002.原作者
多分1か月経過した。
多分、と頭につけたのは、他ならぬこの赤子の肉体の不便さにある。
まず、肉体の制御ができない。俺の括約筋は前も後ろも常に弛緩しており、出る物を我慢できない。布オムツの中が気持ち悪すぎて、すぐに大声で泣いてしまう。
腹が減っている感じはあまりしないのだが、母乳の間隔が長いと意識が遠のく。急速に近付いてくる死の気配に、思わず大声で泣いてしまう。
周囲の人が喋っている言葉を理解しようと聞き耳を立ててみるのに、ストンと寝てしまいそうになり、なんとか覚醒を保とうと踏ん張ってみるが上手くいかない。そして大声で泣いてしまう。
つまるところ、赤ん坊は泣く生き物なのだ。
悲しいから泣くのでもない。生命活動の一環として、泣くようになっているのだ。
まぁ、起きていられないから泣くのは少し感情が入っているかもしれないが。
さて、この1か月間集中して情報を集め、手に入れた情報。
それは……。
「アイロツィ!」
この家の中で、恐らく俺の次に小さいであろう命が俺を抱き上げる。
まだ周囲を見ても景色は酷くぼんやりとしているが、抱き上げられたらその人の顔は良く見える。
俺を抱く人は、俺を『アイロツィ』と呼ぶ。
そう、今世での俺の名前はアイロツィだ。
そして、今俺を抱き上げているのは今世での俺の姉にあたる人物だろう。
まだ幼い。が、言葉を話し、赤ん坊を抱き上げるほどの成熟具合。小学生になる手前くらいだろうか。サラサラの赤い髪から覗く快活そうな瞳がこちらを見つめている。
……とはいえ、中々情報収集は捗らない。
眠いのだ。集中力が保てない。そして、これは今も同じことで……。
姉の腕に抱かれながら、俺は微睡に身を任せた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
生後3か月ほどが経過した。
周囲を見渡せば景色がある程度はっきり見えるし、首も据わったので母に縦抱きされている時に周囲を見渡せる。起きていられる時間もまとまってきて、昼夜の概念もはっきりしてきた。
母は、俺を抱いたまま屋敷を出て、使用人や庭師と会話をよくしている。
だから、俺はしっかりとこの世界の言葉に馴染むことができた。
簡単な単語ぐらいしかわからない。
それも当然だ。教科書を見ながら、単語帳を読みながら言葉を聞いている訳ではなく、「おそらくこういう意味なのではないか」という推論の積み重ねによって言葉を理解していくのだ。
よく聞く単語で言えば、「花」や「奥様」、「料理」などははっきりと理解できている。
それに、使用人との会話ではこの場所がある町の名前や家名も頻出する。
だからこそ、理解してしまったのだ。俺が、何に転生したのか……いや、転生してしまったのかを。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
肩の上で切り揃えられた赤い髪を靡かせながら、眼前の少女は剣を鞘に納める。
王立学士学園との合同演習において、薬の元となる薬草を探す学士学園の生徒を護衛するのが、エルトセムを含む騎士学園の生徒に課せられた演習内容であった。
だが、魔物に怯える学生を守る想定とは裏腹に、その女子生徒は刃を振るったのだ。
それは、幼少から愚直に剣を振るってきたエルトセムから見ても……美しいと言う他ないほどに、見事な剣術であった。
「それほどの腕を持っているのに、どうして学士学園に?」
「……私にはね、弟が居たんだ」
少女は顔を伏せたまま、小声で話し始める。
先ほど魔物を両断したとは思えないほどに、弱弱しい空気を感じる。
……弟が、居た。それだけで、この少女に起こったであろう悲劇は容易に想像できた。
「5歳下の子でね、それはもうとっても可愛くて、お姉ちゃんとしていいとこ見せないと、なんて頑張ってさ。聖騎士を目指すんだ、って剣の腕を鍛えてさ」
聖騎士と言われ、彼女が貴族であることを知る。
エルトセムは、無意識の内に背筋を伸ばした。
「けど、死んじゃった。魔櫃病で、弟は死んじゃったんだ」
魔櫃病。体内の魔力が変質硬化し、体が石のようになって最後には砕け散り死亡する病。
発症前に兆候はあるものの、実際に発症してしまえば死は免れないとされる、原因不明の大病のひとつだ。
「……それは」
「ああ、慰めなくて大丈夫。だから私は学士学園に居るの」
家族を失ったことのないエルトセムにとって、家族を失った痛みは経験したことのないものだ。
掛ける言葉を探そうとして、少女に止められた。
おそらく、彼女は既に乗り越えたのだろう。乗り越えた上で、今がある。
「魔櫃病をね、治せる病気にするんだ。私は、それを生涯の目標にした」
彼女はその首に掛けられた、翼の生えた蛇の意匠のネックレスを手に握る。
「アイロツィ。お姉ちゃんが、あなたの仇を取るから」
亡き弟に捧げる誓い。
それが、薬師を目指す少女、オネネヴ・エトナヴとの出会いだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
これは、俺の書いた小説のストーリー、その一幕。
主人公エルトセムが、剣の才を持ちながらも薬師を志す少女と出会い、愚直に夢を目指せる自分が置かれている環境は恵まれているのだと認識する話だ。
どれだけ優しく、人のためになれる人間であっても、経験したことのない痛みに共感出来る訳がない。エルトセムが、人の心の弱さ、そして立ち直れる強さに触れる、読者からはそこそこ人気のあるストーリー。
アイロツィ・エトナヴ。今世における、俺の名前だ。
オネネヴ・エトナヴ。俺の描くストーリーに登場する、『5歳離れたアイロツィという名の弟を失った赤い髪の少女』。
屋敷内部の壁に掲げられている、翼の生えた蛇の家紋が刺繍された旗。
誰が、無関係だと考えることができるものか。
間違いない。俺は……。
自分が書いた小説の世界。
『平民騎士の英雄譚』にて名前が出てきた時には既に死亡している、脇役に転生したのだ。




