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021.久しぶりじゃねーか

 ぷるるる、と無機質な機械音が繰り返す。柳井がどんな感じで電話に出てくるのか、あの黒く染まった悪そうな微笑みを浮かべたような声が返ってきたらどうしようか。そう考えると途中で電話を切りたい気持ちに襲われたが、誠が誠なりに背中を押してくれたことを考えると、その衝動を何とか抑えることができた。


『……もしもし』


 数十秒の待機音の後、柳井は電話に出た。基本的には上機嫌で明るい彼女だが、さすがに今日は聞いたことがないほどテンションが低いような声だ。あの何か良からぬことを企んでいるときと比べると、明らかに弱弱しい声だった。


「……僕だけど」

『……ボクボク詐欺? 新しいね』

「うるせえな」


 言葉を返すと柳井はクスリと笑ってくれた。それで何となく話しやすくなったような気がして、そのまま言葉を続けた。


「さっきは、その……悪かったな」


 僕は人間関係の何たるかを知らない。そこから逃げてきた人間だから。なので、この状況で声をかけられるとすれば、誠からそうしろと言われた謝罪、それしかかけられる声はなく、本能的に謝っていた。


『……ううん』


 柳井はそのまま続けた。


『本当に悪いのはあたしだよ。伊月さんのことばっかり考えて、瀬野くんの気持ちを全く考えてなかったね。反省してる』


 柳井から謝られる。そんな日が来るなんてこと、誰が予想できるだろうか。柳井麗美という存在は、僕たちが考えるその何次元も上から物事を考え、僕たちの起こす行動すらも掌握して思い通りに行動させることができる、そんな魔女じみた能力を持っている。だからこそ彼女はリスクヘッジ的観点から最大回避対象に入っていた。そんな彼女が、僕に謝ってきている。そんなことが起こるなんて、彼女が回避すべき対象であったからこそ、想像すらできずにいた。


『どうしたの? 黙っちゃって。おおかたあたしから謝られたのがショックなんだろうけど』

「……お前ほんと魔女だよ。怖いわ」

『でた最高の褒め言葉。ありがと』


 驚愕のあまり黙り込んでしまった僕に、柳井は低めのテンションではあるものの声をかけ続けてくれている。相変わらずの魔女っぷりについてしまった悪態も、しっかり受け入れてくれた。


『あたしね、昔からずっと一人ぼっちだったからさ。伊月さんが辛いのもなんとなく分かるんだ。瀬野くんからすればあたしに分からないことなんてあるのかよって思うかもしれないけど、人の本当の気持ちっていうのはどうしても分からないよね。人を思い通りに動かすことはできても、本心は分からないんだ。でも、なんとなく伊月さんが寂しがってるのは分かっちゃってさ。ちょっと伊月さんに肩入れしすぎちゃったみたい』


 普通の人は他人を思い通りに動かすことすらできないです。てか柳井が独りぼっちだったってどういうことだろう。なんとなく教室を見渡している限りだが、柳井にもそれなりに話す友人は他にいる様子だった。そして、それは精密機械にも似た思考能力を発揮する彼女が、感情によってその精密さを失うほど大きな何かを秘めているらしい。


 昔から一人だったってどういうことだよ。


 言おうとした言葉を、出かかったところで飲み込む。本能的に呑み込んでしまった。おそらくこれを聞くと、もっと柳井との関係性は深いものになり、誠とのそれと同等のものになるかもしれない。今の僕には、四人でいる時間を気に入ってしまった僕には、何の問題のないことであっても、いまだに僕の本能は柳井と仲良くなることを拒んでいる。柳井麗美という存在の底知れなさに屈服した本能が、彼女との関係性の進化を拒否しているのだろう。


『でも、瀬野くんは四人でいるためにどうしたらいいのか、客観的に考えて行動してくれてた。リスクヘッジがどうとか言ってた昨日までのキミには取れなかったはずの行動だよね。自分のために、なんて言ってたけど、それが結果としてみんなでいるための行動だった。だから、あたしが間違ってた。本当にごめんなさい』


 柳井は心底申し訳なさそうにしていた。それがなんとなくむず痒くて、自然と言葉をかけていた。


「おう。僕も悪かったよ。僕は……人と関わろうとしてこなかったから、口下手で、どうしようもなく不器用なんだと思う。だから、悪かった。もっとちゃんと僕らは話し合うべきだったよ」

『……うん。よかった。瀬野くんと仲直りできなかったら、明日からまたつまらない毎日だったよ。やっぱり瀬野くんは面白いからね』

「僕は毎日魔女の相手をするのは疲れるんだけど」

『もーつれないなあ。まあいいや……』


 一息ついて、柳井は力強く言い切った。


『瀬野くん、絶対野外活動の後にはみんなで笑っていようね!』

「ああ。そのために、僕は今から伊月に電話するよ」


 考えて言ったことではなかった。ふっと、勝手に口から出たような、そんな言葉だった。誰にも言われず、自分から。今年の、高校二年生の一年間で最大の回避対象と見ていた伊月凛に連絡を取る。その決意表明が、頭で考えるよりも早く口から出ていた。


『……うん。任せるよ。頑張ってね。それじゃ、また明日』

「ああ。またな」


 やっぱり、今の僕にとってあの時間、四人で過ごす居心地のいい時間というのが大切なんだ。だからこんな決断が、思考するより早く下せる。僕は口下手で不器用なのかもしれない。柳井が否定しなかったのだから、たぶんそうなのだろう。でも、だからどうした。とにかく思っていることを、全部伊月に言ってやる。そうして元の伊月に戻って、元の日常に戻るんだ。


 僕はこのまま迷わず伊月凛へ電話をかけていた。


 数分前に聞いた無機質な機械音が、数十秒を長く感じさせる。もしかしたら、伊月は電話に出ないかもしれない。そんな考えが頭をよぎる。あのお嬢様状態の伊月凛が、僕たちのことをどう考えているのか。でも、伊月は伊月だ。いくらお嬢様のように取り繕っても、力技で僕と関係性を構築した伊月凛は、柳井と言いあった後に野外活動の班を組んだ伊月凛は、あのみんなで出かけた思い出の中にいる伊月凛は、すべて同じ伊月凛なのだ。


『はい、伊月です』

「……僕だけど」

『あら、瀬野くん。今日は柳井さんと喧嘩するわ、無断で早退するわ、羽織先生がおかんむりだったわよ』


 あくまで口調だけで判断すると、伊月凛はやはりお嬢様モードだった。お前は僕と二人きりの会話でさえ、素の自分を出すことを拒むのか。そう思うと、無性にいら立ちが募る。何とかこの電話でだけでも、伊月の本心を聞きたい。それは、僕が、柳井が納得するのに必要なことだから。


「……なんで僕と柳井の喧嘩を止めたんだよ」


 話し始めて思ったことがある。この場は柳井に任せたほうがよかったんじゃないのか。誰かの本心を話させる、そういう心理誘導的な何かは柳井の十八番だ。だが思い出せ瀬野和希。柳井は電話を置く間際に僕に任せると言っていたはずだ。ならば、僕が電話をするほうが正解だということだ。あいつの計算機能が正常に戻っているのならば、だけど。


『えっと……他意はないわ。喧嘩が起こったら仲裁に入るのが正しいことだと思ったからよ?』


 思い出したならば考えろ。柳井麗美なら、相手の本心を吐き出させるときにどうするか。僕はいつもどうして柳井の手のひらの上で踊らされることになるのか。


「違うだろ」


 正解なのか分からない。だけど、いつも柳井からされているような気がすることが一つある。


「お前は……僕と柳井が喧嘩しているのを見てられなかった。柳井と僕が……お前のことで喧嘩してるのを見てられなかったんだよ。そうだろ?」


 それは相手の図星をつく、ということだ。ただ、今の僕のこれはカマをかけるというのに近い。だが、始業式の次の日に伊月と絡みがあったと柳井にバレた時は、カマをかけるという方法を柳井が取っていたのも覚えている。訳が分からなくなってきたけど、とにかく僕のやっていることは正解だと信じるしかなかった。

 少しの沈黙の後に、伊月が言葉を返してきた。


『……いえ、クラスメイトが喧嘩してたら止めに入るのが当たり前じゃない。私はその当たり前のことをしただけよ? そんなことが聞きたかっただけかしら? 今日の授業のこととかなら教えることもできたのだけど』


 伊月は明らかに話題を変えようとしていた。僕にも分かるほど声が震えていたから。


「お前な、そんな声で強がっても意味ねえぞ。僕でもお前が動揺してるって分かるけど」

『……電話、切るわよ』


 明らかに声のトーンが下がっていた。ようやく、素の伊月と会話することができたのかもしれない。だが、このままだとこれで会話が終わってしまう。でも、昨日までの素の伊月凛と会話するのがものすごく久しぶりな気がして。


「久しぶりじゃねーか」


 気が付いたらそんな声をかけていた。


『……ごめんなさい』


 伊月はまた低いトーンのまま言うと、そのまま電話を切っていた。


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