第6話 夢が漏れ出す
雨宮澪を避けようと思ったのは、たぶん正しい判断だった。
少なくとも、普通の神経ならそうする。
近くにいると周囲の人間が少しずつおかしくなる。本人もその自覚が薄くある。しかも俺以外のやつらは、はっきり"しんどい"と感じ始めている。
距離を取る理由としては十分だった。
だから次の知覚系授業では、できるだけ澪の方を見ないようにした。
席は離れていたし、話しかける機会もなかった。
それだけなのに、自分でも少し意識しすぎだと思った。
授業自体はいつも通りに進んだ。
少なくとも表面上は。
ただ、教室の空気が前より重い。
誰も大きな問題を起こしていないのに、全員が小さな苛立ちや疲労を抱えたまま座っている感じがする。
御影はそれを見て、淡々と授業内容を変えた。
「本日は共同同期を中止します。個別観測に切り替えます」
ざわつきは起きなかった。
代わりに、何人かが露骨にほっとした顔をした。
ああ、みんな気づいてるんだなと思った。
気づいてるくせに、まだ"何かがおかしい"以上の言葉を持てていないだけで。
授業が終わっても、俺はすぐに席を立った。
澪の方を見ないまま教室を出る。
その直後、背中に声が飛んできた。
「有馬くん」
止まるしかなかった。
振り返ると、澪が立っていた。
数歩分の距離があるだけなのに、なぜかそれが妙に気まずい。
「最近、避けてる?」
責める言い方ではなかった。
むしろ、確認するみたいな静かな声だった。
「……そんなつもりじゃ」
「そっか」
俺の返事は、自分で聞いても苦しかった。
澪の方も、それで納得した顔はしていない。
少しだけ沈黙が落ちる。
教室から出ていく他の生徒たちが、俺たちの横を通っていく。
その誰も、こっちを気にしないふりをしていた。
「なんかあったなら、言って」
澪が言う。
「私、いま自分でもちょっと変なのわかってるから」
その言葉で、胸の奥が鈍く縮んだ。
わかってる。
本人も、もうそこまで来ている。
「澪先輩が悪いって思ってるわけじゃないです」
口にしたのは、たぶん言い訳に近かった。
でも嘘ではない。
「ただ、先輩の近くで、変なことが起きることは増えてる気がします」
「うん」
否定しなかった。
否定できないんだろう。
「俺は、まだ、何なのかよくわからないです」
「……うん」
「だから、下手に近づかない方がいいのかなって」
「それ、自分のため?」
「両方です」
そこだけは、妙に正直に言えた。
澪は少しだけ目を伏せた。
悲しそうに見えたけど、怒ってはいなかった。
「ちゃんとしてるんだね」
「そうですか」
「私は、ちゃんとしてる人に避けられると、ちょっと刺さる」
困ったみたいに笑う。
その笑い方が、前よりも少しだけ薄い。
「ごめん」
「いや……」
謝るのはたぶん、こっちの方だった。
「でも、ひとつだけ」
澪が言う。
「有馬くんの近く、静かなんだよね」
その言葉を、前にも聞いた気がした。
でも今は重さが違う。
ただの相性の話じゃない。
この人にとって、それはたぶん、息ができる場所に近い。
「だから、避けられると困る」
澪はそう言って、今度こそ笑わなかった。
返事ができないまま、彼女は先に廊下を歩いていった。
その背中を見送りながら、自分がひどく間違ったことをしたような気分になった。
でも、正しいことをした感じも、やっぱりしなかった。
◇
小さな事故が起きたのは、その日の夜だった。
寮の談話スペースは、消灯前になると少しだけ人が集まる。
端末をいじるやつ、課題を片づけるやつ、ただ椅子に座ってぼんやりしてるやつ。
静かだけど、完全に閉じた部屋よりは息がしやすい場所だ。
その晩も、俺と志岐はそこにいた。
志岐は端末でレポートの入力をしていて、俺はその横で資料を眺めているふりをしながら、半分くらいは何も読んでいなかった。
空気が落ち着かない。
最近ずっとそうだ。
アンカーが悪いわけじゃない。周囲の物音が多いわけでもない。
ただ、人の感情が少しずつ浮いていて、それが部屋の上の方に溜まっているような感じがする。
「お前、全然進んでなくない?」
志岐が端末から目を離さずに言う。
「読んでる」
「見てるだけだろ」
「たぶん半分くらいは」
「正直でよろしい」
軽口を返したところで、談話スペースの入口が開いた。
振り向くより先に、少しだけ空気が変わる。
誰かが入ってきた。
その感覚が、最近は先にわかるようになってしまった。
雨宮澪だった。
本人はいつも通りに見えた。
ジャケットの前を留めずに羽織って、端末を片手に持っている。顔色は少し悪いけど、歩き方は普通だ。
ただ、入ってきた瞬間に、談話スペースの何人かがごく自然に顔を上げた。
その反応が、妙に揃いすぎていた。
「……来たな」
志岐が小さく言う。
「今の言い方やめろ」
「いや、悪い意味じゃなくて」
悪い意味じゃないとわかっていても、言い方が少し嫌だった。
それだけ、俺も神経質になってるのかもしれない。
澪は俺たちに気づいたけど、すぐには来なかった。
奥の方の席に座って、端末を開く。
それだけだ。
それだけなのに、部屋の中のざらつきがわずかに増した。
五分もしないうちに、近くの席で小さな言い争いが始まった。
「だから、それ俺の端末だって」
「いや番号同じだろ」
「同じなわけあるかよ」
「見れば――」
たいしたことじゃない。
座席の充電端末を取り違えただけだ。
でも、声の立ち上がりがやっぱり早い。
しかも今夜は、それだけじゃ終わらなかった。
別の席で、急に女子生徒が息を呑む音がした。
振り向くと、顔色が真っ青になっている。
何かを見ているようで、でも目の焦点が合っていない。
「おい、大丈夫か」
近くの生徒が立ち上がる。
その声に、今度は別の男子がびくっと肩を揺らした。
何も起きていないはずなのに、部屋全体の反応が一段ずつずれている。
その中心に、雨宮澪がいた。
本人は座ったまま、手元の端末を落としていた。
拾おうとしているのに、指先がうまく動いていない。
アンカーの表示が細かく点滅しているのが、ここからでも見えた。
まずい、と思った。
何がまずいのかは説明できない。
でも今までの"空気が悪い"とは違う。
これは、もう形を持ち始めている。
「志岐、寮監呼んで」
「え?」
「早く」
言ってから、自分で驚く。
いつもなら、こんなふうに先に口が動いたりしない。
でも志岐はその顔を見て、すぐに立ち上がった。
俺は澪の方へ行った。
「先輩」
声をかけても、すぐには反応しない。
近づくとわかる。
今までで一番、彼女の周囲の"境目"が薄い。
表現のしようがない。
でも、そうとしか言えない。
澪の中に、澪以外の何かが流れ込みすぎている。
周囲で起きている苛立ちも、怯えも、混乱も、全部がこの人のところで一度重なってしまっている感じがした。
「澪先輩」
もう一度呼ぶと、今度は少しだけ顔が上がった。
「……あ」
「立てますか」
「ごめん、ちょっと、今」
声がかすれている。
呼吸も浅い。
「うるさい」
小さく、でもはっきり言った。
「みんな、近い」
その言葉と同時に、談話スペースの奥で椅子が倒れる音がした。
さっき顔色を悪くしていた女子生徒が、誰かを押しのけるみたいに立ち上がっている。
押された側も反射で怒鳴り返した。
今、その感情が入ったら駄目だ。
頭ではなく、身体の方がそう判断した。
「先輩、こっち見て」
思わずそう言った。
澪の視線が少しだけ動く。
焦点はまだ合いきらない。
「他は見なくていい」
「でも……」
「いいから」
自分でも驚くくらい、強い声が出た。
命令するつもりなんてなかったのに。
澪の目が、ようやく俺の方へ戻る。
その瞬間だけ、周囲のざらつきがほんの少し遠のいた気がした。
久世が駆け込んできたのはその直後だった。
後ろに篠原もいる。
「全員、距離を取れ!」
篠原の声が飛ぶ。
「有馬、お前は――」
そこまで言って、篠原が一瞬だけ止まった。
俺が澪の正面に立っていて、澪の視線がそこに固定されているのを見たからだと思う。
「……そのまま動くな」
篠原は即座に言い換えた。
「久世、後方下げろ。CI値落ちてるやつから外へ出せ」
談話スペースは一気に騒がしくなった。
でも、その中心だけが妙に静かだった。
「ごめん」
澪がまた言った。
「ごめん、これ、たぶん」
「今はいいです」
「私、たぶん」
「今は喋らなくていい」
そのたびに、彼女の視線が俺へ戻る。
それだけで、崩れかけた何かがぎりぎり繋がっている感じがした。
数分だったと思う。
でも体感ではもっと長かった。
篠原たちが周囲を整理し、久世が体調を崩した生徒を外へ出し、談話スペースの人数が減るにつれて、澪の呼吸も少しずつ戻ってきた。
完全には戻らない。
でも、これ以上広がる感じはしなくなった。
「……有馬」
篠原が低い声で言う。
「一回離れろ」
そこで初めて、自分の足が少し震えているのに気づいた。
離れた瞬間、澪はすぐに久世と別の教員に支えられた。
でも、さっきまでみたいな崩れ方はしない。
まだ終わってない。
でも、とりあえず今夜はここまでだ。
そういう空気が、ようやく部屋全体に落ちた。
◇
そのあと俺は、篠原に別室へ連れて行かれた。
事情聴取というほど固いものじゃなかったけど、ただの会話でもない。
小さい面談室。水だけ入った紙コップ。机の上の端末。
センターらしい部屋だった。
「何が見えた」
最初の一言がそれだった。
「見えたっていうか……」
「感覚でもいい。順番に言え」
理屈がつかなくても構わない、とは言っていたけど、実際に言葉にするのは難しい。
「先輩が、中心でした」
「中心」
「本人が何かしてるっていうより、周りの感情が、あの人のところで一回混ざる感じがして」
「混ざる」
「それで、さっきは、喧嘩しそうな空気とか、怖がってるのとかが、全部一気に近づいた感じがして……」
自分で喋りながら、説明になっていないと思う。
でも篠原は途中で止めなかった。
「で、お前は何をした」
「わからないです」
「わからん、で済ませるな」
「……先輩に、こっち見ろって言いました」
そこだけははっきりしている。
それ以外は曖昧でも。
「それだけか」
「たぶん」
「たぶん、じゃ困るんだよな」
そう言いながらも、篠原は怒ってはいなかった。
疲れている顔のまま、端末に何かを打ち込む。
「雨宮の近く、お前は平気なのか」
「平気……だと思います」
「他のやつは平気じゃない」
「そうみたいです」
しばらく無言が続いた。
篠原の端末の打鍵音だけが妙に大きい。
「今日はよくやった、とは言わん」
やがて篠原は言った。
「まだ何も終わってないからな」
「はい」
「ただ、お前がいなかったらもっと面倒になってた可能性はある」
それが評価なのか警告なのか、よくわからなかった。
「この件、外で勝手に喋るな。志岐にも必要以上に話すな」
「わかりました」
「それと――」
篠原はそこで少しだけ迷った。
「雨宮を助けたいなら、勝手に背負うな。お前だけで何とかなる相手じゃない」
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
助けたい。
そう、もう思っているらしい。
自分の中では、まだはっきり認めていなかったのに。
◇
部屋に戻ると、志岐は起きて待っていた。
「遅かったな」
「そっちこそ」
「寝れねえだろ、あれ見たあと」
たしかにその通りだった。
「大丈夫だったのか、澪先輩」
「わからない。医療棟に連れてかれた」
「そっか」
志岐はベッドに座り直して、少しだけ声を落とした。
「なあ、俺さ」
「うん」
「あの人のこと、怖いとは思ってないんだよ」
「うん」
「でも、あの人の近くで起きることは、もう普通に怖い」
それは、たぶん一番正しい言い方だった。
「俺も同じかも」
「だよな」
少しだけ間があく。
「で、お前はどうすんの」
「何が」
「どう見ても、もう関わらないって顔してないけど」
返せなかった。
志岐はそういうところだけ無駄に勘がいい。
しばらくしてから、ようやく口を開く。
「……放っておけない」
「だろうな」
あっさり肯定されてしまう。
「でも、今日のでわかった。もうこれ、空気が悪いとかの話じゃない」
「事故?」
「たぶん、その手前」
手前。
つまり、次はもっと大きい。
その予感だけが、はっきりしていた。
眠ろうとしても、目を閉じるたび談話スペースの光景が浮かんだ。
椅子の倒れる音、澪の浅い呼吸、他人の感情が一斉に流れ込むみたいなあの感じ。
そして、自分の声だけが、あの人に届いた瞬間。
あれが偶然だけで済むとは、もう思えなかった。




