第3話 隣の席の先輩
知覚安定化訓練の教室は、普通の授業で使う部屋より少し広かった。
机がきれいに前を向いて並んでいるわけじゃない。
半円を崩したみたいな配置で、中央には何も置かれていない空間がある。
黒板の代わりに壁一面の表示パネル。天井には細い照明が何本も走っていて、全体に明るいのに、なぜか眠くなるような白さだった。
教室の前で端末をかざすと、座席番号が表示される。
流動編成だから、毎回こうやって決められるらしい。
俺の席は、中央より少し後ろ、右寄りだった。
すでに何人か座っている。
同じ中等後期っぽい顔もいれば、少し年上に見えるやつもいる。制服の着方もまちまちだ。
クラス単位の授業に慣れていると、この混ざり方は少し落ち着かない。
席に着いてからも、なんとなく周囲を見てしまった。
知らない顔ばかりだ。
いや、正確には、見覚えがあるような顔はいくつかあったけど、名前まではわからない。
修学センターは広いくせに、食堂や廊下で何度かすれ違えば、それだけで薄く記憶に残る。
教員はまだ来ていない。
教室の空気はざわついているわけでもないのに、静かとも言い切れない半端なものだった。
話しているやつらも、どこか声量を測っているみたいに見える。
扉が開いて、また一人入ってきた。
最初に目に入ったのは髪だった。
肩にかかるくらいの長さで、黒に近い色。光の下だと少しだけ柔らかく見える。
次に、顔立ち。
――かわいい人だな、と思った。
思ったあとで、少しだけ驚く。
こういう場所に来てから、自分でもわかるくらい周囲を"人"じゃなくて"環境"として見ていたからだ。
誰がどこにいるとか、誰が強そうだとか、誰に関わらない方がいいとか。
そういうふうに見ていたところに、単純に見た目で目が止まった。
その人は、端末を確認してから、俺の隣の席に来た。
一瞬だけ、視線が合う。
「あ、隣なんだ」
声は思っていたより柔らかかった。
静かだけど、聞き取りづらいわけではない。
「……みたいです」
なんで少し間を置いたのか、自分でもよくわからない。
彼女は小さく笑って、椅子を引いた。
「よかった。知らない人しかいないと、ちょっと疲れるし」
そう言って座る動きも、どこかやわらかい。
ぎこちなさはない。慣れている、というほどでもない。
ただ、動きの最後が少しだけ遅いような感じがした。
「雨宮澪」
「あ、有馬湊です」
「知ってる。編入してきた子でしょ」
「……それも知られてるんですね」
「修学センター、そういうの広まるの早いから」
変にからかうでもなく、ただ事実みたいに言う。
話しやすい人なのかもしれないと思った。
でも、その時点でもう少しだけ引っかかっていた。
目がおかしい、とまでは言わない。
ただ、こっちを見ているはずの瞬間に、焦点がほんの少しだけ奥へ抜けるような時がある。
ぼんやりしてる、とも違う。
見ている場所が、たまにずれる。
たぶん、気のせいだ。
あるいは、再調整明けとか、そういう事情のある人なのかもしれない。
ここでは珍しくないんだろう。
そう思って、それ以上は考えないことにした。
すぐに教員が入ってきた。
担当は御影だった。
名前はオリエンテーション資料で見た覚えがある。知覚系と観測理論を受け持つ教員。
近くで見ると、資料で抱いた印象よりずっと静かだった。
年齢はよくわからない。若くも見えるし、そう見えるだけの大人にも見える。
黒髪をきちんとまとめていて、白衣ではないが、私物感の薄い無彩色の服を着ている。
教室の空気が、御影が立っただけで少しだけまっすぐになるのがわかった。
「着席」
十分みんな座っていたけど、声がかかると教室がさらに静まった。
「知覚安定化訓練の初回は、測定よりも状態確認を優先します。ここでは高出力は不要です。不要な自己主張も不要です」
言い方が妙に引っかかった。
冗談っぽくもなく、ただ本当にそう思っている声だった。
「知覚の乱れは、多くの場合、本人の主観より周囲のログに先に出ます。自覚があるかないかを、信用しすぎないように」
自覚があるかないかを、信用しすぎない。
それはこの場所全体にも通じる言い方に聞こえた。
御影の指示で、最初の訓練が始まる。
難しいことはしない。
呼吸のペースを一定にすること。目線の固定。音と光への反応記録。
ペアを組んでの簡易な観測同期もある。
「隣同士で」
言われて、自然に雨宮澪と向かい合う形になった。
「よろしく」
澪が言う。
「よろしく、です」
呼吸を合わせるだけの簡単な訓練だった。
端末に表示される円が広がったり縮んだりするのに合わせて、呼吸のタイミングを整える。
相手の目を見る必要はないけど、視界の端には入る距離。
最初の数十秒で、不思議なことに気づいた。
やりやすい。
別に自分が優れている感じはしない。
でも、相手に合わせるのが難しくなかった。
むしろ、いつもの集団行動より少しだけ静かで楽だ。
澪の方も、少しだけ意外そうにこちらを見た。
「……あれ」
「何かありました?」
「いや。なんか、普通にやりやすいなって」
その言い方が、少しだけ可笑しかった。
普通にやりやすい、なんて、褒め言葉としてはずいぶん微妙だ。
でも本人は本気でそう思ったらしく、すぐに視線を端末へ戻す。
周囲を見る余裕はなかったけど、何人かは明らかに集中しにくそうにしていた。
椅子に座り直す音。浅くなる呼吸。小さな舌打ち。
御影は特に何も言わない。ただ端末を見ている。
次の訓練は、短いイメージ固定だった。
表示される単純な図形を見て、それを目を閉じたあとも一定時間保つ。
その間、隣のペアとは干渉しないように意識する。
言葉にすると簡単だけど、実際にやると、自分の集中と他人の気配を切り分けるのは少し難しい。
その最中、左前方の席で小さく椅子が鳴った。
誰かが集中を切らしたのかと思ったら、もう一つ、別の席でも似た音がする。
目を開けると、男子生徒が一人、眉を寄せて額を押さえていた。
向かいの女子生徒も、わずかに顔色が悪い。
「続けて」
御影が言う。
「この程度で切らさない」
冷たいとも違う。
あらかじめ想定されている反応の一つとして処理している感じだった。
訓練はそのまま進んだ。
終わる頃には、俺は少し肩の力が抜けていた。
思っていたよりは、ずっと普通だった。
少なくとも、自分に何か劇的なことが起きる感じはない。
ただ、教室全体の空気だけが、最初より少しだけざらついているように思えた。
「おつかれ」
澪が小さく息を吐きながら言う。
「こういうの、苦手?」
「いや……たぶん普通です」
「それなら偉いかも。知覚系、だいたい初回から嫌がる人いるし」
そこで彼女は少しだけ首を傾げた。
「有馬くん、意外と平気なんだね」
「そう見えました?」
「うん。……なんていうか、静かだったから」
静か。
その言い方が、ほんの少しだけ胸に残った。
授業の終わり際、御影が全員の端末に短いフィードバックを送った。
俺の端末には、
《初回反応は標準範囲。継続観察》
とだけある。
標準範囲。
ありがたいような、つまらないような評価だった。
教室を出る時、廊下の先で小さな言い争いが起きていた。
さっき左前方にいた男子と、その相手らしい別の生徒だ。
原因までは聞こえない。
ただ、語気が妙に強い。
数分前まで同じ教室にいた程度の関係なら、そこまで感情が乗るような場面には見えなかった。
「最近、ああいうの多いんだよね」
横で澪が、独り言みたいに言った。
「多いんですか」
「うん。なんか、みんな少しぴりぴりしてる」
本人の声は穏やかなのに、その言葉だけが少し重く聞こえる。
「修学センターって、もともとこんな感じなんですか」
「どうだろ。私は……」
言いかけて、澪はほんの少しだけ黙った。
"私は前もここにいたから知ってる"とも、"復帰したばかりでわからない"とも続けられたはずなのに、そのどちらも選ばなかった。
「ごめん。今のなし」
「いや」
「たぶん、ちょっと疲れてるだけだと思う。みんなも」
そう言って笑う。
ちゃんと自然な笑い方のはずなのに、どこか力が足りない気がした。
そこで別れるつもりだったのに、澪は一歩だけこちらに寄った。
「ねえ」
「はい」
「さっき、ほんとにやりやすかった。ありがと」
礼を言われるほどのことをした覚えはない。
でも、そう言われると少しだけ落ち着かなくなる。
「俺は何もしてないです」
「してなくても、やりやすい人っているから」
言ってから、澪は少し困ったみたいに笑った。
「変な言い方だったかも」
「いや、まあ……わかるような、わからないような」
「だよね」
その"だよね"がやけにやわらかくて、こっちまで変に力が抜ける。
別れて廊下を歩きながら、もう一度だけ振り返りそうになった。
でもやめた。
かわいい人だと思う。
話しやすいし、感じもいい。
それでも、近づきすぎない方がいい気がする。
理由はまだ、はっきりしなかった。
◇
その夜、志岐が歯磨きのあとで妙なことを言った。
「昨日より、なんか変な夢見そう」
「予告みたいに言うなよ」
「いや、なんとなく」
なんとなく、ばっかりだなと思う。
消灯後、しばらく眠れなかった。
新しい場所だから、というのもある。
でもそれだけじゃない。
知覚安定化訓練の教室。御影の声。雨宮澪の視線。
そして廊下で言い争っていた生徒たちの、妙に熱のある顔。
思い出そうとすると、細部は曖昧なのに、感情だけが残る。
ざらつくような苛立ちと、説明しづらい焦り。
それが自分のものなのかどうか、寝る前の頭ではよくわからなかった。
翌朝、朝食の席で志岐が真顔で言った。
「変な夢、見た」
「どんな」
「忘れた。でも、起きた瞬間むちゃくちゃむかついてた」
それを聞いた瞬間、俺の頭の中で、昨日の教室の白い照明が浮かんだ。
理由はない。
ただ、思い出した。
そしてたぶん、その時が最初だった。
雨宮澪のまわりで何かがおかしいのかもしれない、と、はっきり言葉になる前の形で考えたのは。




