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第8話 要観察

 知覚災害、という言葉をその時俺は知らなかった。


 でも、あの教室で起きたことが、ただの授業中の発作や事故で済まないことくらいはわかった。


 翌日の修学センターは、異様に整っていた。


 廊下はいつも通り静かで、床はきれいで、授業の開始時刻も変わらない。

 壊れた端末も倒れた机も、見える場所からは消えている。

 表面だけ見れば、昨日何も起きなかったみたいだった。


 でも、何も起きなかったわけがない。


 すれ違う生徒の視線が少しだけ早く逸れる。

 逆に、こっちを見すぎるやつもいる。

 昨日の教室にいた連中は、みんな妙に静かだ。

 疲れているだけじゃない。

 自分の中で見たものを、まだうまく現実に戻しきれていない顔をしている。


 志岐は朝からほとんど喋らなかった。

 気を遣ってるのもあるだろうし、単純に余裕がないのもあると思う。


「今日、呼ばれるかもな」

 朝食の終わり際、ようやくそれだけ言った。


「誰に」

「誰にでも」


 たしかに、と思った。


 でも実際に呼ばれたのは、午前の通常教科が終わったあとだった。

 教室を出たところで、知らない職員に名前を呼ばれる。


「有馬湊くんですね」

「……はい」

「同行をお願いします」


 丁寧な言い方なのに、断る余地は最初からなかった。


    ◇


 通されたのは、修学センターの管理棟寄りにある小さな会議室だった。


 これまでの面談室より一段きれいで、椅子も机も妙に傷が少ない。

 部屋にいるのは篠原と、見たことのない男が一人。

 スーツ姿で、年齢は三十代後半くらいに見えた。教員ではない。

 それだけで、この件がもう授業の中の話じゃないとわかる。


「座って」

 篠原が言う。


 男の方は名乗らなかった。

 代わりに端末を開いて、俺の方を一度だけ見た。


「昨日の件について、確認を行います」


 声が硬い。

 責めているわけではないけど、人と話しているというより報告書の空欄を埋めている感じがする。


 質問の内容は、昨日と大きくは変わらなかった。

 何を見たか。

 何を感じたか。

 なぜ近づいたか。

 なぜ"その怖さは先輩のじゃない"と言ったのか。


 何度聞かれても、答えはそんなに変わらない。


「わかる、というより、違うって感じました」

「違う、とは」

「本人の感情じゃない」

「なぜそう判断した?」

「……たぶん、質が違ったからです」


「質」

 男が初めて復唱した。

「感情に質の差があると?」


「あります。少なくとも、俺には」

 そこだけは、少しだけはっきり言えた。


 部屋の空気が一瞬止まる。

 男は端末へ何かを打ち込んだ。

 篠原はそれを見ない。


「有馬」

 篠原が言う。

「お前、自分の適性をどう思ってる」

「低いと思ってます」

「出力以外は」

「わかりません」

「そうだろうな」


 その返しだけが、妙に疲れていた。


 結局、一時間近く同じようなやり取りが続いた。

 最後まで男は名乗らなかったし、こちらも聞かなかった。


 部屋を出る直前になって、男が初めて人間らしい調子で言った。


「当面、行動と授業割り当てに一部調整が入ります」

「それは……」

「保護と観察を兼ねた措置です」


 保護と観察。

 この場所で聞くと、ほとんど同じ意味に聞こえた。


「雨宮澪との無許可接触は控えてください」


「控えるって、会わない方がいいってことですか」

「現時点では推奨します」


 俺が黙ると、男は続けた。


「君に悪意がないことは理解しています。だからこそ、自己判断を制限します」


 要するに、信用されていないということだ。

 あるいは、信用しきれない。


 部屋を出てからもしばらく、その言葉だけが耳に残った。


    ◇


 会議室から戻る途中、医療観察棟の前を通った。


 わざとじゃない。

 でも、わざとじゃないふりをしていたのも事実だった。


 白い自動ドアの前で、少しだけ立ち止まる。

 入れるはずがない。

 そう思っていたのに、ちょうど中から久世が出てきた。


「あんたか」


 久世は一瞬だけ目を細めて、それからため息をついた。


「何してるの」

「たまたま通っただけです」

「そういう顔してない」


 その通りだった。


「……澪先輩、どうですか」

 聞くと、久世はすぐには答えなかった。


「本来なら答えない」

「はい」

「でも、答えなくてもあんたは勝手に考えるでしょ」


 否定できない。


「命に別状はない。今は鎮静入ってる。CIの戻りが遅いから、しばらくは刺激を減らす」

「会えますか」

「無理」


 即答だった。


「少なくとも今日明日は無理。向こうも落ち着いてないし、こっちも触らせたくない」

「触らせたくない」

「あんたも観察対象になってるってこと」


 さらっと言われて、背中が少し冷えた。


 久世は俺の顔を見て、少しだけ声を落とした。


「でも、一つだけ言うなら」

「はい」

「雨宮が崩れ切らなかったのは、あんたがいたからだと思う」


「それで調子に乗るなよ」

 久世は続けた。

「救えるのと、背負えるのは別」


「……はい」

「あと、これは雨宮が起きたら本人から言うべきなんだろうけど、今は代わりに伝える」


 そこで久世は少しだけ困った顔をした。


「名前、呼んでたよ」

「え」

「鎮静入る前。はっきりじゃないけどね。何回か」


 頭の中が少しだけ真っ白になる。


「じゃ、そういうこと」

 久世はそれだけ言って、今度こそ去っていった。


 俺はしばらくその場から動けなかった。


    ◇


 その日の午後、授業割り当てが一部変わった。


 端末に通知が来る。

 知覚系の一部授業が別枠へ移され、共同実習がしばらく停止。

 理由は「安定化措置に伴う編成変更」。

 その一行だけで、昨日の件がもう制度の中へ処理され始めているのがわかった。


「お前も?」

 休み時間、志岐が自分の端末を見ながら聞く。


「一部だけ」

「俺も共同の枠ちょっとずれた。露骨だな」

「露骨だね」

「で、澪先輩とは?」

「まだ会ってない」


 志岐は少し黙った。

 それ以上聞いてこないあたり、たぶん気を遣っている。


「なあ」

 しばらくしてから、志岐が言う。

「お前、昨日のあとでちょっと有名」


「最悪」

「最悪だな。でも事実」


 否定したいけどできない。

 昼休みの食堂でも、何人かの視線が明らかに前と違った。

 九条玲央にすら、一度だけ真っ直ぐ見られた。


 あれは無視じゃなかった。

 評価でもない。

 あえて言うなら、確認だ。


 "お前か"と、そういう視線だった。


「低ランクのまま空気になってたかった」

「今さらそれは無理だろ」

「だろうね」


 自分で言うと、笑うしかない。


    ◇


 夕方、寮へ戻る前に、訓練棟の渡り廊下で足を止めた。


 あの日、澪が一人で立っていた場所だった。

 窓の外はもう薄暗い。雪こそ降っていないけど、空の色が低い。


 ここ数日で、たぶんいろんなことが変わった。


 澪はまだ医療棟にいる。

 俺は観察対象になった。

 篠原も久世も、もう俺を普通の生徒としてだけは見ていない。

 それなのに、自分の中身だけが全然追いついていない。


 何ができるのか。

 何が見えているのか。

 なぜ俺だけが、澪の近くで平気なのか。


 何一つちゃんとわからない。


 でも、あの人はまだ、戻れる。


「有馬」


 背後から声がして、振り返る。

 御影だった。


 相変わらず静かで、私物感のない姿だった。

 この人が立っているだけで、周囲の空気が少しだけ観測対象になる気がする。


「帰り道に立ち止まる趣味でも?」

「今できました」

「それは結構」


 冗談なのかどうかわからない返しだった。


「昨日の件、記録は確認した」

 御影は前置きもなく言う。

「興味深い」


 嫌な言葉だと思った。

 でも、この人ならそう言うだろうとも思う。


「褒めてます?」

「観察結果としては」


 つまり人間としてではない。


「君、自分のログを見たことは?」

「ないです」

「だろうね」


 御影はそれ以上説明しない。

 ただ、ほんのわずかにこちらを見てから続けた。


「標準適性者の反応じゃない。少なくとも、異常状態に対する感応の仕方が違う」

「それ、俺にどうしろって話ですか」

「今は何もしなくていい。下手に自覚されると、逆にデータが崩れる」


 さらっと言われた内容はひどかった。


「……やっぱり観察なんですね」

「修学センターはそういう場所でもある」


 否定しない。

 その潔さだけは少しだけましだった。


「雨宮澪に関して、今後も接触機会はある」

 御影が言う。

「完全隔離はできない。現実的ではないから」


「それを俺に言うんですか」

「言っておいた方が、君は無駄に構えない」


 そして、ほんの少しだけ間を置いてから続ける。


「ただし次は、前回のように運がいいとは限らない」


「君が届くのは、相手がまだ戻れる段階だけだ」

 御影は言う。

「それを忘れないように」


 それだけ言って、御影は去っていった。


 残された廊下で、しばらく動けなかった。


 届くのは、戻れる段階だけ。

 つまり戻れなくなったら、俺でも無理だということだ。


 その線引きが、ひどくはっきり見えた気がした。


    ◇


 夜、部屋に戻ると、端末に新しい通知が来ていた。


 見慣れない形式の、短いメッセージ。

 送信元は医療観察棟の共通端末。


 本文は一行だけだった。


《本日二十時十分、面会許可。五分以内》


 心臓が大きく跳ねた。


「どうした」

 ベッドの上から志岐が聞く。


「いや……」

 咄嗟に隠そうとして、でも無理だと思って画面を見せる。


 志岐は一瞬目を見開いて、それから小さく息を吐いた。


「行け」

「いいのかな」

「許可って書いてあるだろ」

「そうじゃなくて」

「そうじゃなくても行けよ」


 そこで初めて、志岐が少しだけ笑った。


「たぶんその五分のために、お前ここ数日ずっと落ち着いてなかったんだから」


 言い返せなかった。


    ◇


 医療観察棟の面会室は、想像していたより普通だった。


 ガラス越しでもなく、病室そのままでもない。

 簡素な椅子とテーブル、白い壁、必要最低限のモニター。

 清潔で、静かで、少しだけ息苦しい。


 先に通されて待っていると、やがてドアが開いた。


 雨宮澪が入ってくる。


 歩ける程度には回復していたけど、まだかなり弱っていた。

 顔色は薄いし、アンカーの表示も普段より抑制が強い。

 それでも、目だけは昨日よりちゃんとこっちを見ていた。


「……こんばんは」

 先に言ったのは澪だった。


「こんばんは」

「変な感じ」

「何がですか」

「普通に挨拶してるの」


 少し笑う。

 こっちも少しだけ笑ってしまう。


 座るまでの動作が、やっぱりまだ遅い。

 でも昨日みたいに焦点が流れないだけで、ひどく安心した。


「大丈夫そうでよかったです」

「大丈夫、とはまだ言わないでおく」

「真面目ですね」

「今回ちょっと、ほんとに危なかったし」


 そこで言葉が切れる。

 沈黙が落ちる。

 でも前みたいな、どこへ向かうかわからない沈黙じゃなかった。


「ありがとう」

 澪が言った。


「昨日」

 澪は続ける。

「あなたの声だけ、ちゃんと聞こえた」


「他は、全部近すぎた」

「……はい」

「怖いとか、怒ってるとか、泣きそうとか、もう区別つかなかったんだけど」


 澪は自分の手首のアンカーを軽く触る。


「あなたの声だけ、ちゃんと外から来た」


 外から来た。

 その表現は妙に正確な気がした。


「先輩」

 呼ぶと、澪が顔を上げる。


「俺、よくわかってないです。何でああなったのかも、何で届いたのかも」

「うん」

「でも、放ってはおけないです」


 言ってから、自分で少し驚いた。

 こんなにはっきり言うつもりじゃなかったのに。


 澪は少しだけ目を丸くして、それから、ひどく静かな顔で笑った。


「それ、今言われると、たぶんだいぶ困る」

「困りますか」

「うれしい方に」


 その言い方はずるいと思う。

 でも、やわらかくて、ちゃんと澪らしかった。


 面会時間は本当に短かった。

 最後に澪が小さな声で言う。


「また会える?」

「たぶん」

「その"たぶん"は、信用していいやつ?」

「努力はします」

「じゃあ、少しだけ信用する」


 それで終わりだった。

 五分。

 なのに、それまでの数日よりずっと長く残る時間だった。


    ◇


 部屋へ戻ると、志岐はもう何も聞かなかった。

 ただ、一回だけこっちを見て、

「顔がちょっとマシ」

と言った。


 たぶんその通りなんだと思う。


 電気を消して、ベッドに入る。

 久しぶりに少しだけ眠れそうな気がした。


 ただ、修学センターのどこかで、見えない歯車が動き始めている予感も消えない。

 俺たちが知らない場所で、たぶんもう何かが決まっている。


    ◇


 同じ時刻、管理棟の一室では、昨日と同じ男が端末を開いていた。


 画面には、最低限の公開情報。

 その横に、新しく追記されたログが並んでいる。


 出力:低位安定。

 通常訓練評価:C下位。

 対異常接触時反応:特異。

 知覚混線環境下での自律保持:高。

 対象個体・雨宮澪との接触時、局所収束確認。


 男はしばらく無言でそれを読み、最後に一つだけ項目を追加した。


《継続観察対象》


 少しだけ考え、さらにその下へ追記する。


《特別観察候補》


 送信先は、修学センターの中だけではなかった。


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