑いあっていたいから。
羽織先生は言っていた。僕は確かに成長していると。こんなことを考えるようになったことは、果たして成長なのだろうか。逃げとリスクヘッジを切り分け、必要な時には他人と向き合うようにすることが、先生の言っていた成長なのだろうか。そもそも僕という人間は、リスクヘッジというアイデンティティの殻を破って、果たしてどこに向かうのか。それが自分自身にすらわからない感覚は、絶妙なアンバランスで。こんな状態で、明日を迎えていいのだろうか。そして、伊月は、本当の伊月凛は、また僕たちに向き合ってくれるのだろうか。
疑問が尽きない僕を尻目に、野外活動はもう明日に迫っていた。




