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第4話 似た夢を見る

 知覚安定化訓練の次の日から、雨宮澪のことを意識しないようにするのが、少しだけ難しくなった。


 別に何か特別な約束をしたわけじゃない。

 連絡先を交換したわけでもないし、授業のあとで一緒に帰ったわけでもない。

 ただ、修学センターは思っていたより閉じた場所で、流動編成の授業が多いぶん、何度か顔を合わせるだけでも妙に"知っている人"になる。


 次に会ったのは、その二日後の共同干渉基礎実習だった。


 訓練棟の廊下で端末を確認していたら、横から声がした。


「また一緒だ」


 振り向くと、澪がいた。

 今日は制服の上から薄いセンター指定のジャケットを羽織っていて、そのせいか前より少しだけ年上に見える。

 でも、笑うとやっぱり柔らかかった。


「本当ですね」

「知覚系、結構かぶるのかな」

「どうなんでしょう」

「さあ。私も編成の基準、よくわかってないし」


 言いながら、澪は自分の端末を軽く振る。

 その仕草が妙に軽くて、見た目だけなら"再調整明け"なんて言葉と一番遠い人に見えた。


 でも近くで見ると、やっぱり少しだけおかしい。


 目元が疲れている、というのとも違う。

 たとえば誰かの話を聞いている時、澪はきちんと相手を見る。なのに、話の終わり際だけ、焦点が少しだけ外れる。

 呼吸のタイミングも、たまに遅れる。

 それを本人が意識して取り繕っている感じがあるから、余計に気づいてしまう。


「有馬くん?」

「……あ、すみません」

「いや、別に。まだ寝てるのかと思った」


 少し笑われた。

 誤魔化すみたいに自分も笑う。


「寝不足ではあります」

「慣れないよね。ここ」


 その一言が、ちょっと意外だった。

 澪は俺より先にこの場所にいた人間で、俺よりずっと慣れている側のはずなのに。


 そう思ったのが顔に出ていたのか、澪は少しだけ目を伏せた。


「……戻ってきたばっかだし。思ったより、また慣れるのに時間かかる」


 言い方は軽い。

 でも、その"戻ってきた"の中には、たぶん俺が知らないものがいろいろ含まれている。


「そういうものなんですね」

「うん。たぶん」


 たぶん、という言葉の重ね方が、この人らしいなと少し思った。


    ◇


 共同干渉基礎実習は、名前のわりにまだ大したことはしなかった。


 隣接ペアでの短い干渉同期、簡単な感情負荷をかけた状態でのアンカー安定確認、あとは端末上の反応ログ比較。

 前に出るのはB級以上が多くて、俺みたいなC下位はだいたい後ろ寄りの補助枠だった。


 それは別に嫌じゃない。

 むしろその方が楽だった。


 澪も前に出るタイプじゃないらしく、自然と近い位置にいる時間が長くなった。


「有馬くん、そういう顔もするんだ」

 ログ比較の最中、澪が端末を見ながら言った。


「どういう顔ですか」

「ちょっと負けず嫌いそうな顔」

「してました?」

「してた。ほんの少し」


 自分ではわからなかった。

 ただ、反応ログが周囲より平凡で、しかも平凡すぎるのが少しだけ気に障っていたのかもしれない。


「安心して。私も似たようなもんだから」

「慰めになってるのか微妙ですね」

「ひどいな」


 そう言って澪が笑う。

 その笑い方は自然で、柔らかくて、やっぱり話していて疲れない。


 そのことが逆に、少しだけ不安だった。


 授業の後半、ペア単位で短い感情ノイズ耐性の確認があった。

 不快音や違和感のある映像を見せられて、その間の知覚と呼吸の安定を記録するだけの簡単なものだ。

 訓練というより測定に近い。


 俺はそういうのが得意じゃない。

 別に怖いものを見せられたわけでもないのに、身体だけが微妙に身構える。


 ところが、澪と同じ枠にいる時だけ、それが少し弱かった。


 呼吸も乱れないし、胸の奥のざわつきも薄い。

 アンカーの表示も安定している。


 代わりに、同じ列の別の生徒たちが目に見えてきつそうだった。

 片方は机に肘をついて目を閉じているし、もう一人はやけに細かく貧乏ゆすりをしている。


 教員は記録を取るだけで、特に止めない。

 訓練棟では、あれくらいは"ある反応"として処理されるんだろう。


 でも俺は、その場の空気の重さだけを妙に覚えていた。


    ◇


「最近、寝れてる?」


 食堂で向かいに座った澪が、味噌汁の湯気越しに聞いてきた。


 共同干渉基礎実習が終わった日の昼だった。

 別に待ち合わせたわけじゃない。

 空いている席を探していたら、澪が先に気づいて手を軽く上げただけだ。


「普通に」

「普通って便利な言い方だよね」

「じゃあ、たぶん普通より少し眠いです」

「あ、それはちょっとわかる」


 澪の方も、いつもより少しだけ顔色が薄い。

 元々白いせいで目立ちにくいけど、近くで見るとわかる。

 それでも声はやわらかくて、無理に元気を作っている感じは出していない。


「雨宮先輩は」

「澪でいいよ」

「……じゃあ、澪先輩は」

「なんで先輩だけ残すの」


 笑いながら言う。

 少しだけ肩の力が抜けた。


「澪先輩は、寝れてるんですか」

「んー……寝てるはずなんだけどね」


 箸で白身魚をつつきながら、澪は少し考える。


「寝た感じが薄い日がある」

「夢とか?」

「見る。しかも、起きると内容はほぼ忘れてるのに、気分だけ残るやつ」


 その言い方に、昨夜の志岐を思い出す。

 変な夢を見た、と言っていた時の顔。


 俺が黙ったのに気づいたのか、澪は視線を上げた。


「有馬くんも?」

「いや、俺は……」

 そこまで言ってから、少し迷う。

「寮のやつが、似たようなこと言ってました」

「やっぱりか」


 "やっぱり"。

 その一言に、俺は初めて少しだけ本気で警戒した。


「何かわかるんですか」

「わかるってほどじゃない。ただ……」


 澪は言葉を探しているみたいに、少しだけ目を細めた。


「最近、人の機嫌が近い感じがする」


 それがどういう意味か、すぐにはわからなかった。


「近い?」

「うまく言えないんだけど。誰かがイライラしてると、別の誰かもすぐ同じとこまで上がるし、逆に落ちる時も早いし」

「……集団生活だからじゃなくて?」

「それもあると思う。でも、前よりちょっと変」


 前。

 その言葉が出るたび、俺の中で"再調整棟"が勝手に影を作る。


「ごめん」

 澪が先に言った。

「こういうの、戻ってきたばっかのやつが言うと嫌だよね」

「いや、そんなこと」

「あるよ。気にしないで、って言われる側も困るし」


 困る、と言いながら本人が少しだけ困った顔をする。

 そこで笑ってしまいそうになったのを、なんとか堪えた。


「俺は、気にはなってます」

 言うと、澪は少しだけ目を丸くした。


「何が?」

「その、最近ちょっと空気変だなとは」

「……そっか」


 そこで会話は切れた。

 気まずいわけじゃない。

 でも、お互いにその先をどう言えばいいかわからない沈黙だった。


 沈黙の中でも、澪の近くは不思議と落ち着いた。

 少なくともその瞬間だけは。


    ◇


 それから数日、似たような小さなことが続いた。


 寮の廊下で、昨日まで普通に話していた二人が、どうでもいいことで険悪になる。

 訓練棟の休憩時間に、誰かが急に泣き出す。

 食堂でトレーをぶつけただけのことに、必要以上の怒鳴り声が飛ぶ。

 アンカーの軽い警告音が鳴る回数も、最初の週より増えた気がした。


 もちろん、修学センターが元からそういう場所なんだと言われれば、それまでだ。

 不安定なやつも多い。能力系の訓練もある。管理も厳しい。

 少し空気が悪い日があるくらい、珍しくないのかもしれない。


 でも、俺にはどうしても、全部が同じ方向へ少しずつ傾いているように見えた。


 特に、雨宮澪の近くで起きた時だけ。


 ただ、それをはっきり"見えている"と言えるほどのものでも、まだなかった。

 感じる、という方が近い。

 何かが違うという感覚だけが先にあって、言葉が追いつかない。


 それが確信に変わる前のことが、夕方の短い自由時間に起きた。


 訓練棟から寮へ戻る途中、渡り廊下の窓際で澪が一人立っていた。

 外を見ているようで、実際には視線がどこにも定まっていない。


「澪先輩」

 声をかけると、少し遅れてこちらを向いた。


「あ、ごめん。気づかなかった」

「いや、別に……大丈夫ですか」

「大丈夫。ちょっとぼーっとしてただけ」


 そう言う声はいつも通りだったけど、今日は目の焦点が外れている時間が長い。

 近くで見ると、手首のアンカーの表示もいつもより細かく明滅していた。


「アンカー、調子悪いんですか」

「んー、私の方が悪いのかも」


 冗談っぽく言う。

 でもその笑い方はかなり薄い。


「最近、音が多い感じするんだよね」

「音?」

「頭の中の」


 言った直後、澪は少しだけ顔をしかめた。

 自分でも口にしたくないものを出してしまったみたいな反応だった。


「ごめん、今の忘れて」

「忘れろって言われても」


「だよね」

 また同じように、やわらかく笑う。

 笑い方だけは、本当にうまいと思う。


 その時、廊下の反対側から男子生徒が二人、早足で近づいてきた。

 同じ授業で見た顔だった。

 一人は何かに苛立っていて、もう一人はそれを抑えようとしているように見える。


 すれ違うだけのはずだった。


 でも、片方が肩を軽くぶつけた瞬間、空気が急に変わった。


「今、わざとだろ」

「は? そっちが――」


 どこにでもあるような言い争いだ。

 なのに、熱の上がり方だけが異常に早い。

 たった一言目で、もう引き返せないところまで行きかけている。


 澪の肩が小さく揺れた。


 その揺れを見た瞬間、俺の中で何かが引っかかった。

 二人の怒りの温度と、澪の表情が変わるタイミングが、少しだけ重なって見えた。

 ただの偶然かもしれない。

 でも、それを言い切れる自信も、もうなかった。


「先輩、下がって」


 自分でも考えるより先にそう言っていた。


 澪が一歩だけ下がる。

 それだけで、二人の間の張りつめた感じがほんの少し鈍った。


 ちょうどそのタイミングで、巡回していた教員が声をかける。


「何してる」


 鋭い一声で、二人はようやく現実に戻ったみたいに黙り込んだ。

 教員に連れて行かれる背中を見送りながら、澪は息を吐いた。


「……ごめん」

「なんで先輩が謝るんですか」

「なんとなく」


 その"なんとなく"の中身が、俺には少しだけわかる気がした。


 たぶんこの人は、自分の中で何かが起きていることに薄く気づいている。

 でも、どう名前をつければいいのかわからないんだ。


「有馬くん」

「はい」

「さっき、なんで下がれって言ったの?」


 質問はまっすぐだった。


 答えられなかった。

 俺にもわからない。


「……危ない気がしたからです」

「私が?」

「いや」

 そこで言葉に詰まる。

「先輩の近くにあると、なんか、変になる時がある気がして」


 言ってしまってから、ひどいことを言ったかもしれないと思った。


 でも澪は怒らなかった。

 悲しそうにも見えなかった。

 ただ少しだけ、疲れた顔で笑った。


「そっか」

「すみません」

「ううん。たぶん、それ、間違ってない」


 その返事の方が、よほど怖かった。


    ◇


 夜、寮に戻ると志岐が珍しく無言だった。


「どうした」

「今日、夢の内容ちょっと覚えてる」


 ベッドに腰かけたまま、こっちを見ないで言う。


「廊下だった」

「廊下?」

「誰かと喧嘩してて、でも相手の顔が途中で何回も変わるんだよ。知らないやつになったり、先生になったり、自分になったり」


 背中に冷たいものが走る。


「変な夢だな」

「だろ。起きてからもむちゃくちゃ気分悪い」


 志岐はそこで顔を上げた。


「なあ、最近ほんとに変じゃないか」


 それを、ようやく他の人間も口にし始めた。


「……変だと思う」

 俺は答えた。

「ただ、何が原因かはわからない」


「俺、原因とかまで考えたくねえな」

「同意」

「だよな」


 志岐は笑おうとして失敗したみたいな顔になった。


 消灯後も、しばらく眠れなかった。


 渡り廊下での澪の顔を思い出す。

 いつも通りに笑っていたのに、目の奥だけが妙に遠かった。


 あの人の近くでは、周りの人間から先におかしくなる。

 でも、たぶん一番壊れているのは、本人の方だ。


 その考えが浮かんだ瞬間、ひどく嫌な気分になった。


 怖いからなのか、放っておけないからなのか。

 自分でもまだわからないまま、眠りに落ちた。


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