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反面教師

作者: 御葦 縁耳

 

「ただここでのらりくらりと息を繋ぐだけでは、それは"生きている"とは言えない」

 階段の前で蝶の標本をかかえていた私を呼び止めた兄は、小さく屈みまっすぐ私と目線を合わせると唐突にそう口にした。

 真正面から私を見つめる兄の瞳の色は、私の混濁色と違い今日もどこまでも碧く澄んでいる。やはり、私と兄は似ていない。似ていないがゆえに、兄と目を合わせることを私はあまり好んではいなかった。その碧い瞳に吸い込まれそうな感覚が、その碧に自分の濁りが混ざり合ってしまいそうな感覚が、私へなんとも言い難い不安を煽るからだ。

「わかるかい。"よく生きる"ことが大切なのだよ」

 兄の言っていることはいつだって何か含みを帯びていて、幼く学のない私に理解できることは少なかった。いやに輝いている兄の双眸は時に虚空を見つめ、何かに疲れたような顔をする。成り上がりの資産家の息子であり、勉学の成績も群を抜いて優れている兄の周りにはいつも人が絶えなかったが、常に地面から数センチ浮きだって水平線を睨んでいた変わり者の兄はやはりその水面下では「よく」扱われていなかったようだ。しかしそれはきっと兄自身だって自覚していたことだろう。

 その日の兄はいつになく穏やかだった。何か良いことでもあったのだろうか、吹っ切れたように地に足をつけている兄の思考など私にはまるで察しがつかなかったが、日向に連れて行けばたちまち陽だまりに溶けて消えそうなほどの存在を深く追求する勇気も無かった。

いたたまれない私はちいさく視線を逸らした先で、割れた蝶標本のガラスの破片が赤く光るのを見た。

「……これで、兄さんが君へ教えることは全てだ」

 そしてその日、兄は両親を殺害し家を出て行った。



 私はあの家の奴隷生活から解放された。

 養子縁組という名目で買収された孤児の私は、とある資産家の夫婦に闇市経由で買われたその日からあの家の娘となり、奴隷となり、あの男の妹となった。家から出ることを許されず、あらゆる労働を強いられ、与えられた地下の暗い一室での寝起きを繰り返しながら薄い粘膜のような生を重ねてきた。

 自分の、およそ生みの親と呼べる相手のことも、自分がどこでどうやって生まれたかなんてことも、その記憶は物心ついたときには狙ったかのように潰えていた。しかし誰からも望まれないままこの世に生を受けただろうこの私が送れる人生など、たかが知れている。解っているのだ。この家へ献身し続けた末で息絶えるのが道理であり、それは決まっているのだということは、とうに解りきっていたのだ。

 にも関わらず、その運命を無理やり捻じ曲げてまで、人の命を奪ってまで、自分の人生すら投げうってまで、私を解放した兄は。

 私の本当の兄ではない、生きることに疲れていたただひとりの男だった。

 屋敷の地下から保護され事情聴取を受けた私は、違法である人身売買の存在を表明するなによりもの証拠であった。これをきっかけとして、これから多くの闇市が捜索され、私のような奴隷孤児の命も救われていくのだろうと、そう思う。



 兄と私の、およそ思い出と呼べるものはそれほど多くない。しかし私の中に点在しているそれは、離れがたいようにいつだって心に色濃くこびりついていた。それゆえ私は毎晩、暗闇の中にそっと灯りを点すように、それをひとつずつ回想する。

 地下栽培の空間は広く、その隅では土を敷くスペースがあった。再利用のため古い土を光の下で干し、ふるいにかけて細かい根を取り除くことは日課にしている作業だ。

 その日も同じように地下栽培の部屋へ向かうと、見慣れない人影があった。敷土の前でしゃがんでいた兄は私を見やると、低い位置で手招きをする。傍まで歩いて寄り、抱えていた木箱を脇に置くと、今度はそのまま座るように指示された。

 怪訝に思いながら隣にしゃがんだ私を兄は認めると、自分の手が汚れるのも構わない様子で足元の土に指を這わせ、線を紡ぎはじめた。ほぼ読み書きの出来ない私でも、その羅列が意味を持つ文字だということはすぐに解った。家の壁一面に飾られているたくさんの表彰状から何度も見受けたことがある。それは兄の名前だった。

「書いてごらん」

 兄は落ちていた枝を私へ手渡し、そう促す。昔からこうして、こっそりと兄に文字の読み書きを教わることはたびたびあった。一生ここで暮らしていく以上学んでも仕方の無いものだとは解っていたが、私はきっとそんな時間をなによりも穏やかに感じていた。

「……ここで幽閉されている君が、"生きている"とはとうてい思えない」

 兄はふいにそう呟くと、新しい文字を地面へ綴る。今度は見憶えのない羅列だ。私は枝を持ちなおすと、兄の見よう見まねで同じように線を引いていく。いくつもいくつも同じ羅列を足元に綴っていく中、しばらく私の拙い枝の動きをじっと見つめていた兄は、ひとつ静かな息を吐くと薄明かりのような笑みを浮かべた。

「それは君の名前だよ」

 降ってきた声に私は手を止めると、まず言い難い感情を渦巻かせた。自分の名前というものを、私は知っている。今となっては遠い昔のことだが、これまでに何度かその名を呼ばれたこともあった。

 しかし、発音を知っていてもよもやこんな字を書くとは、文字が存在するとは知らなかった。吸い込まれるように地面を凝視する私へ、兄は「これだけは忘れてはいけない」と言葉を添えた。

「君はとてもきれいな名前を持っているんだ。だからそれだけは、きっと大切にしてくれ」

 目前には無数の文字の大群が広がっている。兄の書いた兄の名前と、私の書いた私の名前が隣り合っているのをその中に認めて、私は何故か、なにかが胸に詰まるような感覚を憶えた。

「君にはもっと、たくさんのことを感じてほしい。外に広がる景色を、空気のにおいを、空の色の移り変わりを、人の温かさを、……もっと、色々なことを君には知ってほしい」

 胸の内の蠢きを掻き分けている中、まるで絵本を朗読するかのような穏やかな声に意識を引っ張られ私は兄を眩しく見上げた。兄は私の汚れた顔を袖で拭い、整えられていない頭を撫でる。そして、言葉を受けてもその真意までを汲み取れていない私を理解し、苦く笑った。

「オレは君に、生きてほしいんだ。……そのためにオレも、善く生きると決めた」



 幾年ぶりに出た外の世界には、信じられないぐらいに眩しく輝く快晴の空が広がっていた。日差しはあたたかく、木々のささめきは耳を優しくくすぐる。どこからか花の香りを運んでくる風は、鳥のさえずる声と一緒に私の髪を撫でていくようであった。

 その中で私はついと立ち止まって、どこまでも突き抜けるような空を見上げる。碧色だけを視界いっぱいに映して、目の前が眩むのも構わずに、強く強く瞳へ焼き付けた。すると、しばらく黙って隣に付き添っていた警官に「君の瞳には空色がよく透き通って、碧く澄んでみえるなあ」と言葉をかけられ、私は、そのとき生まれて初めて泣いたのだ。

 

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