<序章>
「逃げろ!」
男は叫んだ。
月明かりの元でその声を耳にしたとたん、自然に体は男へ背を向け駆け出す。
それが彼との永遠の別れになると予感していながら、それでも彼女は男の言葉に従った。
自分だけでなく、男も同様に傷だらけで無数のそれから血を流していても、男は彼女に言ったのだ「逃げろ」と。
男がそう言ったときには自分の存在が邪魔であり、彼の足手まといになるということを、今までの狩りで経験済みだ。
だから彼女は走った。胸のうちに浮かんだ、恐ろしい予感を振り切るように。いつものように狩りを終えた男が自分を捜し出してくれると、そう信じて。
やがて彼女の背後から恐ろしい音が聞こえた。
思わず立ち止まり振り返る。
そして視線が合ったのは、彼女が望んでいる色ではなく、月の輝きをはじく闇色の瞳。
馬よりも大きな体躯をした、漆黒の妖獣。
狼とよく似た獣は、けれどその大きさで異様な存在だと知れる。
まるで月のない闇夜に足を踏み入れたような錯覚を起こさせる巨躯。
足元にはこちらを睨むように目を見開いた男の、哀れな姿。
幼い頃から陽の元でも闇夜でも、人より見晴るかすことのできるこの瞳を、いまは恨んだ。
全身から流れ出る血と、引き裂かれた男の痛みとを我が事のように感じて、目の前がグルグルと回り足が震える。
荒くなった呼吸が不自然に吐き出され、次の瞬間にはそれを体へ取り込むことができなくなっていた。しかしそのことにさえ気づかぬように、彼女はそこに立ち尽くしている。
やがて。
次の獲物に向けて疾走しようと、獣は前脚を軽く折り身を沈めた。
ビュウ――。
獣の風を切って疾走する音が彼女の耳に届く。
もうだめだ、と。
心の中ではそう思っているのに、くるりと身を翻した体は、『生き物』としての本能で走り出していた。
強者からの圧倒的な支配力に、だからといって弱者は命を差し出さねばならぬいわれはないのだ、と。
――死にたくない。
恐怖に支配されながも、彼女の頭の中はそのことでいっぱいだった。
いつのまにか、取り込み損ねていた酸素が全身に満ちている。
駆け出した足は、まるで自分ではないもののように素早く地を蹴る。
流れる景色もいつもより数段に早い。
しかし背後から追いかけてくる獣の足音は次第に近くなる。
やがて彼女の足は、否応もなく止められることになった。
崖だ。
遥か下方にきらめきが見えた。
流れゆく河の水は、この状況にはにつかわしくないほど穏やか。
それを足元に見やり、彼女は荒い呼吸に肩を揺らした。
まるで耳の横で脈打つような心臓の音。
恐ろしい獣がきっと、血走った目と男の血で赤く染まった牙をむき出しにして、彼女の背後に位置しているに違いない。
駆け続けた苦しさと、いまにも首筋を食い破られるのではないかという恐怖におびえつつ、彼女はゆっくりと後ろを振り返る。
そのとき。
彼女は気づいた。
自分を取り巻く異変に。
奇妙な違和感に。
それを確かめようとした刹那、体から流れ出て失った血のせいで、ふいの目眩いに立ちくらんだ彼女の足が、地面を踏み損ねた。
「……っ!」
空中に投げ出され舞い落ちていく体を、黒い獣はじっと見ている。