3.ユエパイ
後ろから腕を伸ばし青年の手から手燭を抜き取ると、体をすべらせるように女性が部屋の中へと入ってきた。
しなやかな動作で身を竦ませたままの彼女へ近づくと、腰を落とし艶やかに笑う。
綺麗にまとめられた黒髪。ふわりと漂う魅惑的な香り。手燭の灯りに映し出された瞳は青く、美しく彩られた赤い唇と対照的だった。
「あたしの名はメイランよ。ねぇ、お腹はすいてない?」
唇と同じ色合いに染められた長い爪が、彼女の腕を優しく撫でる。
「何か温まるものでも持って来ましょうか」
そのまま滑り降りたメイランの指先が自分の指先に触れ、視線が落ちるのを見て、やっと彼女は自分の指先が――全身が震えていることに気づいた。
慌てて指を引き抜き、両腕を抱え込むようにして壁に背を押し付ける。
「ここは、どこだ。僕をどうするつもりだ?」
彼女の発した言葉にメイランはわずかに眉を寄せ、後ろの青年を振り返る。
「そんなに警戒しなさんなって」
緊迫した雰囲気に青年の笑いを含んだ声が重なる。
「俺はシューホン。この町へ来る途中の河岸で、びしょ濡れで倒れてるおまえを見つけた。別におまえのことをどうにかするつもりはねぇけど、倒れてるのを放っておくわけにもいかねぇだろ。だからここへ連れてきた。それだけだ」
そう言って肩を竦める。
「――で。俺からも聞きたいことがあるんだが? おまえの名前。倒れてた理由。それと……」
ちら、とメイランへ視線をやって、
「なんで『僕』なわけ? おじょーちゃん」
二人の視線が彼女へ集まる。
壁に押し付けた背をいっそうきつく押し当てて、コクリと唾を飲み込んだ。
どう、答えればいいのだろう。
「名前だけでも……教えてくれない?」
困ったように笑みを浮かべるメイランへ、わずかに首を振る。
「……か……ない」
「なんですって?」
「わから……ない」
メイランはふたたび背後の青年を振り返った。
「つまり……記憶がねぇわけだ」
名前も、河岸で何があったのかも、なにひとつ覚えていない。
二人に無理やり布団へ押し込まれた彼女は小さく頷く。
気がついたときには、この部屋でこの布団に寝かされていた。
シューホンは床にあぐらをかいて座り込み、何かを考えるようにして俯くとがしがしと頭を掻く。
何か食べものを持ってくると言って部屋を出たメイランは、まだ戻らない。
「仕方ねぇな。覚えていないものを話せっつっても話せるわきゃねぇし……ま、しばらくはここでやっかいになってりゃいいさ」
何があったのか、記憶はいつ戻るのか。そういった気にかかる何もかもはまず、体の調子を取り戻してからだと彼は言った。
「ま、ともかく……あー……。名前がないと呼びにくくてしかたねぇな」
小さく舌打ちしたシューホンは、顎を撫でるようにして考えると、
「……ユエパイ。ユエパイでどうだ」
ユエパイ――月が青白く輝く夜を意味する言葉。
それは彼が河岸で初めて少女を目にしたときの印象だった。
河岸でこの青銀の髪を見たときには、初めて見る色合いに一瞬の戸惑いを感じたが、けれどその髪を美しい色だと思ったのも事実。
そして折りしも今日は夜空に青白い月が輝いている。
だからシューホンは、その色合いを示す名を少女へと贈ったのだった。