第5話 悪魔
飛輪は走りながら念じていた。
念じるといっても、相手の顔や名前を把握する必要がない。
先ほど自分を刺していた男──それを念じるだけで十分だった。
「うああっ!」
どこかから男の悲鳴が聞こえた。
間違いない、先ほどの男だ。
飛輪はその声のする方向へと向かった。
飛輪がたどり着いたところには一人の男が両目を押さえて転がっていた。
「そこの男。目の調子はどうだ。」
「なにっ!?」
男は飛輪がいることに驚いた。それと同時に、この犯行は飛輪が行ったことに気づいた。
「てめえ、なにしやがった!」
両目を両手で押さえながら、男は飛輪の方へと向かって立ち上がった。押さえている両手の向こうからは、血がとめどなく溢れていた。
「人を殺める者が、何を言うか。」
飛輪は刀を抜き、男の方へと向かって走り出した。
男はそれを感知したのか、男は後ずさりをした。
「やめろ!悪かった!だから、」
男の制止も聞かず、飛輪は迫る。
「だから命だけは……」
男の声はかすれていた。だが、飛輪は躊躇することはなかった。飛輪は右腕を振った。刀は男の首を通過し、飛輪の鞘へと収まった。男の首は、胴体から切り離されていた。
再び飛輪は走り出した。
飛輪が向かう先、それは西であった。
「どうしましたか平八郎、先ほどからそんなにそわそわして。」
飛鳥は平八郎にそう言ったが、平八郎が落ち着く様子はなかった。
「いくらあれとて十四。俺が戦いに参加したときよりも四つ若い。やはり飛輪を一人にするべきではなかったな。」
平八郎は立ったりしゃがんだり、そして部屋の中をうろうろしてはまた飛鳥の横に座り込んだりと、動揺しているのがはっきりとわかった。
「貴方でも、焦るのですね。」
飛鳥が微笑みながら言った。
「俺ではなく息子のことだ。息子を心配しない親はいない。」
平八郎は弁明したが、飛鳥はそれがおかしかった。
「飛鳥は心配ではないのか。」
「心配……ですが、狼狽えてもどうにもなりませぬ。我が子を信じるのです。」
「そうは言ってもだなあ。」
飛輪が産まれてから、初めて夜を共に過ごさない瞬間である。なぜ飛輪はここまで冷静にいられるのだろうか。母親とはこういうものなのだろうか、と平八郎は思った。
次の瞬間、平八郎の家の戸が大きな音を立てて開いた。
平八郎はすぐさま起き上がり、刀を構えた。戸が開いたところに、人影が見える。
「何者だ!」
平八郎は人影に向かって叫んだ。
飛鳥は平八郎の後ろで様子を窺っている。
「私です。飛輪です。」
その声を聞き、平八郎は刀を降ろした。
「なんだ、飛輪か……。全く、誰かと思うたわ。」
平八郎は肩の力を抜いた。
「でもどうした飛輪。こんな夜分遅くに。」
「通り魔を……討って参りました。」
飛輪は、戸の所に立った状態で答えた。
「おお、それはまことか!」
平八郎は笑顔になり、そのことを喜んだ。飛鳥も、同じく息子の成果を喜んだ。
「しかし、それよりも重大なお話がございます。」
声の調子が一切変わらぬ飛輪に、平八郎は異変を感じた。
「話……とな?」
「はい。」
平八郎と飛鳥は人影の方へと不安な目を向ける。
「実は……通り魔に一度殺されてしまいました。」
「なんと!」
平八郎は、頭の中を鋭い稲妻が走ったような感じがした。
飛輪は死んでしまった。しかし今生きているということは、崖魔になったというわけか──。
「飛輪、あなた……本当に……。」
飛鳥が震える声で言った。
しかし平八郎はその声に違和感を感じた。飛鳥の声、震えてはいるがこれは哀れみだけではない。これは──恐怖も感じている?
「母上、事実でございます。現に、私の腹には穴が開いております。」
「なんてこと……。」
飛輪は自らの服を脱ぎ、見せつけた。なるほど、確かに穴が開いておる。
「こうなった以上、私には死ぬ運命しかございませぬ。」
そう言いながら、飛輪はこちらへと歩いてきた。いや、その歩き方は迫ると言った方が適切か。
「しかし、どうせ死ぬのであれば、未だ抱いたことのない女を抱いてみたいのです。」
暗くて見えなかった飛輪の顔が段々見えてきた。その顔は、あまりにも青白く、そして、冷めていた。
「母上、今宵限り、今生の願いでございます。私と、抱き合ってはもらえませぬか。」
「おい飛輪、何を言っておる。」
平八郎は強い口調で言った。
「私は今母上と話しております!父上は口を出さないでいただきたい!」
平八郎は驚いた。今まで飛輪が口答えなどしたことがなかった。
「お願いです母上。三十になっても美しいその体を、どうか私に──」
「嫌です。」
飛鳥の声が遮った。飛輪は声を失っていた。
「どこに親子で秘め事を行うものがありましょうか。」
飛輪は、ゆっくりとうなだれた。
飛鳥の言うことはもっともだ。しかし、その口調は死を迎えようとしている子に言うようなものではなかった。母としては、あまりにも冷たい。
「飛輪。俺はお前にできることならなんでもしよう。」
平八郎は気を遣った。せめて、他の願いだけは何でも聞いてやろう。
「平八郎、情けは無用です。既に崖魔となったのであれば、こやつは人間ではありませぬ。」
「飛鳥!」
平八郎は憤慨した。いくら崖魔といえ、実の息子になんたる言いようか。平八郎は、本当にこの女は飛鳥なのだろうかと疑いすらした。
「父上、動きなされるなよ。」
俯いたままの飛輪が小声で言った。
次の瞬間、飛鳥の目から大量の血が飛び出した。
「飛鳥!」
「おっと動きなさるなよ父上!動けば母上のようなことになりますぞ!」
飛輪は飛鳥を押し倒し、胸に仕込んでいた小刀で飛鳥の着物を切り裂いた。飛鳥の胸は、露わとなった。
平八郎は、両手で飛輪の肩を掴み、後ろに倒した。その瞬間、平八郎の視界は消えた。飛輪の崖魔の力である。
飛輪は平八郎の腹を蹴った。平八郎は、そのまま背中を壁に叩きつけた。平八郎の背中を痛みが襲う。
「本当はこんな手荒な真似はしたくありませんでしたがね。死ぬことを考えたら、何も怖くなんてないのです!」
飛輪は再び、飛鳥の胸に手を延ばした。そして、右手は飛鳥の口へと這わした。
「母上、父上。もしも叫んだり、抗おうとすれば、そのときは覚悟せよ。」
飛輪は再び飛鳥の体を堪能し始めた。三十になるが、未だその体は素晴らしいものだった。
豊満な胸、細い腰、そして真っ白な肉体。どれをとっても國の女に引けを取らない。
部屋に響くのは、飛輪の荒々しい息遣いと、飛鳥の喘ぎ声と、そして、平八郎のどこにもやれぬ怒りの拳を地面に叩きつける音だけだった。
やがて朝が訪れた。
飛鳥と飛輪は共に裸で重なり合い、平八郎は壁の側で座っていた。
「もう朝か……。」
飛輪は飛鳥から離れ、戸から差し込んでくる光に目を向けた。
「私は今から死んで参ります。この肉体、どうやら長くは続かぬようです。」
飛輪は自分の服を着ると、颯爽と家から出ていった。
「飛鳥……。」
消え入りそうな声で平八郎が言った。
「私は大丈夫です。しかし、目をやられました。」
「ああ、それは俺とて同じよ。」
平八郎は寝ている飛鳥の側へと寄った。
「あなたもですか……。」
飛鳥は悲しげにそう言うと、涙を流し始めた。
「全ては私のせいです。私が崖魔の血を引く者でなければ、私があの忌々しい男の子種を孕んでいなければ……。」
「やめろ飛鳥……。」
「私が……あの子を産まなければ──」
「やめろ!」
平八郎は叫んだ。平八郎もまた、涙を流していた。
「貴方にも……、こんな迷惑を……。」
飛鳥の声は嗚咽が混じっていた。
「俺はよい。気にするな。」
平八郎はできるだけ声の調子を上げて言った。しかし、それではどうにもならない。
「崖魔……私に流れる血の力は、このような悲劇を産むのです。」
平八郎は何も言えなかった。肯定することも否定することも、どちらも残酷であると思ったからである。
「平八郎、お願いがあります。」
「……なんだ。」
「私を……切ってください。」
平八郎は驚いた。しかし、完全なる驚きではなく、この事態は予測していた。だが──
「それはできぬ。」
平八郎は言い切った。
「ここでお主を切っては、今までの俺らがやってきたことを否定することになる。俺は、逃げたくないのだ。」
平八郎は思った。飛鳥と積み上げたこの十四年間。飛鳥といたからこそなのだ。たとえ目が見えなくとも、二人で暮らしていくことはできる。
「そうですか……。」
飛鳥は反論しなかった。平八郎の答えを、予知していたのかもしれない。
「こんな私でも……よいのですか……?」
飛鳥は不安な声で言った。
「構わぬ。それでも俺は、お主が俺を愛してくれるというのなら、俺はお主を愛し続ける。」
飛鳥はそれを聞いて、胸に込み上げるものがあった。
あのときとは違い、お互いの顔は分からないが、飛鳥は悟られぬよう、瞳を腕で拭った。
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