第7話 壊れた夢の中心
次に同じことが起きたら、小さくは終わらない。
その予感は、翌日になっても消えなかった。
朝の教室は静かだった。
静かすぎると言った方が近い。
誰も昨日のことを口にしない。話題にしないことで、無かったことにできるとでも思っているみたいに。
でも、顔を見ればわかる。
寝不足、苛立ち、浅い呼吸、集中しきれない目。
修学センター全体が、見えないところでずっと薄く削られている。
志岐も朝から無口だった。
声をかければ普通に返すけど、自分から余計なことは言わない。
たぶん、昨日の小事故が“気のせいでは済まない”ラインを越えたんだと思う。
「今日、知覚系ある?」
朝食の終わりに聞くと、志岐が端末を見た。
「お前は二限。俺は午後」
「そっか」
「……澪先輩は?」
「二限、同じ」
志岐はそれだけで少し嫌そうな顔をした。
嫌悪じゃない。
嫌な予感を飲み込んでる顔だった。
「気をつけろよ」
「うん」
「いや、気をつけろで済むなら苦労しないんだけど」
「わかってるなら言うなよ」
「言わないともっと落ち着かない」
そう言って、志岐は味噌汁を一気に飲んだ。
俺も同じだった。
◇
二限は知覚安定化訓練だった。
教室に入った瞬間、昨日よりさらに空気が悪いのがわかった。
重いというより、薄く張っている。
何か小さな振動で一気に裂けそうな、嫌な均衡だった。
澪はもう来ていた。
席に座っている。
姿勢も見た目も、ぱっと見ではそこまで変わらない。
でも、数歩近づいただけで、喉の奥が少し詰まる。
あの人の輪郭の上に、何かが薄く積もっている。
怒り、恐れ、焦燥、自己嫌悪、苛立ち、昨日見た悪夢の名残。
呼吸のたびに揺れて、視線のたびにずれる。澪本人の動きに、別の誰かの感情がわずかに重なっているみたいだった。
「有馬くん」
澪が気づいて、小さく呼ぶ。
「……おはようございます」
「うん。おはよう」
普通に返してくる。
でも声の奥が少し遠い。
「眠れてないですよね」
「寝たよ」
「寝た顔じゃないです」
「ひどいな」
笑おうとして、笑いきれない。
そこで初めて、澪の方から視線が落ちた。
「今日ちょっと、あんまりよくないかも」
それを、自分から口にした。
「申告した方が」
「したら下げられる」
「下げられた方がよくないですか」
「……有馬くんが言うと、たぶんその通りなんだろうけど」
そこで言葉が切れる。
澪はアンカーの上から自分の手首を押さえた。
「下げられるの、ちょっと怖い」
再調整棟へ戻されることなのか、隔離されることなのか、自分で制御できないと認めることなのか。
たぶん、どれか一つじゃない。
何か言いかけたところで、篠原が教室に入ってきた。
いつもより歩幅が速い。
目つきも違う。
昨夜の件が共有されていないはずがない。
教室全体を一度見渡して、篠原は開口一番に言った。
「今日の授業は短縮する。CI値に乱れのあるやつは今のうちに申告しろ。黙って座って、あとで潰れるやつが一番面倒だ」
いつもよりずっと強い。
それでも、手を上げたのは数人だけだった。
澪は上げない。
俺も上げなかった。
篠原の視線が一瞬こっちに来る。
たぶん気づかれている。
それでも止められないなら、まだ“基準上は授業可能”と判断されているんだろう。
訓練が始まった。
今日の内容は、本来ならもっと安全なはずだった。
外部ノイズを切りながら、自分の内側の観測を固定するだけ。
共同干渉も強い感情負荷もなし。
いわば、崩さないための訓練だ。
でもその前提が、もう教室全体で怪しかった。
開始から数分で、後方の席から短い警告音が鳴る。
誰かのアンカーが閾値に触れた音だ。
篠原がすぐに近寄って下げる。
別の席では、女子生徒が呼吸を乱して目を閉じた。
教員補助がついて外へ出す。
そのたびに、澪の肩がほんの少し揺れた。
拾っている。
周囲で起きた小さな乱れが、そのままあの人の中へ引っかかっていく。
「深呼吸」
篠原が教室全体へ言う。
「自分の内側を切るな。他人のノイズも拾いすぎるな。CI値見えてるだろ、戻せ」
誰も言い返さない。
言うだけの余裕がもうない。
俺は視線を前に向けたまま、半分以上澪の方を気にしていた。
澪の呼吸が一度、変に引っかかった。
すぐ戻る。
次は視線が揺れる。
アンカーの光が細かく明滅する。
その奥で、一つだけ、強く脈打っているものがあった。
恐怖だ。
でも澪自身のものじゃない。
今、この教室のどこかで生まれたばかりの生っぽい恐怖が、そのままあの人の中に引き込まれている。
その瞬間、左前方の席で椅子が倒れた。
男子生徒が立ち上がっていた。
顔色が悪い。目が合っていない。
何かを避けるみたいに後ずさって、そのまま隣の机にぶつかる。
「来るな!」
叫び声が教室に響いた。
「来るなって、言ってるだろ!」
誰に向けたものかわからない。
でもその恐怖だけは、教室全体に一気に広がった。
女子生徒が短く悲鳴を上げる。
別の誰かが反射で立ち上がる。
その動きに、また別の誰かが怯える。
教室の中で、感情だけが連鎖していく。
怖い。
苛立つ。
逃げたい。
殴りたい。
泣きたい。
謝りたい。
意味のない悪意と、誰のものかわからない自己嫌悪が、まとめて喉元までせり上がる。
教室がそのまま、誰かの悪夢の中に滑り込んだみたいだった。
目の前の席の輪郭が一瞬揺れる。
篠原の声が聞こえるのに、どこから聞こえているのかわからない。
誰かの息遣いが、自分の耳のすぐ横で鳴っている気がする。
でも俺は倒れなかった。
倒れないまま、中心を見た。
雨宮澪が、席で動けなくなっていた。
叫んでいない。
暴れてもいない。
ただ、自分の中へ流れ込んでくるものを受け止めきれずに、身体の方が止まっている。
あの人は発信源じゃない。
集まったものが、あの人のところで重なって、ここで一度現実に漏れている。
篠原が前へ出ようとする。
その肩の入り方を見た瞬間、背中が冷えた。
今、その圧で近づいたら駄目だ。
「先生、それ駄目です!」
気づいたら叫んでいた。
篠原の動きが一瞬止まる。
教室の騒音の中でも、その一瞬だけがはっきり長かった。
「有馬!」
「今、強く入ったら悪化する!」
理屈なんてない。
でも、澪の中で一番強く脈打っている感情の束が見えていた。
さっき立ち上がった男子生徒の“何かが来る”という恐怖。
それが他の生徒の恐怖を呼んで、怒りや混乱を巻き込み、澪の中で一つの塊になっている。
あれを切らないと駄目だ。
「久世! 後方から下げろ、CI値落ちてるやつ優先!」
篠原が即座に叫ぶ。
判断が早い。
俺の言葉を全部信じたわけじゃない。でも、一番危ない動きだけは止めた。
教員補助が動き始める。
何人かの生徒が外へ出される。
それでも、もう教室は十分に壊れかけていた。
俺は澪の方へ行った。
足が勝手に動いた。
怖くないわけじゃない。
でも、今ここで引く方がもっとまずいと身体が知っていた。
「澪先輩」
呼んでも反応は薄い。
近づくたびに、頭の奥がきしむような感じがする。
他人の感情が、輪郭を持たないまま擦れている。
でも、その中に一つだけ、まだ残っているものがあった。
澪本人の感情だ。
かすかで、押し潰されそうで、それでも消えていない。
怖い。
でも、怖がっているのは“周りを壊すこと”の方だ。
「それ、先輩の怖さじゃない」
自分でも驚くくらい、まっすぐな声だった。
澪の目が少しだけ動く。
「……え」
「今、入ってるやつです。先輩のじゃない」
「でも」
「違う。拾ってるだけだ」
教室のどこかでまた何かが倒れる音がする。
悲鳴も怒鳴り声も、全部遠い。
今は澪だけ見ればいい。
「こっち見て」
昨日と同じ言葉を、今度はもっと強く言う。
「他は見なくていい。今入ってるの、先輩のじゃない」
澪の呼吸が浅く震える。
視線はまだ定まらない。
でも、さっきより少しだけ俺を追う。
「怖い」
かすれた声で言う。
「うるさい」
「わかってる」
「みんな、近い」
「でも全部、先輩じゃない」
言いながら、見えていた。
澪の中で一番強く絡まっている恐怖の束が、わずかに緩む。
「拾わなくていい」
俺は言った。
「それ、返していい」
自分でも意味がわからない言葉だった。
でも、その瞬間だけは、それしかなかった。
澪の瞳が初めてはっきり俺を見た。
次の瞬間、教室の空気が一気に崩れた。
悪い方じゃない。
張り詰めていた膜が、音もなく裂けたみたいに、圧だけが抜ける。
誰かの恐怖が誰かに貼りついたままの状態が、少しだけほどけた。
何人かがその場にへたり込む。
誰かが泣き出す。
篠原の指示が、ようやく普通の距離感で耳に入ってきた。
「窓際開けろ! 外の空気入れろ! 医療班呼べ!」
久世が澪の後ろへ回る。
でももう、さっきみたいな崩れ方はしない。
澪は席から落ちるみたいに力を抜いて、そのまま意識を失いかけた。
「先輩!」
反射で支えようとしたところを、篠原に肩ごと引かれた。
「有馬、離れろ」
強い声だった。
でも今度は逆らわなかった。
もう中心はほどけた。
あとは大人の仕事だ。
数分前まで悪夢の真ん中だった教室は、ひどく静かだった。
燃え尽きた後みたいだった。
篠原が澪を医療班へ引き渡しながら、ちらっと俺を見る。
その目には驚きも怒りもあったけど、一番強いのはたぶん、理解できないものを見た時の顔だった。
俺だって同じだ。
何をしたのか、正確にはまだ全然わからない。
でも一つだけわかった。
俺が届いたのは、澪の中に残っていた“本人の感情”だった。
他人のノイズの束じゃない。
あの人自身がまだそこにいたから、たぶん間に合った。
◇
現実へ戻ると、教室の被害は思っていたより大きかった。
机は何台か倒れ、壁際の端末が一つ破損している。
医療棟へ運ばれた生徒も複数いた。
怪我そのものは軽くても、精神的な混線が強かったらしい。
俺は篠原に連れられて、また別室へ移された。
昨日よりさらに長い事情聴取だった。
「繰り返すぞ」
篠原が机の向こうで言う。
「お前は何を見た」
「……感情の束、みたいな」
「感情の束」
「先輩の中に、他人のやつが溜まりすぎてて、その中に、特に強いのがあって」
「特に強いものが何だった」
「恐怖です」
そこで初めて、篠原の手が止まった。
「誰の」
「最初に崩れた男子の……たぶん。そこから他のやつも繋がって」
「お前にはそれが見分けられるのか」
「見分けるっていうか……違うってわかる、感じです」
「感じで済むかよ」
「済まないのは俺もわかってます」
声が少しだけ荒くなる。
でも篠原はそこには突っ込まなかった。
「で、雨宮には何を言った」
「その怖さは先輩のじゃないって」
「それで反応した」
「しました」
「どうしてそうなる」
「わかりません」
本当にわからない。
わからないのに、あの瞬間だけは間違っていないと確信していた。
篠原は長く息を吐いた。
机の端にはすでに何枚も記録用の紙が置かれている。
「有馬」
「はい」
「今日のことは、少なくとも“偶然うまくいった”では済ませない」
「……はい」
「お前も雨宮も、しばらく通常通りには扱われんと思え」
「俺、収容とかされますか」
思わず聞くと、篠原が少しだけ眉を寄せた。
「そこまでは知らん。だが、上が動く」
「上」
「知りたいならもっと偉くなれ」
そう言ってから、篠原は少しだけ声を落とした。
「ただ一つだけ言っとく。今日、お前が雨宮に届いたのは事実だ」
「……はい」
「だから次もお前が行けばいい、みたいな顔はするなよ」
「次は、もっとでかい」
篠原が言う。
「今日ので終わりじゃない」
それは脅しじゃなかった。
確認に近い。
俺も、たぶん同じ予感を持っていたから。
◇
その夜、寮へ戻ると志岐は起きていた。
もう寝ている時間だったのに、ベッドに腰かけたまま、部屋の電気を落とさず待っていた。
「お前、絶対寝てないと思った」
俺が言うと、志岐が乾いた笑いを漏らす。
「そりゃな」
「怒られなかった?」
「寮監には怒られた。心配すんなって感じで」
少し沈黙してから、志岐が本題に入る。
「で」
「うん」
「澪先輩、どうなった」
俺は制服のまま椅子に座った。
急に全身が重くなる。
たぶん、さっきまでは気を張っていただけだ。
「医療棟」
「それは知ってる」
「それ以上はまだ聞いてない」
「そっか」
志岐は視線を落とした。
指先が少しだけ落ち着かない。
「でも、お前が止めたんだろ」
「止めたっていうか……」
「みんなそう言ってる」
もう広まってるのか、と思ったけど、あれだけの騒ぎなら当然かもしれない。
「たまたまだよ」
「その言い方、今日だけで三人くらいから聞いた」
「誰に」
「教師と上の課程のやつと、あと談話スペースにいたやつ」
最悪だ。
変に目立つ形で広まるのは、一番望んでいなかった。
「なあ」
志岐が言う。
「俺、あの時ちょっと見たんだよ」
「何を」
「澪先輩、お前の声聞いた瞬間だけ、顔が戻った」
その言葉で、喉の奥が少し詰まる。
「……そうかも」
「そうかも、で済ませるの怖えな」
志岐はそう言って、ベッドへ倒れ込んだ。
「でも、あれで完全に終わった感じしないんだよな」
「俺も」
「だよな」
天井を見たまま、志岐が続ける。
「今日のって、たぶん一回崩れたんじゃなくて、一回耐えられなくなっただけだろ」
「そう思う」
「じゃあ次あるじゃん」
「ある」
部屋が静かになる。
アンカーの存在だけが、手首に重い。
「お前、どうする」
志岐がまた聞く。
「逃げるのは、たぶん無理」
「性格的に?」
「状況的にも」
もう見てしまった。
もう届いてしまった。
だったら、何も知らないふりで元の低ランク生徒に戻れる気がしない。
「じゃあ行くんだな」
志岐が言う。
「澪先輩のほう」
返事はしなかった。
でもしなかった時点で、たぶん答えになっていた。
消灯後、眠るまでに時間がかかった。
教室の崩れかけた空気も、澪のかすれた声も、篠原の言葉も、全部まだ頭の中に残っている。
その中で一番消えなかったのは、澪が俺を見た瞬間の目だった。
あの時だけ、この人は確かに自分へ戻りかけた。
戻れるなら、まだ助かる。
そう思ってしまった時点で、たぶん俺はもう引き返せないところにいる。




