017.だめだめぽんの元の木阿弥だよ
今日の柳井は本当に疲れているらしく、あのお嬢様モードの伊月を見ても、特に『にひっ』とか『にへっ』の一言もない。もし伊月がこの感じで教室に現れていたら、柳井がまた暴走すると覚悟を決めていたのに、それは肩透かしに終わってしまった。代わりに柳井は伊月の様子をつぶさに観察しているようだった。つられて僕も伊月のほうをなんとなく見てしまう。
「凛ちゃんおっはよーう。今日も綺麗だねえ」
ちょうどバカ松尾が細川を引き連れて、自席に腰掛けている伊月に声をかけていた。いつもなら松尾が言葉の暴力と物理的な制裁を喰らうところだが、
「あら、ありがとう松尾君」
と一言笑顔で告げ、そのまま元通り正面に向き直った。
「え、何凛ちゃん。今日何か変くない?」
「よしなよ。いい加減愛想つかされたんじゃないの?」
「え! まじかよ……」
松尾はがっくりと肩を落とし、細川が自席に戻るのについて歩いて去っていったが、別に愛想を尽かされたわけではない。伊月の奴が元に戻ったのだ。いや、昨日の放課後から今朝までに羽織先生から、あるいは親父さんから何か言われて僕ら全員が愛想を尽かされた可能性は否定できないけどね。
「瀬野……くん?」
聞きなれないクールな声に視線を上げると、川村が立っていた。人類の神秘を感じさせるクールビューティの象徴は、僕が顔を上げたのを見て言葉を続けた。
「あれはどういうことなの? うちの相方が困っているんだけど」
「えっと……川村さん? なんで僕に聞きに来たの? 僕も何でああなったかは知らないけどさ」
「いや、知ってる。あたしも瀬野くんも、事情は知ってる。知ったうえで、どうしたらいいか困ってるんだよ」
柳井が言葉を挟む。川村さんに言われて伊月の左隣の席に座る相方、つまり加藤さんのほうを見たけど、手にピンクの小さな可愛らしい包みを持ったまま、伊月に話しかけていいのか迷っている様子だった。
「ふーん。なかなか難しいのね、あの子。君らに聞けば何か分かるかと思っただけなんだけど。伊月さん、明らかに変だから」
川村さんは言い残して、加藤さんの一つ後ろの自席へ戻る。
どうやら今日の伊月は、松尾や川村さんから見ても伊月はおかしく見えているらしい。そんなの、僕たちから見たら違和感ありありなのは当たり前じゃないか。てか、何があってお前は元の状態に戻ったっていうんだ? 僕たち四人で過ごした時間が久しぶりに楽しかったんじゃないのか? 本当の自分を見ると誓った、少なくとも柳井と誠の前では、自然体で振る舞うんじゃなかったのかよ。
考えてるうちに腸が煮えくり返ってきて、僕はリスクヘッジがどうとか考えられないくらいにイライラを募らせてしまう。感情に任せて危機管理を怠るなんて言うのは一、二週間前の僕が見たら絶望してしまうような行動だが、なぜか今の僕はそういう選択肢を、深く考えずにとってしまった。
気づいたら自席を立ち、右前方の伊月の席を目指し前進していた。
「瀬野くん」
そんな行き場のない、どこから来たのかも定かでない怒りにまみれた僕に、声をかけたのは柳井だった。何かを考え、正解を導くために頭を回す際の柳井の低音に、ふっと意識を現実に戻される。僕は柳井から二歩ほど歩を進めたところで、そのまま歩くのをやめてしまう。
そう。柳井は冷静だった。
このまま僕が感情のままに行動しても、いい結果は生まれない。それは柳井が思うがままに行動しても同じことなのだろう。だから柳井は悩んでいる。柳井ですら悩んでいるような問題に、僕が感情のままぶつかっていい結果が残るだろうか。
僕は歩みを止めたまま固まってしまっていたが、数秒の後、ちっ、と柳井が舌打ちをするのが聞こえた。それを聞いて再度現実に戻った僕の意識は、僕の固まっていた身体を自席へと戻した。
「瀬野くんごめん。キミの気持ちもすごくわかる。あたしも伊月さんに言いたいことがめちゃくちゃある。だけど、伊月さんの気持ちも何も考えないで、あたしたちが吐き出すのは違うと思う。もしかしたら伊月さんだって苦しんでるかもしれないしね」
柳井はここまで言うと言ったん深呼吸し、いや、苦しんでろよバカ、と小さく続けた。僕にはそのつぶやきの意味が分からなかったが、きっと柳井にとっては重要な意味があることなのだろう。
「おう柳井、まだここにいたか。伊月も登校してきたみたいだが……どうなんだ?」
三浦さんとかいうマネージャーとの用を終えたのか、誠がこのタイミングで戻ってきた。
「だめだめぽんの元の木阿弥だよ」
誠の問いにできるだけ明るく装って柳井は返した。確かに誠は生真面目ないい奴だ。しかし、ここであまり深刻な感じにするとまた例の余計なおせっかいが発動しかねない。だから、柳井は瞬時に判断してその空気を消したのだろう。その決断の速さはさすがだ。
「なんだよ元の木阿弥って」
「いや、なんか先週くらいまでのお嬢様モードに戻ってんだよ。ま、羽織先生の様子だと昨日きついこと言われたみたいだし、一過性の様子見って奴じゃねえか?」
その判断には僕も賛成なので、事態の深刻さを隠すように柳井の敷いたレールの上に乗っかった。誠に嘘をつくような行為は胸が痛んだが、伊月のことを考えるとこの判断はやむなしだと思う。
さて、どうしたものか。
僕は元の伊月と誠、柳井と僕の四人でいる時間は気に入っている。誠にも話をしたし、それは認めよう。だが、柳井と伊月の二人との関係性については、やっぱりリスクが高くてまだ認めるのが難しい。そして伊月はこうなった。
危機管理的な視点から考えると、このまま伊月とは離れてしまってもいいんじゃないか、むしろそうすべきなのではないかと思う。実際それが正解だろう。今はここまでできてしまった関係性を無に戻す千載一遇のチャンスだと思う。
だけど、まことに遺憾ながら。僕の気持ちはそう決断しようとすると、何か良くわからないモヤモヤした感情に支配されて、そちらに舵を切らせてくれないのだ。
「いや、ほんとにさ」
モヤッとした脳内で思考を巡らせている間に、誠は伊月の二つ後ろの自席に戻っていて、それを確認した柳井がまた言葉を吐き出す。
「言いたいことがありすぎてさ。中途半端にあたしたちと仲良くすんなとか、曖昧な決断してんじゃねえとかさ。でも、これを言っちゃったら伊月さんはもうあたしたちのとこに帰ってこないと思うんだ」
「……そりゃそうだろ」
僕の適当な相槌を聞いて、柳井はだよね、と笑いまた続ける。
「本当に、あたしも瀬野くんと同じだよ。すっごくイライラしてる。でも、今すぐにあたしたちができることって何もないじゃん。だから、もう少しだけ様子を見て、何とか金曜日には元通りにして、野外活動は楽しくやりたいって思うよ。だからもう少し、様子を見よう?」
柳井の顔は、僕の相槌に笑った素の笑顔から、どんどんとどす黒くなっていき、その言葉も自分に言い聞かせるように小さくなっていった。
そうだ。何も今すぐどうにかすることじゃない。もう少し様子を見て、それから答えを出せばいい。伊月の関係性をどうするのか、四人でいる時間を受け入れるのか。それも含めて、じっくり答えを出せばいいんだ。
どうにも日本人的発想だな、と自虐の言葉を思い浮かべていると、始業を知らせるチャイムが鳴った。




