002.あなたの携帯番号を教えなさい
伊月凛は社長令嬢である、らしい。
もっと言うならば、文武両道で才色兼備、完全無欠のお嬢様である、らしい。
らしい、とわざわざ言うのは、僕が彼女と話したことがないからだ。無論、話そうとも思わないし、この三日間、話す隙も与えなかった。初めて同じクラスになってからの三日間の滑り出しは上々だった。
何が言いたいのかというと、僕からすれば伊月凛は絶対に避けるべき対象だ。何故なら、そんな完璧とも言える美少女と仲がいいなんて噂が校内に広まればどうなるか、というのを考えればおのずと分かるだろう。
校内の男子のほとんどからあこがれの存在として名が挙がりそうな彼女の事である。そんな噂が広がった日には、不良男子連中からタコ殴りにされ、オタク男子連中から個人情報をネットの海にばらまかれ、目立たない男子連中から無視されるに決まっている。校内男子ほぼすべてが全力を挙げて僕のことを潰しにかかってくるリスクなんていうのは、簡単に想像ができる。嫉妬は怖い。何をされるか分かったもんじゃないだろう。
だから僕は伊月凛と関係性を共有したくない。何事も普通が一番。僕は今まで通り目立たない男子連中の一員としての日常を望んでいるだけだ。
そのために、そのためだけに僕は伊月凛を無視して教室に戻ってきた。あからさまな無視ではない。愛想笑いはしないが、少しだけ頭を下げて、目も合わせず、そこに誰かがいるのは気にしているものの、あなたなんかには興味なんてないですよ、と暗に分からせる程度の無視だ。角が立たず、それでいて無視の理由を詮索されたり、文句を言われたりすることもない絶妙の塩梅。僕が十六年生きてきて会得した技術の一つだ。あといくつの技術を習得したかは定かではない。
誰もいない教室には机が四十近く並んでいて、そのうち二つの上には鞄が置いてある。一つは黒板を見て一番右の列の前から二番目。もう一つが自席の右から二列目の一番後ろの席である。
結論から言えば、迂闊だった。少しでも頭を回せばわかったはずなのだ。だが、職員室で致命的危機を回避した僕は油断していた。一つの油断が命取りとはまさにこのことだ。
もう一つの学生鞄が誰のものか気づいたのは、教室の扉を勢いよく開いた時の、緩衝材同士がぶつかる独特の大きな音がバンっと廊下に響いた、その時だった。
思わず向けた視線の先、そこに立っていたのは伊月凛その人だった。
その学生鞄の持ち主であり、忌み嫌うべきパーフェクトガールは、扉を開けた勢いからは想像できないほどに上品で、なおかつ繊細な佇まいで僕を見ていた。
その凛とした綺麗な瞳から放たれる鋭い視線が僕を捉えていて、次に小鳥の唄声のような澄んだ声が僕を襲った。
「あなた、瀬野くんよね? 瀬野和希くん」
「……そうだけど」
話してしまった。話したことのある人同士、という関係性ができてしまった。だが、ここで無視したとしたら、後が怖い。
社長令嬢の親はそこそこの会社の社長で、社会的立場の強い人物であることは間違いないだろう。そんな親に『瀬野の野郎にシカトされた』だなんて言われた日には最悪退学までありえてしまうんじゃないか、と咄嗟に判断して言葉を返したのだが、鞄を見た瞬間に教室を去るべきだったとの後悔は消えない。いつだって後悔は先立ってくれない。
「そう。私ね、あなたの事が面白いなって思って、羽織先生との話を途中でやめてあなたを追いかけてきたのよ」
いやほんとやめてください。頼むからこんな一般生徒Aみたいな僕に興味を持たないで。社長令嬢が僕にデフォルトで興味を持っていましたなんて、今時出来の悪いラブコメでもないんだからさ。
「……なんで伊月は俺なんかのこと知ってんだ」
「そんなことはどうでもいいのよ」
「よくねえよ、質問に答えろよ」
「知らないわ」
「なら帰るわお疲れさん」
「ごめんなさい、謝るわ」
うわあこの人どんだけ既に俺のこと好きだよ。プライド高そうなのに僕が帰るって言った瞬間に平謝りだよ。もう何なのほんとやめてくれ。明日からの学校生活が心配だからさ……。
「……まあいいわ。ほら、私って結構な美少女だと思うの」
「初対面の奴にそれを言えるってどういう神経だよ」
話題ぶっ飛びすぎだし、鼻高々で高飛車すぎだしな。なんか思ったよりこの女がバカすぎて考えるのが面倒になってきたくらいだ。黙っていれば綺麗でクールな社長令嬢なのに。
「それに社会的立場も高いと思うの。一応、全国展開してる外食チェーンの社長の娘だし」
「それ、お前がすごいんじゃないからな」
「いちいちうるさいわね」
いちいちツッコミを入れる僕も物好きだと思います。本当はあなたとは話したくないのです。ひょっとして伊月の掌の上で踊らされてる? 何それ怖い。
「学校の成績もすべての教科で上位三位以内を外したことはないし、去年の体育祭では陸上部の子より速く走って一年生女子の短距離総合優勝をしたわ」
陸上部の子がかわいそうだな。てか成績全教科一位じゃないのかよ。まあ頭を使うことで柳井に勝てる奴なんていないか。
「それであんたは結局何が言いたいんだよ……」
突然の自慢話に辟易として、苛立ち交じりにもれた言葉だったが、伊月はお構いなく上から言葉を投げ落とす。
「男子なんて言う下賤な生き物はね、大体私に色目を使うわ。多かれ少なかれ、ね。女子も同じ。完璧な私に媚びへつらって、意味のない承認欲求を満たそうとするわ。でも、あなたは私と目も合わせようともしないし、会釈もしなければ挨拶もしなかった。けれど変に頭は下げてたわ。それが、どうしてもその気遣いが本気で私を嫌がることを隠す言い訳のように見えてしまって。もしそうだとしたら、ここまで初対面で私を拒絶した男の子はあなたが初めてだったのよ」
馬鹿かと思っていたが、意外に鋭かった。さすがうちの高校の学年三位以内。回せる頭は持っていて、その回転は非常に速いらしい。だが、この状況で問題なのはそこじゃない。
「で? なんでお前は嬉しそうなんだよ。普通シカトされると凹むもんだろ」
「当り前じゃない。ようやく私のことを社長令嬢って見ない人に出会えたんだから」
言っている意味が分からない。むしろ僕は伊月のことを完璧超人の社長令嬢としか見ていないから警戒し、なるべく話さないようにしていたのに。
「いや、僕はもともと伊月のことをそうとしか思っていないけど。自分で言ってたけど、あんたは男子、いや全校生徒の憧れみたいな存在だからな。そんな奴と仲良くしてたら周りが敵だらけになっちまって学校来たくなくなるだろ」
「確かに。私の魅力がみんなをそうさせるのなら、それは罪な話ね」
この女どんだけ自分に自信があるんだよ。笑い取ろうとしてるんじゃなくて、本気で言っちゃってるからね。この女。
「でもね。うまく伝わってないようだから言うのだけど、大半の人間が私のことをアクセサリーか何かだと思っているのよ? 凛ちゃんと出かけたよ、伊月さんと話したよ。そんな自慢が毎日どこかしらから聞こえてくるわ。でもあなたは、本当に私のことを嫌いだと思っているかもしれないけど、それでも私が傷つかないように、一人の人間として扱ってくれたわ。私はそれがうれしくて、でも本当に嫌いならそれこそ完膚なきまでにシカトしてくれてもよかったのに。だから面白い人だなって」
なんかいきなり褒められて、少し顔が熱を帯びているのが分かる。僕と同じくらいの年齢の男子なら、こんな美少女に何の前触れもなしに褒められればこうなってしまうだろう。僕の存在証明たる人間関係におけるリスク管理すらも忘れて、一気に惚れてしまいそうになるレベルの出来事だ。
「……なら僕も上手く伝わっていないようだから言うわ」
冷静に立ち返り、冷徹を装う。できてしまった関係を壊してしまうためにはこれしかない。伊月凛と少し話したからと言って仲良くなりたくはないし、無論彼女を泣かすようなことは論外だ。
この関係性だけを消して、元の日常に戻るにはこれしかない。
「あんたが悪いわけじゃないから、あんたのことも嫌いだとは言わない。ってか嫌いだって思うほど仲良かった覚えもないしな。でも、そのアクセサリー連中が僕の平穏を壊すことだけは避けたい。だから、今日この場のことはなかったってことにして、全部元通りにして月曜から普通に過ごそうぜ。な?」
このこと自体を無かったことにする。なるべく冷徹に徹して伝える。そのうえで、自分の思いの丈も伝え、好意を向けてくる相手には、以前より比較的好意的に接しておく。だけどこんな理由があるから、学校では話さないで、見た目だけは元に戻して、今日起こったこと全てを水に流そう。これが僕の用意した最終手段だ。
「……なるほど。そういうことなのね。言いたいことは分かったわ」
「分かってくれたか。ありがとな」
「だから、あなたの携帯番号を教えなさい」
駄目だこの女、全く分かってねえ!
「おい、あんたの携帯番号ゲットしたなんて噂が立った日には、僕最悪刺されるぞ」
「何でよ。この場にはあなたと私。二人しかいないのよ。つまりあなたか私かが誰かに話さない限り、そんな噂は立たないわ。それに、今のって私と仲良くするのもやぶさかではないって意味で、学校で話したくないから、放課後帰ってからリンクトークや電話をするしかないってことでしょう?」
めっちゃポジティブに解釈されてた件。やっぱりこの女馬鹿なのかなあ。
「お前馬鹿なのか?」
「いいえ? 私は天才よ?」
「いやお前馬鹿だろ」
「馬鹿と天才は紙一重っていうでしょう? あれって、天才は凡人から見ると馬鹿にしか見えないって意味なのよ。凡人さん?」
なんだその解釈は。あんた確かに天才かもしれんよ。まったく違うベクトルで。
その日、抵抗もむなしく、僕の電話帳には伊月凛の名前が加わっていた。