表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

第7話 壊れた夢の中心

 次に同じことが起きたら、小さくは終わらない。


 その予感は、翌日になっても消えなかった。


 朝の教室は静かだった。

 静かすぎると言った方が近い。

 誰も昨日のことを口にしない。話題にしないことで、無かったことにできるとでも思っているみたいに。


 でも、顔を見ればわかる。

 寝不足、苛立ち、浅い呼吸、集中しきれない目。

 修学センター全体が、見えないところでずっと薄く削られている。


 志岐も朝から無口だった。

 声をかければ普通に返すけど、自分から余計なことは言わない。

 たぶん、昨日の小事故が“気のせいでは済まない”ラインを越えたんだと思う。


「今日、知覚系ある?」

 朝食の終わりに聞くと、志岐が端末を見た。


「お前は二限。俺は午後」

「そっか」

「……澪先輩は?」

「二限、同じ」


 志岐はそれだけで少し嫌そうな顔をした。

 嫌悪じゃない。

 嫌な予感を飲み込んでる顔だった。


「気をつけろよ」

「うん」

「いや、気をつけろで済むなら苦労しないんだけど」

「わかってるなら言うなよ」

「言わないともっと落ち着かない」


 そう言って、志岐は味噌汁を一気に飲んだ。


 俺も同じだった。


    ◇


 二限は知覚安定化訓練だった。


 教室に入った瞬間、昨日よりさらに空気が悪いのがわかった。

 重いというより、薄く張っている。

 何か小さな振動で一気に裂けそうな、嫌な均衡だった。


 澪はもう来ていた。

 席に座っている。

 姿勢も見た目も、ぱっと見ではそこまで変わらない。


 でも、数歩近づいただけで、喉の奥が少し詰まる。


 あの人の輪郭の上に、何かが薄く積もっている。

 怒り、恐れ、焦燥、自己嫌悪、苛立ち、昨日見た悪夢の名残。

 呼吸のたびに揺れて、視線のたびにずれる。澪本人の動きに、別の誰かの感情がわずかに重なっているみたいだった。


「有馬くん」

 澪が気づいて、小さく呼ぶ。


「……おはようございます」

「うん。おはよう」


 普通に返してくる。

 でも声の奥が少し遠い。


「眠れてないですよね」

「寝たよ」

「寝た顔じゃないです」

「ひどいな」


 笑おうとして、笑いきれない。

 そこで初めて、澪の方から視線が落ちた。


「今日ちょっと、あんまりよくないかも」


 それを、自分から口にした。


「申告した方が」

「したら下げられる」

「下げられた方がよくないですか」

「……有馬くんが言うと、たぶんその通りなんだろうけど」


 そこで言葉が切れる。

 澪はアンカーの上から自分の手首を押さえた。


「下げられるの、ちょっと怖い」


 再調整棟へ戻されることなのか、隔離されることなのか、自分で制御できないと認めることなのか。

 たぶん、どれか一つじゃない。


 何か言いかけたところで、篠原が教室に入ってきた。


 いつもより歩幅が速い。

 目つきも違う。

 昨夜の件が共有されていないはずがない。


 教室全体を一度見渡して、篠原は開口一番に言った。


「今日の授業は短縮する。CI値に乱れのあるやつは今のうちに申告しろ。黙って座って、あとで潰れるやつが一番面倒だ」


 いつもよりずっと強い。

 それでも、手を上げたのは数人だけだった。


 澪は上げない。

 俺も上げなかった。


 篠原の視線が一瞬こっちに来る。

 たぶん気づかれている。

 それでも止められないなら、まだ“基準上は授業可能”と判断されているんだろう。


 訓練が始まった。


 今日の内容は、本来ならもっと安全なはずだった。

 外部ノイズを切りながら、自分の内側の観測を固定するだけ。

 共同干渉も強い感情負荷もなし。

 いわば、崩さないための訓練だ。


 でもその前提が、もう教室全体で怪しかった。


 開始から数分で、後方の席から短い警告音が鳴る。

 誰かのアンカーが閾値に触れた音だ。

 篠原がすぐに近寄って下げる。

 別の席では、女子生徒が呼吸を乱して目を閉じた。

 教員補助がついて外へ出す。


 そのたびに、澪の肩がほんの少し揺れた。


 拾っている。

 周囲で起きた小さな乱れが、そのままあの人の中へ引っかかっていく。


「深呼吸」

 篠原が教室全体へ言う。

「自分の内側を切るな。他人のノイズも拾いすぎるな。CI値見えてるだろ、戻せ」


 誰も言い返さない。

 言うだけの余裕がもうない。


 俺は視線を前に向けたまま、半分以上澪の方を気にしていた。


 澪の呼吸が一度、変に引っかかった。

 すぐ戻る。

 次は視線が揺れる。

 アンカーの光が細かく明滅する。


 その奥で、一つだけ、強く脈打っているものがあった。


 恐怖だ。


 でも澪自身のものじゃない。

 今、この教室のどこかで生まれたばかりの生っぽい恐怖が、そのままあの人の中に引き込まれている。


 その瞬間、左前方の席で椅子が倒れた。


 男子生徒が立ち上がっていた。

 顔色が悪い。目が合っていない。

 何かを避けるみたいに後ずさって、そのまま隣の机にぶつかる。


「来るな!」

 叫び声が教室に響いた。

「来るなって、言ってるだろ!」


 誰に向けたものかわからない。

 でもその恐怖だけは、教室全体に一気に広がった。


 女子生徒が短く悲鳴を上げる。

 別の誰かが反射で立ち上がる。

 その動きに、また別の誰かが怯える。


 教室の中で、感情だけが連鎖していく。


 怖い。

 苛立つ。

 逃げたい。

 殴りたい。

 泣きたい。

 謝りたい。


 意味のない悪意と、誰のものかわからない自己嫌悪が、まとめて喉元までせり上がる。


 教室がそのまま、誰かの悪夢の中に滑り込んだみたいだった。


 目の前の席の輪郭が一瞬揺れる。

 篠原の声が聞こえるのに、どこから聞こえているのかわからない。

 誰かの息遣いが、自分の耳のすぐ横で鳴っている気がする。


 でも俺は倒れなかった。

 倒れないまま、中心を見た。


 雨宮澪が、席で動けなくなっていた。


 叫んでいない。

 暴れてもいない。

 ただ、自分の中へ流れ込んでくるものを受け止めきれずに、身体の方が止まっている。


 あの人は発信源じゃない。

 集まったものが、あの人のところで重なって、ここで一度現実に漏れている。


 篠原が前へ出ようとする。


 その肩の入り方を見た瞬間、背中が冷えた。


 今、その圧で近づいたら駄目だ。


「先生、それ駄目です!」


 気づいたら叫んでいた。


 篠原の動きが一瞬止まる。

 教室の騒音の中でも、その一瞬だけがはっきり長かった。


「有馬!」

「今、強く入ったら悪化する!」


 理屈なんてない。

 でも、澪の中で一番強く脈打っている感情の束が見えていた。

 さっき立ち上がった男子生徒の“何かが来る”という恐怖。

 それが他の生徒の恐怖を呼んで、怒りや混乱を巻き込み、澪の中で一つの塊になっている。


 あれを切らないと駄目だ。


「久世! 後方から下げろ、CI値落ちてるやつ優先!」

 篠原が即座に叫ぶ。


 判断が早い。

 俺の言葉を全部信じたわけじゃない。でも、一番危ない動きだけは止めた。


 教員補助が動き始める。

 何人かの生徒が外へ出される。

 それでも、もう教室は十分に壊れかけていた。


 俺は澪の方へ行った。


 足が勝手に動いた。

 怖くないわけじゃない。

 でも、今ここで引く方がもっとまずいと身体が知っていた。


「澪先輩」


 呼んでも反応は薄い。

 近づくたびに、頭の奥がきしむような感じがする。

 他人の感情が、輪郭を持たないまま擦れている。


 でも、その中に一つだけ、まだ残っているものがあった。


 澪本人の感情だ。

 かすかで、押し潰されそうで、それでも消えていない。


 怖い。

 でも、怖がっているのは“周りを壊すこと”の方だ。


「それ、先輩の怖さじゃない」


 自分でも驚くくらい、まっすぐな声だった。


 澪の目が少しだけ動く。


「……え」

「今、入ってるやつです。先輩のじゃない」

「でも」

「違う。拾ってるだけだ」


 教室のどこかでまた何かが倒れる音がする。

 悲鳴も怒鳴り声も、全部遠い。

 今は澪だけ見ればいい。


「こっち見て」

 昨日と同じ言葉を、今度はもっと強く言う。

「他は見なくていい。今入ってるの、先輩のじゃない」


 澪の呼吸が浅く震える。

 視線はまだ定まらない。

 でも、さっきより少しだけ俺を追う。


「怖い」

 かすれた声で言う。

「うるさい」

「わかってる」

「みんな、近い」

「でも全部、先輩じゃない」


 言いながら、見えていた。

 澪の中で一番強く絡まっている恐怖の束が、わずかに緩む。


「拾わなくていい」

 俺は言った。

「それ、返していい」


 自分でも意味がわからない言葉だった。

 でも、その瞬間だけは、それしかなかった。


 澪の瞳が初めてはっきり俺を見た。


 次の瞬間、教室の空気が一気に崩れた。


 悪い方じゃない。

 張り詰めていた膜が、音もなく裂けたみたいに、圧だけが抜ける。

 誰かの恐怖が誰かに貼りついたままの状態が、少しだけほどけた。


 何人かがその場にへたり込む。

 誰かが泣き出す。

 篠原の指示が、ようやく普通の距離感で耳に入ってきた。


「窓際開けろ! 外の空気入れろ! 医療班呼べ!」


 久世が澪の後ろへ回る。

 でももう、さっきみたいな崩れ方はしない。

 澪は席から落ちるみたいに力を抜いて、そのまま意識を失いかけた。


「先輩!」

 反射で支えようとしたところを、篠原に肩ごと引かれた。


「有馬、離れろ」


 強い声だった。

 でも今度は逆らわなかった。

 もう中心はほどけた。

 あとは大人の仕事だ。


 数分前まで悪夢の真ん中だった教室は、ひどく静かだった。

 燃え尽きた後みたいだった。


 篠原が澪を医療班へ引き渡しながら、ちらっと俺を見る。

 その目には驚きも怒りもあったけど、一番強いのはたぶん、理解できないものを見た時の顔だった。


 俺だって同じだ。


 何をしたのか、正確にはまだ全然わからない。


 でも一つだけわかった。


 俺が届いたのは、澪の中に残っていた“本人の感情”だった。

 他人のノイズの束じゃない。

 あの人自身がまだそこにいたから、たぶん間に合った。


    ◇


 現実へ戻ると、教室の被害は思っていたより大きかった。


 机は何台か倒れ、壁際の端末が一つ破損している。

 医療棟へ運ばれた生徒も複数いた。

 怪我そのものは軽くても、精神的な混線が強かったらしい。


 俺は篠原に連れられて、また別室へ移された。

 昨日よりさらに長い事情聴取だった。


「繰り返すぞ」

 篠原が机の向こうで言う。

「お前は何を見た」


「……感情の束、みたいな」

「感情の束」

「先輩の中に、他人のやつが溜まりすぎてて、その中に、特に強いのがあって」

「特に強いものが何だった」

「恐怖です」


 そこで初めて、篠原の手が止まった。


「誰の」

「最初に崩れた男子の……たぶん。そこから他のやつも繋がって」

「お前にはそれが見分けられるのか」

「見分けるっていうか……違うってわかる、感じです」

「感じで済むかよ」

「済まないのは俺もわかってます」


 声が少しだけ荒くなる。

 でも篠原はそこには突っ込まなかった。


「で、雨宮には何を言った」

「その怖さは先輩のじゃないって」

「それで反応した」

「しました」

「どうしてそうなる」

「わかりません」


 本当にわからない。

 わからないのに、あの瞬間だけは間違っていないと確信していた。


 篠原は長く息を吐いた。

 机の端にはすでに何枚も記録用の紙が置かれている。


「有馬」

「はい」

「今日のことは、少なくとも“偶然うまくいった”では済ませない」

「……はい」

「お前も雨宮も、しばらく通常通りには扱われんと思え」


「俺、収容とかされますか」

 思わず聞くと、篠原が少しだけ眉を寄せた。


「そこまでは知らん。だが、上が動く」

「上」

「知りたいならもっと偉くなれ」


 そう言ってから、篠原は少しだけ声を落とした。


「ただ一つだけ言っとく。今日、お前が雨宮に届いたのは事実だ」

「……はい」

「だから次もお前が行けばいい、みたいな顔はするなよ」


「次は、もっとでかい」

 篠原が言う。

「今日ので終わりじゃない」


 それは脅しじゃなかった。

 確認に近い。

 俺も、たぶん同じ予感を持っていたから。


    ◇


 その夜、寮へ戻ると志岐は起きていた。

 もう寝ている時間だったのに、ベッドに腰かけたまま、部屋の電気を落とさず待っていた。


「お前、絶対寝てないと思った」

 俺が言うと、志岐が乾いた笑いを漏らす。


「そりゃな」

「怒られなかった?」

「寮監には怒られた。心配すんなって感じで」


 少し沈黙してから、志岐が本題に入る。


「で」

「うん」

「澪先輩、どうなった」


 俺は制服のまま椅子に座った。

 急に全身が重くなる。

 たぶん、さっきまでは気を張っていただけだ。


「医療棟」

「それは知ってる」

「それ以上はまだ聞いてない」

「そっか」


 志岐は視線を落とした。

 指先が少しだけ落ち着かない。


「でも、お前が止めたんだろ」

「止めたっていうか……」

「みんなそう言ってる」


 もう広まってるのか、と思ったけど、あれだけの騒ぎなら当然かもしれない。


「たまたまだよ」

「その言い方、今日だけで三人くらいから聞いた」

「誰に」

「教師と上の課程のやつと、あと談話スペースにいたやつ」


 最悪だ。

 変に目立つ形で広まるのは、一番望んでいなかった。


「なあ」

 志岐が言う。

「俺、あの時ちょっと見たんだよ」


「何を」

「澪先輩、お前の声聞いた瞬間だけ、顔が戻った」


 その言葉で、喉の奥が少し詰まる。


「……そうかも」

「そうかも、で済ませるの怖えな」


 志岐はそう言って、ベッドへ倒れ込んだ。


「でも、あれで完全に終わった感じしないんだよな」

「俺も」

「だよな」


 天井を見たまま、志岐が続ける。


「今日のって、たぶん一回崩れたんじゃなくて、一回耐えられなくなっただけだろ」

「そう思う」

「じゃあ次あるじゃん」

「ある」


 部屋が静かになる。

 アンカーの存在だけが、手首に重い。


「お前、どうする」

 志岐がまた聞く。


「逃げるのは、たぶん無理」

「性格的に?」

「状況的にも」


 もう見てしまった。

 もう届いてしまった。

 だったら、何も知らないふりで元の低ランク生徒に戻れる気がしない。


「じゃあ行くんだな」

 志岐が言う。

「澪先輩のほう」


 返事はしなかった。

 でもしなかった時点で、たぶん答えになっていた。


 消灯後、眠るまでに時間がかかった。


 教室の崩れかけた空気も、澪のかすれた声も、篠原の言葉も、全部まだ頭の中に残っている。


 その中で一番消えなかったのは、澪が俺を見た瞬間の目だった。


 あの時だけ、この人は確かに自分へ戻りかけた。

 戻れるなら、まだ助かる。

 そう思ってしまった時点で、たぶん俺はもう引き返せないところにいる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ