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015.あたし迷ってるよね?

 僕は昔から人と関わることが苦手だった。それでも小学校高学年より前までは、皆と同じようにそれなりの数の友達がいた。


 よく覚えている出来事がある。その友達の中の一人が、ある日から壮絶ないじめに遭い始めた。当時のクラスのヒロインのリコーダーを盗んだ、といううわさから始まったと記憶している。まあ、クラス全員の総出を上げた酷い仕打ちだった。


 僕はそれをただ眺めているだけだった。いじめに加担もしなければ、わざわざ彼を救いに行くような愚かな真似もしない。彼をいじめるほかの生徒と違ったのは、もしこの行為の次の標的が自分であったなら、というのを想像できた点だ。それを想像する限り、僕はそんなひどい行為に協力することもできなかったし、また彼の代わりにその標的へすり替わる勇気もなかった。


 ある日、クラスのリーダー的な立場のガキ大将から、登校前の彼の席に花瓶と、新しくなったヒロインのリコーダーを置いておけ、と言われたことがある。お前が彼をいじめているところを見たことがない、実は裏で仲がいいんじゃないか。体育館の裏に呼び出され、ガキ大将とその取り巻き五人くらいに囲まれて、その命令を聞いた。


 おそらく僕が人生でリスクヘッジを意識したのはこの瞬間だったと思う。もちろん当時はそんな単語知らないが、いざ僕がイジメられている彼と同じ側にまとめられそうになったとき、得も言われぬ恐怖と後悔を感じた。

 まずい。次は自分が標的になる。自分が毎日クラス全員からいじめられるなんて考えるだけでゾッとするし、嫌だ。なぜそうならないための行動をしてこなかった、と。そうならないための行動こそが、今の僕から言えばリスクヘッジだ。


 翌日、僕は早朝に登校し、ガキ大将の言う通りにした。

 言う通りにしながら感じたことは、自分以外の人間がどれだけクズであるかということ、そのクズの言う通りにする自分もクズだということ、そしてそのクズからつかず離れずの無難な位置をキープし、出る杭が打たれない最適の位置でこれからは生きていこう、ということだった。クソみたいでつまらない人間関係は断ち切って、自分を守るために、自分が危険に身を置きかねない原因は全て潰していこうと思った。原因がなければ結果は生まれない。


 僕がリスクヘッジについて明確に意識し始めたのが、この日以降だったのを覚えている。で、それから中学生活でいろんないざこざを回避しつつ、リスクヘッジの何たるかを体感しながら学んだエピソードを数多くこなし、この同じ校区のクズどもから離れるために進学校に入った。あれから大体五年たった今では羽織先生からリスクヘッジの鬼かと言われるほどになってしまった。まあ、中学時代もいろいろあったから仕方のない話だと思う。


 話を戻す。


 その日は特に伊月とすれ違うこともなく、柳井とそのまま校門を出た。どうやら帰宅する方向が一緒らしく、特に話すこともないので僕は柳井の十歩ほど後ろをつかず離れずで歩いていた。学校の正門から星洋町駅までまっすぐ伸びる大通りを縦に並んで歩く。柳井も特に歩きを速めて僕の前から去るなんてこともしないし、僕もこの距離を維持してしまうのは何故だろうね。


 いや、なんとなく理由は分かる。羽織先生の話を聞いてから、僕の頭の中にはある悩みが浮かんでいる。

 このまま伊月凛との関係性を維持していいのか、という問題だ。それを考えていたら、いつの間にか思い出に浸ってしまっていた。浸るような思い出でもないけど。


 伊月は僕が思っていた以上に社長令嬢だった。まさかあそこまでの徹底ぶりを父親から敷かれていたというのは想像しなかったし、伊月がただ一言で両親とうまくいっていない、と軽めにしか言っていなかったことでさらに連想しづらくなっていた。僕に柳井並の頭脳があれば可能だったかもしれないが、僕自身はここまでのお嬢様っぷりは想像していない。


 そんな絵に描いた以上のお嬢様とつながりを持つリスクなんて、以前の僕ならバッサリと捨て去っていただろう。だけど、禁断の果実の味を知ってしまった僕にはそれができない。伊月、柳井、誠と僕。四人で過ごすときは、なんだか居心地が良くて楽しいのだ。この三人との人間関係は、絶対にクソみたいでつまらないってことはない。むしろ自分を高揚させてくれることが多い。


 四人で過ごすときを受け入れるべきなのか、あるいは伊月凛との関係を絶つか。この問題が僕の胸の内をもやっとさせていて、なんか柳井にさえも吐き出してしまいたい気分なのだ。だから、なんとなくこの距離感のまま歩いてしまう。


 おそらく柳井は僕の考えとは全く違った悩みを抱えているし、全く次元の違うスケールで物事を考えているはずだ。その上でこの距離を維持する理由は、たぶん柳井も僕に話したいことがあるのだろう。

 そんなことを考えながら柳井の後姿を眺めていると、彼女はぴたりと歩くのを止め、僕に振り返り言った。


「ねえ瀬野くん。あたし迷ってるよね? いや絶対迷ってる。どうしよう」


 柳井麗美という女は、いつだって最速で最適解を導き出す並外れた頭脳を持っていると思う。その柳井が迷っていると言うが、そんな事言われても僕に協力できることはないだろう。僕に答えを求めないで。僕はあなたの満足できる答えを用意できるほど頭もよくないし、そんな人のいい答えも出せないと思うよ。


「ねえ、聞いてるの? あたしすごく迷っちゃっててどうしたらいいか分からないや」


 柳井に合わせて数秒足を止め、また歩き出した僕と今度は並んで歩くようにして、柳井が声をかけてくる。


「……らしくねえな。さっき羽織先生に宣戦布告じみたこと言ってたじゃねえか」


 そうだ。柳井はさっき、先生の言うことは正しくないと思うからやりたいようにやる、と言っていた。それは柳井が導き出した正解があったからこそじゃないのか。


「いやーそういわれると弱いんだがね。でもあたしはみんなでいる時間が楽しいし面白いから、伊月さんにもずっと今のままでいてほしいと思うよ」


 柳井の顔から笑顔が消えている。いつだって笑顔を絶やさない女だ。その笑顔が美しいものであるか、どす黒いものであるかの違いがあるが、基本的にはいつだって笑っているような柳井から、笑顔が消えた。


「だからって、あたしはそのために行動してもいいのかな? それが逆に伊月さんの迷惑にならないかな?」


 柳井は本当に人のために行動できるヤツなんだろう。

 いつだったか、柳井は自分の起こす行動は基本的に僕のためになる、と言っていた。そして、今は自分の都合だけでなく、ちゃんと伊月のためを考えて行動できている。それは僕にはできない。僕はいかに自分にリスクが降りかからないようにするか、しか考えていなかった。


「……そんなの、本人に聞かなきゃわからないだろ」

「うんまあ、そうなんだけどさ」


 でも僕には、やっぱりそれしかない。どれだけ四人でいる時間が楽しくて、面白かろうとも、伊月の父親まで出張ってきた今、伊月と今のままの関係を保つのは得策じゃないと思う。僕は子供のころから生きてきた道に、また従おうと思う。


「まあ柳井、お前はお前でやりたいようにやればいいと思う。でもそれに僕まで巻き込むのはやめてくれ。僕はいつだって傍観者なんだ。やるなら柳井一人の力で、な」

「傍観者? リスクのかからない場所に引きこもるだけじゃないの? まあいいや。ありがと。あたし、やっぱりやりたいようにやるよ。そのほうが面白そうだし。じゃあね! また明日!」


 言い残すと柳井は駆け足で僕の前から去っていった。

 心の奥に何かもやっとしたものが、一緒になって残っているような気がした。

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