第5話 歪んでいく空気
夢の内容を覚えていない朝は、気分だけが悪い。
それを最初に言い出したのは志岐だったけど、数日もすると、同じようなことを口にするやつは増えた。
「寝た気がしない」
「起きた瞬間、意味わかんないくらいイラついてた」
「別に怖い夢じゃないんだけど、気持ちだけ残る」
食堂でも、訓練棟の休憩スペースでも、似た言葉を耳にするようになった。
もちろん、修学センターにいる人間は最初から不安定なやつが多い。
アンカーの調整が合わないとか、新しい環境に慣れないとか、能力訓練で疲れてるとか。
説明のつく理由はいくらでもある。
それでも、説明のつかなさの方が少しずつ勝ち始めていた。
朝の通常教科は、まだましだった。
教室に閉じて座っていれば、少なくとも何かが起きる頻度は少ない。
問題は、移動と実習と、休憩時間だった。
人が混ざる。
感情も混ざる。
修学センターの能力授業は、たぶんそういうふうにできている。
個性を伸ばすとか、適性を見るとか、そういう建前の下で、いろんな人間を少しずつ混ぜて、反応を観察している。
そこに最近の空気の悪さが乗ると、やたらと疲れる。
この日も、二限の終わりに、些細なことで口論が起きた。
貸し出し端末の返却順。
たったそれだけだ。
昨日までなら、舌打ち一つで終わるようなことだったのに、今日は片方の肩が目に見えて上がって、声も一段深くなっていた。
「別に並んでたわけじゃねえだろ」
「いや、普通に前いたし」
「は? お前さっきまでいなかっただろ」
近くの何人かが見ている。
誰も止めない。
止めるほどのことじゃないから、じゃない。
たぶん、みんな今、自分の機嫌を保つので少し手一杯なんだ。
結局は教員が間に入って終わった。
でも、そのあともしばらく教室全体にざらついた空気が残っていた。
「最近ほんと多いよな、こういうの」
移動中、志岐が小さく言う。
「増えてる気はする」
「増えてるっていうか、引火しやすいっていうか」
「火種は小さいのに?」
「そう。妙にそこだけ大きくなる感じ」
ぴったりくる言い方だった。
問題そのものじゃなくて、感情の伸び方だけがおかしい。
「先生らも気づいてるよな」
「気づいてはいると思う」
「なのに"環境変化のストレスです"で押しきる気配あるのが一番嫌だ」
志岐の言い方は雑だけど、外してはいなかった。
◇
その日の午後、知覚安定化訓練があった。
教室の空気は、初回より少しだけ重い。
全員が気づいているのに、誰もそれを授業前には言わない。そういう妙な遠慮がある。
雨宮澪は、俺より少し先に教室へ来ていた。
自分の席に座って端末を見ている。
見ている、というより、視線を落としているだけに近い。
「こんにちは」
声をかけると、少し遅れて顔が上がった。
「あ、有馬くん」
「眠そうですね」
「たぶんそう見える日」
「見える日って」
「ほんとに眠い日もあるから」
そこで少しだけ笑う。
いつもの感じに見える。
でも近づいた時、わずかにわかった。
今日はいつもより、澪の近くの空気が落ち着かない。
うまく表現できない。
でも、この数日で少しずつ慣れてきた感触だ。
澪のそばで呼吸が微妙に変わる、あの感じ。
今日はそれが、いつもより一段、強い。
「大丈夫ですか」
「何が?」
「いや……なんとなく」
「それ便利だよね。なんとなく」
やさしく茶化される。
でも、その言葉の最後が少しだけ浅い。
教員は篠原だった。
御影ほど静かじゃないし、言い方も現場寄りだ。
教室に入るなり、全員をざっと見て、最初の一言で空気を切り替える。
「今日は集中切れてるやつ多いな」
ざわつきが止まった。
「自覚あるやつは申告しろ。無理して座ってりゃどうにかなる段階と、そうじゃない段階の見分けくらい覚えろ」
厳しいけど、正しい。
少なくとも"気のせいにするな"とは言ってくれている。
何人かが申告して、教室の後方へ回された。
軽い調整枠らしい。
澪は手を上げなかった。
俺も上げなかった。
訓練が始まる。
今日は知覚分離の基礎だった。
外から入ってくる音、光、相手の反応、その全部を一度受け取ったうえで、自分の内側と切り分ける訓練。
正直、得意じゃない。
少なくとも教本通りにはできない。
でも、澪の近くでやる時だけは、なぜか少しましだった。
そのかわり、周囲は露骨に良くなかった。
左前方の女子生徒が、二回続けて訓練を切る。
斜め後ろでは男子生徒が苛立ったように舌打ちをした。
誰かのアンカーが短く警告音を鳴らし、篠原が即座に視線を飛ばす。
「深呼吸。切るな。人のノイズに引っ張られるな」
篠原の言葉は的確だった。
でも、その"人のノイズ"という言葉だけが、妙に胸に残った。
人のノイズ。
そう言われると、最近起きていること全部が、そこに収まる気がする。
訓練の後半、短いペア固定の時間があった。
相手の呼吸や視線に影響されすぎず、それでも同期を切りすぎない。
バランスだけを見るような、ごく地味な訓練だ。
澪と向かい合う。
距離は近い。
目を見ろとは言われない。
でも視界から消すには近すぎる。
十秒。
二十秒。
三十秒。
やっぱり、やりやすい。
その代わり、今日は別のことが見えた。
澪の呼吸が、途中で一度だけずれた。
相手に合わせてではなく、何か別のものに引かれたみたいに。
視線も同じだ。
俺ではなく、その向こう側――教室全体のどこかに、一瞬だけ注意が持っていかれている。
次の瞬間には戻る。
でも、戻るたびに少しだけ遅れる。
そしてその"戻り"に合わせるみたいに、教室のどこかで誰かの呼吸が乱れる。
関係ないはずなのに、タイミングが重なる。
偶然かもしれない。
ただ、三回目にそれが起きた時、俺は少しだけ確信に近いものを感じた。
「……先輩」
小さく呼ぶと、澪が瞬きをした。
「ん、ごめん」
「大丈夫ですか」
「たぶん」
たぶん。
今日は、その言葉の回数が多い。
「ちょっとだけ、うるさいかも」
「教室が?」
「教室も」
その言い方で、背筋が冷えた。
澪は自分が何に飲まれかけているのか、まだ正確には言えない。
でも、本人だけは少しずつ気づいている。
◇
授業のあと、篠原に呼び止められたのは俺だった。
「有馬」
「はい」
「今日、雨宮と組んでたな」
「はい」
「やりづらかったか」
「……いや」
一瞬迷ってから答える。
ここで正直に"むしろやりやすいです"と言うのも違う気がした。
「普通でした」
「そうか」
篠原はそれ以上深く聞かなかった。
でも目だけは少しだけ考えていた。
「お前、自分じゃ気づいてないこと多そうだな」
「それ、褒めてます?」
「褒めてない」
即答だった。
「何か変だと思ったら、感覚でもいいから申告しろ。理屈がついてなくても構わん」
「感覚で」
「この手の授業は、理屈がつく頃には遅いこともある」
そこで会話は終わった。
ただ、その言葉だけが頭に残った。
理屈がつく頃には遅い。
まるで、今の俺に向けて言ったみたいだった。
◇
その晩、寮の空気はいつもよりさらに悪かった。
静か、という意味じゃない。
むしろ逆だ。
誰も大声は出していないのに、小さな物音やため息がやけに耳につく。
洗面所で歯を磨いていたら、奥の方で誰かが急に吐いた。
別に珍しいことではない。
能力訓練のあとに体調を崩すやつはいる。
でも、すぐ近くにいた別の生徒が、反射みたいに苛立った声を出した。
「ちっ、最悪……」
その言い方が妙にきつい。
吐いた本人も、謝る前に睨み返していた。
そのまま口論になりかけて、寮監の久世が来て止めた。
「ここで感情を上げるな。部屋に戻れ」
低い声だった。
怒鳴らなくても止まるタイプの大人だ。
それでも、みんな完全には落ち着いていない。
見えないところで、ずっと同じ温度の苛立ちが続いている感じがする。
部屋に戻ると、志岐がベッドに寝転がったまま天井を見ていた。
「今日は?」
聞くと、志岐は顔だけこちらへ向けた。
「たぶん見る」
「予告やめろって」
「もう半分くらい予告なんだよ、ここ最近」
笑えない冗談だった。
「なあ」
志岐が言う。
「澪先輩と、最近よく一緒にいるよな」
「授業がかぶるだけ」
「ふーん」
「何だよ」
「いや。お前、あの人の近くだと平気そうだから」
心臓が少しだけ嫌な打ち方をした。
「……何が」
「空気。わかんねえけど、俺、あの人の近くちょっとしんどい時ある」
志岐は言葉を選ぶみたいに続けた。
「怖いとかじゃないんだよ。ただ、頭の中の境目が薄くなる感じ。考えてないことまで浮いてくるっていうか」
「それ、他の人にも?」
「知らん。でもたぶん、似たようなのはいる」
やっぱり、俺だけの勘違いじゃない。
「でも、あの人が悪いって感じでもないんだよな」
志岐がぼそっと言う。
「なんか、本人も巻き込まれてる側っぽいし」
その認識まで一致するとは思わなかった。
少しだけ救われる。
同時に、逃げ道が減る。
「寝るか」
志岐が言う。
「見たくなくても、寝ないと終わんないし」
「前向きなんだか後ろ向きなんだか」
「どっちでもいいだろ、もう」
照明が落ちる。
暗くなると、逆にアンカーの存在だけがはっきりする。
手首に沿った鈍い感触が、ここにいる間は消えない。
目を閉じても、すぐには眠れなかった。
澪の近くは静かだ。
たぶんそれは本当だ。
でも、その静けさは澪自身の中が静かだからじゃない。
むしろ逆で、あの人の中には、たぶん今、人の感情が溜まりすぎている。
なのに、俺の近くにいる時だけ、それが少しだけ整う。
理由はわからない。
でも、もしそれが本当にそうなら。
放っておいていい感じは、もうしなかった。




