018.君はちゃんと成長している
昼休みとは戦争である。
皆が自分の満足する昼食を求め、食堂へ殺到する。僕もその例にもれず、いつも適当に買う菓子パンを買いに食堂へやってきていた。食堂へ入ると右手側が三つのエリアに分かれていて、食券コーナー、弁当コーナー、パン・惣菜コーナーとなっている。
誠は我らが星洋高校名物で、大盛りのおにぎりとから揚げが食欲を掻き立てる通称おにから弁当を買うために弁当コーナーへ、柳井も適当な味のおにぎりを二つ買うためにパンと惣菜のコーナーへ向かっていた。
その奥は食券を購入した際の配給エリアになっていて、左手側にはテーブルがずらりと並んでいるが、昼の食堂は騒がしいので、僕たちはいつも教室に戻って食事をとっている。
僕はこんな戦争にも似た争いでいざこざを起こさないように、いつもはある程度人が減るのを待ってから適当に菓子パンを買って帰る。なので、今日もパンコーナーの人混みが減るのを眺めていたら、後ろから右手首の袖口をつんつんと引っぱる人物がいた。
「あー……何だ。たまには食事でもどうだ」
うわー萌えねえ。全然萌えねえ。
年頃の男子的に言えば、女子、しかも小柄な女子からこの行為をされるとこう胸に来るものがあるものだが、羽織先生にそれをされても全く何も思わない。てかとても残念な気分になるまである。
「そうか……あれだな。君は今とても失礼なことを考えていないか」
「いや、特には」
失礼なことではなく当然のことを考えていたので、僕はさも当然のように言葉を返す。羽織先生に萌える日なんて永久に来ないだろうし、そんな日は来てはいけないのだ。
「そうか……いいか。ならいい。もう一度言うが、たまには食事でもどうだ。私はここのラーメンが気に入っていてな」
「いや食堂のラーメン不味いでしょうに」
明らかな化学調味料のとんこつ味とコシの無い麺。味が染みていないもやしに、やっつけで乗せられたきくらげが特徴の学食ラーメン。一度食ったら忘れられない美味しさだ。もちろん悪い意味で。
「そうだ……いや……違うな。君はマクフライバーガーが旨いと思うことはないかね。あれと同じだよ。ジャンキーな味に飢えるときがあるだろう。今日がその時なんだ」
昼飯前に昼飯の話を羽織先生とするというわけのわからないシチュエーション。ただ、僕自身も羽織先生と話したいことがなかったか、と聞かれれば、答えはある、だ。
先生が昨日、伊月に何を言ったのか。
それを聞きたいと思っていた。今日の午前授業中、柳井よりは全然回転数は少ないかもしれないが、それでも僕は考えた。伊月から離れるのもいいかもしれない。しかし、このまま離れようとするとどうにも心がモヤモヤする。やはり伊月には元通りになってもらうのがすっきりする気がした。
だから、そのために何をすればいいのか。ずっと考えていたが、柳井の言う通り現時点で僕たちにできることというのは非常に少ない。伊月には家庭での立場もある。いけしゃあしゃあと何も考えずに手を出していい問題ではないのだ。
だから、まず羽織先生に昨日何があったのかを聞きたかった。
「まあマクバが旨いとかどうとか知りませんけど、とりあえず今日はご一緒しますよ」
「そうか……そうだな。すまないな。ラーメンでも奢るよ」
「いりません」
ひとまず僕は誠に今日は学食で食べると告げた後、食券を購入し、昼食にありつく。羽織先生は宣言通り不味そうなラーメンを、僕は無難に無難な味のカレーライスを購入した。てかカレーが菓子パン二個分の価格だった件。昼休みに担任と飯食って普段の倍の金を使うと言う、字面だけで見れば全く無駄でしかない行為だなあ。
「まあ……あれだ。昨日は悪かったな。生徒に弱みを見せてしまうなんて、私は先生失格だよ」
ひとしきりラーメンをすすり、あらかた食べ終わった羽織先生が口を開いた。学食のテーブルをはさんで飯を食っていたが、先生が言葉を発するまで、僕たちは全くの無言で食べていた。
「まあ何というか、先生も辛いんだなあとしか。全然気にしてないっす」
「ああ……そうだな。そうだよ。先生も辛いんだ。まあいい」
先生は珍しく眼鏡を外し、紙ナプキンを一枚とり眼鏡を拭き始める。眼鏡をはずすと意外と美人でびっくりしたが、目が死んでいるためもったいない。ん? 誰かにそんなこと言われた気がするな? とすると、この残念な気持ちもブーメランなのか。もう少しちゃんとしようかな僕。
「その……あいつだ。あれだ……伊月の、今日の伊月の様子はどうだ」
「それ聞くために僕呼び止めたんですか」
だとしたら馬鹿にしている。何故か湧き上がる怒りのような感情。その発生源をたどると、どうにもモヤモヤしてその先に進めない。
「いや……違うな。すまない。言い方を間違えた。すまんが、伊月は元の状態に戻ってしまったようだな」
「ええまあ、そうですけど」
羽織先生は先生なりに言い方を選んで僕に告げたようだったが、微妙に言い方を選びきれていない。まあ先生が日本語苦手なのは今に始まったことじゃないので、僕はひとまず先生が言葉を選ぶそぶりを見せてくれたおかげで、よくわからない所から一瞬湧いた怒りのような感情を鎮めることができた。
「むしろ前よりちゃんとしたお嬢様って感じになったような気もします」
「そうか……だろうな。そうだろう。昨日、私も直接伊月の親御さんと話をした。学校に電話がかかってきてな。それで……あれだよ。どうも休日の夜間に星洋町の駅から友人と群れてはしゃぎながら自宅に戻る伊月を見たという話が親父さんに伝わったらしくてな。私もこっぴどく怒られたよ」
それはおそらく、僕たちが伊月の登山靴を買いに行った時の話だろう。しかしあれはまだ夜の七時くらいだったし、まだ夜と言われるには早いような時間だったような気もする。まあそんな時間の基準なんてのは家庭によってバラバラだろうし、考えても無駄か。
「それで……あれだ。昨日私もいつもよりは厳しく伊月に話をしてしまったが、その時はまだいつもの伊月でいると言っていた。しかし……しかしな。そのあとあの調子のオヤジさんと話をしたのなら、伊月がああなるのも納得できる」
「で、それを僕に話して先生は何が言いたいんですか」
昨日、職員室で羽織先生と話したときに、柳井がしきりにこの質問をしていた。その理由がなんとなく分かる。僕につらつらと柳井の家庭の事情を言われたからと言って、それで何が変わるわけでもないからだ。本当に先生の言うことは的を得ない。
「そうか……そうだな。君も柳井も勘違いしているようだが、私は一言も伊月をこのままにしておけ、なんて言ってないんだ。君達の好きにするといい、と言っている。そのくらい、君はさておき柳井なら気付くと思っていたんだが」
僕たちの好きなようにしろ。言われてまた、心の奥の靄が一段と濃さを増す。
僕はどうしたらいいんだろうか。このまま伊月と離れるのが正解だと、リスクヘッジに研ぎ澄まされた僕の頭は言っている。しかし、それに対抗して僕の心は、四人でいる時間がとても楽しいと叫ぶのだ。
「先生」
「なんだ……どうした。何だ、いきなり改まって」
そのギャップが苦しくて。僕は気が付けば羽織先生に話をしてしまっていた。
「僕は……伊月とは仲良くしたくないと考えています。やっぱりあんな、僕らとはすべてが違う社長令嬢と仲良くはしたくない。リスクが高いんです、あんな人と仲良くなるのは。でも、僕は伊月と誠と柳井、四人でいる時間はとても楽しいって思っている。先生は僕の好きにしろって言いますけど、今の僕にはどうしたらいいか分かりません」
聞いている先生の顔は、普段のやる気のない死にそうなそれから、どんどん柔和なものに変わっていた。そして、初めて見るかもしれない先生の微笑みを見ている視界が、少しだけ、ほんの少しだけうるんでいるのも感じた。それから、つつっと液体が頬を伝う、一筋の感触も。
「ほう……そうか。君が、君ともあろう人間が他人のために涙を流すか。それは君の成長だろうな」
なんで。どうしてあふれる涙。伊月とはできれば離れてしまいたいのに。柳井とだって一緒にいたくないのに。それでも。それでも僕は四人でいる時間を、ここまで気に入ってしまったのか。
「いや……その何というか……考えたんですけど、それでも僕はそんな力を持つ伊月のオヤジに歯向かうリスクはとれないと思います」
「そうか……そうだな。君はいつだか、そのリスクヘッジにこだわる姿勢こそが君のありのままだと言っていたが、やはりそうなのだろうな」
涙の理由が少し分かった。それは、別に伊月と離れてしまいたいとか、四人の時間が好きだとか、そういうものじゃない。
単純な無力こそが理由だ。
リコーダーを奪った罪を擦り付けられた彼に、何をしてやることもできなかった無力。それどころか、いじめに加担してしまい、リスクヘッジという言い訳まで作り上げた無力な自分。無様にも僕は、その無力に気付いてしまった。
だから、だからこそ。僕は伊月のオヤジに立ち向かうことができない。屈服することしかできない。社長令嬢というリスクを身にまとった存在である伊月から、自然な流れで離れられるなんて言い訳をつけて、目の前に立ちふさがる巨大な壁から逃げているだけだ。
「そうじゃないです。単純に、僕に力がないから。……だから逃げている。伊月凛という存在から逃げている。それだけだと思います」
僕の言葉を聞いて、先生はうーん、そうか、とまた唸り始める。が、その顔はほころんでいた。
「そうだ……そうだよ。そこまで分かっているのならば……そうだな。むしろ君が本当にやりたいことをやる、守りたいものを守る。それで……そうだ。それでいい。そうしようとしないから、その迷いは消えないんだよ」
羽織先生の言う通りだと思った。ここまでまっすぐに先生から心を刺されたのも、初めてのことだと思う。
「どうにも……そうだな。私には手出しができないこともあるが、君ならそこに手を出せる。あとは君が……そうだな。考えるようにすればいい。勇気を持て、少年よ。君はちゃんと成長している」
先生は言うと立ち上がり、ポンと僕の肩を左手でたたき、そのまま食器を返却口へと運んで食堂から去っていった。




