第2話 修学センターのルール
寮棟は、外から見た時よりずっと静かだった。
新しい建物特有の乾いた匂いがする。
廊下は広く、白というより薄い灰色で統一されていて、明るいのにどこか冷たい。
案内された部屋の前で職員が立ち止まり、端末を軽く操作した。
「ここが有馬くんの部屋です。相部屋になります」
「はい」
「荷物を置いたら、十九時までに食堂へ。点呼は二十一時。以降の外出は原則禁止。困ったことがあれば各階の寮監室へ」
言い終えると、職員は一礼してそのまま次の仕事へ戻っていった。
あっさりしている。
歓迎というより、手順のひとつを終えた感じだった。
扉を開けると、思っていたより普通の部屋があった。
二段ベッドではなく、簡易なシングルベッドが二つ。小さな机と収納、壁際に端末用の固定台。
病室ほど簡素じゃないし、ホテルほど整ってもいない。
最低限、きちんと暮らせるように作られた空間だった。
そして、すでに先客がいた。
「お、来た」
ベッドに腰かけていた男子が顔を上げた。
俺と同じくらいの年齢に見える。髪は短めで、制服はもう馴染んでいるみたいに着こなしていた。
こっちを一瞥してから、すぐに立ち上がる。
「志岐恒一。中等後期の二年目。たぶん同学年で合ってる」
「有馬湊」
「知ってる。今日の編入だろ」
言いながら、志岐は俺の荷物を見て少しだけ笑った。
「荷物少な」
「そうかも」
「前いたとこ、遠いの?」
「そこまでじゃない」
「ふーん。じゃあ、必要なもんだけ持ってきた感じか」
それ以上は聞いてこなかった。
そういう距離の取り方ができるやつなんだな、と思った。
「ベッドはそっち。収納も番号決まってるから、あとで端末見ればわかる」
「ありがと」
「どういたしまして。あ、食堂まだ行ってないなら早めがいいよ。遅いと残り物みたいになるから」
ここでもう生活のコツが出てくるあたり、志岐はだいぶ馴染んでいるらしい。
荷物を置いて制服の襟を軽く整える。
鏡に映る自分は、昨日までとそんなに変わっていない。
変わったのは右手首に巻かれたアンカーくらいだ。
見慣れないはずなのに、もうそこにあるのが当たり前みたいにも見えるのが少し嫌だった。
「アンカー、違和感ある?」
志岐が聞いた。
「ちょっと。慣れる?」
「慣れるやつは慣れる。慣れないやつは、まあ、調整入る」
「調整」
「出力とか知覚とか、相性で微妙に違うらしいよ。俺は最初の三日くらいずっと気持ち悪かった」
言いながら、自分の手首を軽く叩く。
志岐のアンカーは俺のより少し使い込まれて見えた。
「外せないんだよね」
「外せない。寝る時も風呂以外も基本そのまま。申請とおらない限り無理」
「結構きついな」
「まあな。でも、つけてないほうがきついやつもいるらしい」
その"らしい"は、たぶんここで何度も聞く言い回しなんだろう。
みんな全部を知っているわけじゃない。
でも、自分の届く範囲の噂だけはよく知っている。
◇
食堂は広くて、天井が高かった。
人数のわりに静かで、金属の食器が触れる音だけがよく響く。
並んでいる料理は普通だった。
普通すぎるくらい普通で、逆に少し安心した。
「もっと病院食みたいなの想像してた?」
トレーを持った志岐が、横から覗き込むみたいに言う。
「そこまでは」
「でも思ったよりちゃんとしてるだろ」
「うん」
味も悪くなかった。
施設の食事に不満があったわけじゃないけど、こっちはこっちで"きちんと管理されてる飯"という感じがした。
栄養もカロリーも計算されてるんだろうな、と思う。
席に座ると、志岐はすぐに周りを見渡した。
ただ食事相手を探しているというより、誰がどこにいるかを確認している目だった。
「何見てるの」
「いや、まあ、顔ぶれ」
「そんな大事?」
「大事だよ。ここ、普通の学校みたいに"同じクラスだから仲良くね"で済まないから」
そう言って、志岐は箸を割る。
「通常教科は一応クラスごとだけど、能力系はだいたい流動だし。ランクとか状態で授業ごとに面子変わるし。寮も課程混ざるし」
「大学みたいな感じ?」
「大学ほど自由じゃないけど、まあ近い。時間割はセンター側が組む。こっちで選ぶわけじゃない」
選べるようで選べない。
ここらしい仕組みだなと思った。
「俺、たぶん下のほうだった」
「見た感じそんなもん」
ひどい言い方なのに、志岐が言うとそこまで刺さらない。
たぶん、慰める気がない代わりに、わざと傷つける気もないからだ。
「でも最初はみんなそんなもんだよ。特に編入組は」
「志岐は?」
「Cの上のほう。たまにBに引っかかるけど、安定しないから結局C」
その言い方だと、Cでもだいぶ差があるらしい。
「Aってそんなにすごい?」
「すごい。わかりやすくすごい。将来上位機関行くやつとか、教員の目に見えて扱い違うし」
志岐はそこで少しだけ声を落とした。
「まあ、AはAで大変そうだけどな。見てると」
その時、食堂の奥が少しざわついた。
自然に視線が向く。
制服の着こなしまできっちり整った男子生徒が数人の中心にいた。
同じ生徒なのに、立ち方が違う。周囲の空気が勝手に道を空けているみたいに見える。
顔立ちも整っていた。整いすぎていて、少し冷たい。
あれが、たぶん"そういう側"の人間なんだろうと思った。
「あれ、九条」
志岐が小さく言う。
「九条玲央。Aの上位。高等課程寄り。めちゃくちゃ優秀」
「知り合い?」
「知り合いってほどじゃない。有名なだけ。今日来たばっかじゃなかったら、たぶんもう誰かに名前聞いてる」
九条玲央は食堂全体を見ているわけでもないのに、周囲の生徒は明らかに気にしていた。
ああいう存在が自然に中心に来るのが、このセンターの秩序なんだろう。
「関わらないほうがいい?」
「上手くやれるならそれでもいいけど、向こうから見たら俺らみたいなのは壁とか机と大差ないと思う」
「じゃあ安心だ」
「そういう前向きさ、嫌いじゃない」
志岐が笑う。
俺も少しだけ笑った。
食事を終えて寮へ戻る途中、廊下の壁にセンターの案内図が映っていた。
学習棟、訓練棟、医療観察棟、管理棟、寮棟。
それぞれが渡り廊下でつながっている。
その一角に、薄いグレーでしか表示されていない区画があった。
詳細はなし。立入制限区域、とだけある。
「何あれ」
足を止めて聞くと、志岐は一瞬だけ言葉を選んだ。
「再調整棟」
「……あれが」
「正確には、そのへん一帯。公開案内だとぼかされてるけど」
再調整棟。
名前だけは、来る前の資料にも少し出ていた。
発現不安定者、事故歴のある在籍者、情緒不安定個体への個別支援区画。
そんなふうに書かれていた気がする。
「入るとどうなるの」
「さあ。詳しく聞こうとするやつ、あんまりいないし」
「なんで」
「なんでって……そういう空気なんだよ」
志岐は案内図から目を外した。
「戻ってくるやつもいる。けど、戻ってきたあと、前と同じ感じかって言われると……まあ、なんとも言えない」
それだけ言って、志岐は歩き出す。
「怖いこと言うな」
「怖いんだって、普通に」
言い方は軽いのに、そこだけ妙に本気だった。
◇
翌朝のオリエンテーションは、想像していたよりずっと"学校"っぽかった。
講堂に集められて、前の席から順に座らされる。
壇上にはセンター長と教員数名。
映し出されるスライドには、教育理念だの進路支援だの、見慣れた言葉が並んでいる。
ただ、書いてあることはまともでも、細かい規則の数が多かった。
特に引っかかったのは、未許可の干渉行為禁止、精神状態異常の即時申告、それから観察記録への同意、という三つだった。
最後の一文だけ、少しだけ意味が広すぎる気がした。
「北海道国立QCI修学センターは、諸君の能力を伸長させると同時に、安全な発現環境を維持する責務を負っています」
壇上のセンター長は、落ち着いた声でそう言った。
「能力とは個性であり、同時に社会的責任でもあります。ここでの生活は、諸君を制限するためだけのものではありません。将来、社会の中で適切に力を扱うための基礎となるものです」
内容は正しい。
たぶん、嘘ではない。
でも、それを聞いていて胸が軽くなる感じはなかった。
この場所では、人を自由にするためにも、まず管理しなければならない。
そういう思想が、説明の端々に滲んでいた。
オリエンテーションのあと、簡易の再測定があった。
昨日の適性確認より細かい。
アンカーを装着したまま、視線の誘導や呼吸、簡単な知覚固定みたいなものをいくつか試される。
結果はその場では出ない。
ただ、最後に配られた公開評価票を見て、自分が目立たない位置にいることだけはすぐわかった。
A、B、C、D。
俺の評価は、Cの下のほう。
ギリギリ上から数えたくない場所だった。
「まあ、最初はこんなもんか」
隣で志岐が自分の票を見ながら言う。
「湊、思ったより普通だな」
「失礼だな」
「いや、変に高いより楽でいいって」
その意見には同意できた。
上位に期待されるより、下のほうで埋もれていた方が気は楽だ。
ただ、その"楽さ"がここで本当に通用するのかは、まだわからない。
廊下に出ると、前方で何人かの生徒が九条を囲んでいた。
というより、九条を中心に自然に集まっていた。
彼の評価票は見えなかったが、あの空気を見るだけで十分だった。
志岐がぼそっと言う。
「Aの上位は、先生より先生っぽい時あるんだよな」
「嫌だな、それ」
「嫌だろ。でもそういう空気になる」
修学センターのルールは、紙に書いてあるものだけじゃないらしい。
◇
生活の流れが少しずつ見えてきたのは、その日の夕方だった。
通常教科はだいたいクラス単位。
国語、数学、理科、社会、英語。名前は普通だ。
でも特殊能力系の授業は違う。
時間割は個別端末に送られてきて、授業ごとに教室も面子も変わる。
「自己観測基礎、干渉制御演習、アンカー適応管理……」
端末に並ぶ科目名を読み上げると、志岐がベッドの上から口を挟んだ。
「知覚安定化訓練もあるだろ」
「あった」
「それ、面子よく変わるから気をつけろ」
「何を」
「なんとなく」
なんとなく、で済む説明がこの場所には多い。
「再調整上がりが混ざることもあるし」
「そんなに?」
「知覚系は特にな。状態見ながら混ぜるから」
その言い方を聞いて、少しだけ胃のあたりが冷えた。
「別に危ないって言ってるわけじゃないぞ」
「言ってるようなもんだろ」
「いや、違う。……ただ、近すぎると疲れるやつはいる」
疲れる。
その言い方は、逆に妙に現実的だった。
怪物じゃない。化け物でもない。ただ、人によっては近くにいるだけでしんどい。
それくらいの方が、むしろ怖い。
「明日の二限、それだな」
志岐が端末を覗いて言う。
「知覚安定化訓練」
画面に表示された教室番号を見ながら、俺は右手首のアンカーを無意識に指でなぞった。
冷たさは、もう昨日ほど気にならない。
慣れ始めているのか、ただ感覚が鈍っただけなのかはよくわからなかった。
けど、このセンターで何かが始まるとしたら、たぶんそういう授業からなんだろうな、という予感だけはあった。
夜の点呼が終わり、照明が落ちる。
静かな寮棟のどこかで、遠く小さく機械音が鳴っていた。
寝返りを打つ前に、志岐が暗闇の中で言った。
「そういえば、明日あたり復帰生が戻るらしいぞ」
「復帰生?」
「再調整棟から。噂だけど」
少し間があって、志岐は続ける。
「変に気にしすぎるなよ。でも、何かおかしいと思ったら、見ないふりもしないほうがいい」
「どっちだよ」
「さあ」
それきり声が止んだ。
俺はしばらく天井を見ていた。
見たところで何があるわけでもない、白くて平らな天井だ。
知覚安定化訓練。流動編成。復帰生。
全部、まだ他人事のはずなのに、理由のない引っかかりだけが先にあった。




